九州の旅(その3)

 

5日目は、駐車場が7時にしか開かず、少し待って7時丁度に出発です。太平洋を見ながら国道499号野母崎に向かって進みます。 この辺もまた、稲作が可能なところは殆どありません。

途中、沖合に軍艦島が見えてきます。今は廃坑になったグラバーが開発した高島炭坑の跡です。

                     

                        端島(別名軍艦島)

 野母崎も特に何かがあるわけでもなく小さな漁港があるのみです。ここから、反対側の県道32号を帰ってきました。こちらは、非常に狭い道で、山の斜面を切り開き、びわなどを栽培しています。

                 

                       袋をかぶせたびわ

このような道が延々と続きます。途中から、長崎自動車道に乗り、国道251号で橘湾を回り、島原に進みます。途中、独特の石積みの畑が広がり、ジャガイモが植えてありました。

                 

                      橘湾沿いのジャガイモ畑(石積みの段々畑)

               
 
                       千々石観光センターからの橘湾

千々石観光センターにより、島原半島に入り、橘湾沿いを進み、先端の口之津港を経て、原城跡につきました。

        図24   原城跡から見た周辺と城内の天草四郎の墓

 勝手な想像ですが、徳川になり領主も棄教して禁教令も厳しくなった事もあるでしょうが、貿易などで得られた収入がなくなった領主が、それでなくとも稲作も出来ないような貧しい農民に今まで以上の重い税をかけたのが反乱の原因ではないでしょうか?

数万人の農民が信教を捨てずに戦い抜いたことがよく言われますが、この程度のことは、すでに長島一揆比叡山の焼き討ちなど戦国時代では当たり前のことであったことを忘れてはならないでしょう。キリシタンだからということばかりではなく、逆らうものはまとめて皆殺しというのが効率の良いやり方であるとも言えるのです。

 さらに進んで島原に来ました。走ってきた道と反対側に諫早から口之津まで島原鉄道が通じていますが、ここもまた、廃線になるそうです。

島原市には雲仙の平成大噴火の記録を纏めた雲仙岳災害記念館があります。

   

           雲仙岳災害記念館               眉山と平成新山

禄高不相応な城といわれる島原城から武家屋敷跡を見て、島原まゆやまロードを通り、国道57号線で、雲仙温泉に進み、国民宿舎青雲荘に泊まりました。ここの小地獄温泉は有名です。

   

            島原城                          武家屋敷

                   

                       武家屋敷の水路      

             

                         土石流防止ダムと平成新山            

      

    仁田峠循環道路から見た平成新山                      小地獄温泉

 今回の道は、厳しい自然環境にびっくりしました。一神教はこのような環境の人々の心を捉えやすいのかもしれません。

2−3世紀頃の北九州でも、寒冷化で厳しい環境となった人々の心を新しい渡来人が捉え、国譲りやら、熊襲征伐やらと新しい国家が形成されていったのかもしれないと思ったのです。

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