九州の旅(その2)

     キリシタンの地へ

 平戸大橋を渡るとそこは、平戸島です。ここから先はキリシタンの影が色濃く残っています。今回は旅の三日目後半からの記録です。

平戸島―生月島―佐世保―西彼杵半島ー長崎―野母崎―島原ー雲仙と言う経路です。
平戸から南の地方は、朝鮮半島との関係よりは、大陸や台湾、沖縄などとの関係の方が深いように感じました。

 松浦、平戸などは、源平の戦いや元寇で大きな働きをした松浦水軍の根拠地で、その後も、明の王直を住まわせ、その手引きでポルトガル船が平戸に入港、1550年、ザビエルがきて

キリスト教を布教、明末には鄭成功などもここにいたという16世紀後半からオランダ商館が長崎に移るまで、海外との関係は非常に深い土地であったのです。

                     平戸城から見た平戸の町

 イエスズ会も、布教によって信者も増えたようですが他の大名と違い改宗もせず、スペインやポルトガルは、ここから離れて大村、有馬といった大名攻略に移っていったと言うことです。
そして、貿易を重視で、オランダ、イギリスなどが商館を開いたのでしょう。

                    

                           平戸城(昭和37年再建)

 平戸城を出て、河口を回ってオランダ橋(幸橋)を過ぎ、松浦史料博物館に行きました。

                    

                               オランダ橋

ここは藩主であった松浦氏が明治になってから住んだ住居を博物館にしたところです。周囲は、 武家屋敷があった面影を残しています。

                  松浦史料博物館と対岸の平戸城

 ここには、様々なお宝がありましたが、松浦家の歴史を見た時、海の民としておそらく弥生時代から北九州地方に住んでいてたのでしょう。

その後、源平の合戦から秀吉の朝鮮征伐まで、長い歴史を持っていたことが、ポルトガルなどを排除し、オランダや英国と結んだなど、天草、島原などの領主と違う道を歩んだのではないでしょうか。今回、時間がなくていけませんでしたが、平戸島の南端には、志志伎神社という延喜式にも載っている神社が残っています。
そこは、宗像神社と同じく、沖ノ島があり、そこに沖津宮があるということです。

天草、島原の宗徒や大名が、神社仏閣を破壊してしまったのと異なり、海の民として長い歴史を持つ松浦一族は、祖先神である神社を捨てなかったものと思われます。 そして、松浦家の孫が明治天皇というのも何かの因縁なのでしょうか。

「イエスかノーか」とインカやマヤを滅ぼし、その神殿の上に境界を建てるようなやり方より、「神も仏も」と言うやり方の方が、自分にはあっていますがーー

河口付近にはオランダ商館、少し奥にはイギリス商館の跡などもあるのですが、山側の道をたどって、ザビエル記念聖堂に行きました。

                  ザビエル記念聖堂

 ここにある説明碑文によれば、秀吉の禁教令よりも30年位前にすでにこの地ではキリシタン排斥が行われていました。これは、南の島津氏が大友氏と争ったのと同じく、松浦氏が大村氏、有馬氏と争ったのが原因とも言えるのではないでしょうか。

 資料館と記念聖堂の道は長く、予定以上の時間がかかってしまいました。

この周辺の見物はこれで終わり、生月島に行きました。ここの北端に大バエ灯台があり、そこまでドライブして、塩俵の断崖という、柱状列石を見てきました。この島は、周囲が崖で殆どが人が住めないような所です。

         大バエ灯台                       塩俵断崖

 再び、平戸島に戻り、南端までは時間がなく無理なので、ほぼ中央の紐差まで行くことにし紐差教会を見てきました。やはり、キリシタンの島と言えるだけに、村々には教会があり、神社や寺は殆どありません。                     

                       紐差教会と周辺

 平戸大橋から204号線を南下して、県道18号線で佐世保に向かいましたが、途中で北九十九島の風景はあまり見る頃ができず、西海パールシーリゾートの近くに泊まりました。

 

