九州を旅して(その4)

                       再び神々の地へ

 今回は、キリシタンの土地から筑紫平野など稲作の中心地へ向かいます。弥生時代から多くの部族がい土地を開拓し、勢力を争った所と、山の中で稲作もままならない土地を回ってみました。

 島原雲仙をで、佐賀―久留米−柳川―菊地渓谷―熊本ー五木ー人吉―松橋ー天草松島と回りました。

 六日目雲仙を後にして島原半島を北に横切り、有明海に沿って諫早に向います。広々とした干拓地が広がりキリシタンの地から来て見ると、海を干拓し稲作が出来る土地がほしくなるのも頷けます。

 諫早から長崎自動車道に乗り、一気に佐賀大野に向かい、嘉瀬川、筑後川などが形成する平野、神々の地に再び戻ってきました。
佐賀大野ICのすぐそば、嘉瀬川の上流、川上川のほとりに肥前の国一の宮與止日女神社があります。この女神は、神宮皇后の妹で、川上川の荒ぶる川の神を静めたという。

6世紀に創建されたと言う神社ですから、地元部族との争いと融和を示しているのでしょう。
秋のおくんちが有名らしいのですが、今は春。川にこいのぼりを架け、花見の祭りをやっていました。

   

                          與止日女神社

 ここから川沿いに下り、佐賀城址に向かいます。ここには、何もないと思っていたのですが、2004年に佐賀城本丸歴史館がオープンしていました。

   

           佐賀城本丸表御門                      本丸歴史記念館

 十代藩主鍋島直正が享保年間に焼けてしまった本丸御殿を天保年間に再建し、ここに行政部門を集めたそうで、その礎石と記録によって再建したとの事。優れた行政手腕で優秀な部下が育ち明治政府の一角をなしたのに対し、同じ時代の水戸藩と比べると何なのか考えさせられます。

 佐賀市から少し東にさかのぼりと、吉野ヶ里遺跡です。
   

                           吉野ヶ里遺跡

弥生時代の初め、紀元前3世紀頃から集落が形成されて古墳時代の初めまで続いた大規模な遺跡です。縄文時代の青森の三内丸山遺跡などと比べて見ると稲作による面積あたりの人口担体率が大きいことが良く分かりました。
何時頃、稲作農耕技術を持った部族が来たのか?自分なりに考えた仮説がなんとなく正しいような気がしてきました。(この件は、別途、書いて見たいと思います)

ここから久留米方面に向かう道は、佐賀平野の穀倉地帯を貫いており、その途中の小高い岡の上に、肥前の国一の宮千栗八幡宮があります。

   

             千栗八幡宮(社殿の手前にあるのがお粥だめしを行う所)

 創建は8世紀で、八幡宮ですから、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后などで古墳時代の稲作が進んでこの地方が開拓されてから出来たのでしょう。神職がいて、茨城から来たというとお粥だめしについて説明してくれました。「今年は、稲作などは中くらい。ただ思いがけないことが起こる」「??」「それは良いことかも知れないし、悪いことかも知れない」と言う話。後で思い知ることになります

 久留米の町は、残念ながら時間がなく通過し、筑後の国一の宮高良大社に登りました。ここはかなり高い山(312m)で筑紫平野の交通の要衝に当たるとか。

  

              高良大社(青いトレパンは自衛隊)

創建は、400年と言われ、祭神は高良玉垂命で筑後の国の国御魂であるということなので、古墳時代のこの地方の部族の神であったのでしょう。後から応神天皇(八幡大神)住吉大神が加えられたと思われます。

登っていくと規律正しい若者達が走って登ってきており、聞けば久留米の自衛隊学校生とか。
展望台から久留米の町が良く見えましたが、曇っていて写真は駄目でした。久留米つつじの原木はここから出たようです。

 ここから、山沿いに南下していくと、筑紫の君「磐井」が生前に造ったという岩井戸古墳があります。ここには岩井戸歴史資料館があります。

   

        図6   磐井古墳に作られた大神宮と資料館の出土品

ここの史料に寄れば、この周辺には多くの古墳がありますが、大和朝廷に従った部族が建造を許されたという前方後円墳は少なく磐井のものが最大のものです。

従って、ここもまた、弥生から古墳時代にかけての有力な部族の土地だったのでしょう。
墓の装飾品が、焼物の埴輪でなく、石造ということは、この時代には大陸の医師の加工技術が伝播していたということでしょうか。

磐井は、527年の大和の朝鮮出兵に対して反乱を起こして鎮圧されていますが、8世紀前半には、九州南部の隼人が反乱を起こしたりして、九州を完全に制圧するのは、奈良時代以降までかかったと思われます。

 ここから3号線を南下し納楚という古い町並みを通り、さらに南下して清水山清水寺という、9世紀に最澄が開山したという寺に向かう予定でしたが、時間が遅くなったので柳川に直行しました。ここに行けなかったのは残念でした。

柳川は、ご存知、北原白秋の生家のある水郷です。しかし、5時も回ってしまい、時間切れ。柳川の風景を市のパンフレットから転載します。
今、柳川月遅れのひな祭りですが、ここ独特のさげもんという飾りがあちこちに飾り付けられていました。

         宿のそばの船着場                   川下りの風景                                                                     
 さて、夜は名物のうなぎを食おうと近くの三社神社の夜桜を見に行くと、神社は放火で焼けていました。ここでもカメラがおかしくなり、通りに戻ろうとすると向こうに、パソコンーーなどという看板が見えます。あそこなら見てもらえるかもしれないと、急いで駐車場らしき所をつッ来ていこうとすると、ワイアーが張ってあり、転倒。右手、ひじ、右足の膝頭、つま先と強打し手しまいました。「思いがけないことが起こる」と言うお粥だめしの御宣託を思い出しましたが、後の祭りです。

 うなぎ屋は、有名らしく客が大勢来ていて、氷などもらって、うなぎが来る間、隣のアベックとさげもんの話などして、機を紛らわせていました。女の子いわく、おばあちゃんが作ってくれたとの事。

               

           さげもんを下げた雛飾り 


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