 四日目は、早めに出て、佐世保から突き出た半島にある展海峰という展望台に行きました。

ここであったおじさんが、昨日は北に帰る鶴が沢山飛んでいたよと教えてくれましたが今日はいないようです。靄がかかって昨日ほど見通しが良くないのが残念です。



                 展海峰から見た南九十九島
 
                     

                  展海峰から見た佐世保方面

 ここから戻って、ハウステンポスを横目に見て、大村湾唯一の潮の出入り口西海橋へと進みます。隣に西海パールラインという高速が出来て、折角の眺めも台無しです。

        お邪魔な新西海橋                       西海橋

さらに、国道202号線を海岸に沿って進みます。この辺の海岸は山が迫って稲作には向いていません。海岸沿いの道を進んでいくと、道の駅「夕陽が丘そとめ」があり、ここで一休み。この道の駅は、その名のように丘の上に立っていて、少し下ったところに、遠藤周作文学館があります。

ここから少し進むと、遠藤周作の小説「沈黙」の舞台となった黒埼教会があります。

この教会は、1571年に作られ、明治になってから隠れキリシタンが発見?された後、再建されたものだそうです。自らも悩めるキリスト教徒であった周作の死後、遺族から寄贈された遺品で文学館が作られたとのことです。



      道の駅から遠藤周作文学館                 黒崎灯台

                     

                        遠藤周作文学館

 少し手前の大野教会の近くに彼の小説の一節からとった文を刻んだ「沈黙の碑」があるそうですが見逃しました。

 

 さて、いよいよ長崎です。202号線から県道、206号線と浦上側から入りました。平和記念像の公園下の駐車場に車を止め、周辺を散策しました。

                  平和記念像と折鶴の塔

 昼に長崎ちゃんぽんなど食って、ここから坂を少し下ると永井隆博士に地元の人が提供したという2畳一間の家があります。博士はこれを「如己堂」と名づけ晩年を過ごしたそうです。さらに、坂を下ると浦上天主堂です。

                      

                          永井博士の如己堂

                     浦上天主堂と被爆した天使像

 浦上地区には、歴史民俗資料館があるとNAVIにも出ていましたが、狭い道で見当たらず、それなら市内に歴史文化博物館があるので行って見ましたが、とにかく一方通行が多く、あちこちと彷徨う羽目となり、結局あきらめて、グラバー邸の側の駐車場に車を入れて出てくると、

調子のいいタクシー運転手寄ってきて案内するよというので、二人で5000円なら安いと定番の観光地を走ってもらい、最後にグラバー邸の所で下ろしてもらいました。

        出島オランダ商館跡のミニアチュア       めがね橋

     図15 オランダ坂                       孔子病

            興福寺と長崎の寺のマップ(沢山の寺があります)

 興福寺は日本で最初の唐寺(中国人のための寺とでも言いましょうか)で隠元が第三代の住職であったことで有名。キリシタンでない証に積極的に寺をたて、唐寺が4つあるらしい。
長崎は「坂の町」「一方通行の町」そして「寺の町」であった。

 孔子廟では、館内にいた中国人に、本当は商売の神である関帝廟でも建てたかったんじゃないのかねと冷やかしたら、あれは横浜と神戸でここは違いますといわれてしまった。

                グラバー邸から見た長崎

                同じく市街中心地

                         グラバー邸

 グラバー邸とその周辺は主として三菱重工が寄贈した幾つもの建物を纏めて配置してあり当時の西洋人の生活ぶりが分かります。グラバーの子孫達は、太平洋戦争などの荒波に埋没してしまったようで、同情に耐えません。

ここの出口には、おくんちに使う曳き物なども展示されています。

そして、すぐ側が、大浦天主堂です。

                        おくんちの曳き物

                  

                           大浦天主堂

 夜は、長崎駅前のビジネスホテルに泊まりました。すぐ横があの殺害された市長の選挙事務所となっていたのには驚きました。大都会では、殆どビジネスホテルに泊まります。

夜は、好きな所で飯が食える、朝はいくら早くても良い、LANも使えるということからですが、今回は失敗しました。車を預けるのが立体駐車場。朝は7時からしか開かないのです。
  
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