九州を旅して(その1)
九州旅行は、この地方の歴史、特に「神」との関わりについて知ろうと欲張った考えで出来るだけ多くの神社、寺院、教会を回ってきました。(勿論、温泉、観光地も)
(第一回)神々の国
今日は、いよいよ、北九州です。今回は北九州から西九州方面について主としてまとめて見ます。ルートはほぼ次のようなものです。
門司―小倉―博多ー唐津ー呼子―加部島―名護屋―伊万里−武雄ー有田―松浦ー平戸
大宰府などは何回も行っているので省略しました。
この道は、古代の神々、元寇、朝鮮出兵、キリスト教伝来などの歴史が複雑に絡み合っています。
九州の一日目は、山口の湯田温泉を出て、九州の玄関口、関門海峡まで来るとめかり神社があります。ここから福岡まで多くの古い神社が点在しています。
めかり神社から海峡を望む
小倉城址に行きましたが、改修中で通り過ぎ、遠賀川を越え、しばらく行くと宗像神社です。ここは日本で最も古い神を祭った神社ではないかと思います。天照の系列ではないと思われる3人の女神(一応、子供ということになっていますが)が祭られており、その神を祭った沖ノ島には弥生時代につながる数多くの祭器や供物が残されています。(世界遺産にしようとしています)ここの博物館は一見の価値があるでしょう。
宗像神社
ここたらさらに進むと宮地嶽神社があります。ここは、山の中腹にある神社ですが、その参道は海岸まで続き、さらに海の中に鳥居があり、その先に相島があります。ここの主神は神功皇后です。出雲大社より大きいという注連縄が特徴です。
宮地嶽神社
はるか海中の鳥居とその反対側の参道
ここからさらに進むと香椎宮に着きます。
香椎宮
香椎宮は、仲哀天皇が親征の時にここに陣を張り、熊襲征伐に当たって占いをしたところ、「熊襲より三韓を打つべし」とのお告げであったがそれを守らなかったため天罰を受け死んでしまい、その皇后の神功皇后が三韓征伐をした所に造られた廟が元になっています。
九州には、このお二人と子供の応神天皇(八幡大菩薩に擬せられる)を祭った神社が多くあります。香椎宮はこの三神と海の神である住吉大神(表筒、中筒、底筒男神)が祭られていますが、先の宗像神社が女神であるのと対照的ですね。
これは、当時の九州にあった色々な勢力、それらと朝鮮との関係などを表しているのではないでしょうか。
さらに進んでいよいよ福岡市内に入ります。ここには、「筥崎(八幡)宮」があります。有名な「敵国降伏」の扁額のある楼門は、補修中で見ることが出来ませんでした。ここの参道も、一直線に海に向かっています。
筥崎宮の鳥居(向こうが補修中の楼門)
楼門と扁額
この扁額は、創建当時(923)に醍醐天皇から賜った宸翰(国宝)を模写したものです。また鳥居に、元寇の時亀山上皇が書かれたものもあります。なぜ、923年という時代に「敵国降伏」かというのは興味深いですね。
さらに進むと、筑前国一の宮の「住吉神社」があります。
ここの祭神は、香椎宮に祭られた住吉大神(表筒、中筒、底筒男命)で、ここが全国の住吉神社の総元締めと言われています。
「筥崎宮」も筑前国一の宮とも言われており、3つの神社の関係は複雑です。
住吉神社(博多のど真ん中にある)
最後に黒田長政が築城した福岡城址に始めて行きました。(出張で、あれだけ来たことがあるのに初めてとは!!)桜がほぼ満開でした。
福岡城址
今日は、博多に泊まりです。
我家の神さんが天下り、九州は佐賀県に行ってないので、その辺を中心に見たいと言う天の声です。
さて、二日目は、虹ノ松原と唐津くんちで有名な唐津を通り、朝鮮との関係で切っても切れない名護屋城址、焼き物の町、伊万里と回りました。
唐津城から虹ノ松原を望む(左の松原沿いにやってきます)
唐津城も築城ブームの昭和40年代に再建されたものですが、中の展示品でこの辺の歴史が良く分かります。
唐津城(邪魔なおばさん?) くんちの曳山
「くんち曳山展示場」は、唐津神社の横にあり、この神社も海の神である住吉大神と領主であった神田氏を祭ったものです。
唐津から烏賊で有名な呼子を過ぎ呼子大橋を渡ると加部島です。この島には、遣唐使なども航海の無事を祈ったという田島神社があります。この神社の祭神は宗像神社と同じ3人の女神です。
北九州のこの一帯が同じ部族に属していた証拠ではないかといわれています。その末裔が、海賊の松浦氏だと言うのです。
風の見える丘公園から見た呼子大橋 田島神社
ここから戻ると秀吉が朝鮮征伐の基地とした名護屋城址です。大阪城にも匹敵する広大な敷地に城を作りましたが、戦後、利用されることを恐れて、殆どが破壊されています。
諸国の戦国大名たちが陣屋を構え、ここに一年以上も住んでいたのです。そして、その頃、ポルトガルなどから日本にもたらされたものを、日本中に広めることになったのです。
それは、何でしょうか? 佐竹義宣などが一生苦しんだもの、すなわち梅毒です。
名護屋城址
名護屋城址の横に、名護屋城博物館があります。有史以来の日韓の歴史が日本語とハングルで遠慮がちに展示されています。まあ、この戦争でやりたい放題、陶工などを大勢拉致してきて、日本の陶磁器を開発した訳で伊万里や有田などでも韓国語の表示が多いのも仕方がないでしょう。
ここから国道204号線を南下して伊万里まで来ることになりますが、この204号線から東側が、古代からの日本と朝鮮の関係が最も深い地域といえるのではないでしょうか。
ここから西側は、むしろ、沖縄や中国、後には西欧との関係が深い地域となり、キリシタンという形の侵略的な一神教に侵された地域とも言えるでしょう。
世界を二分する密約を結んだスペインとポルトガル、最も排他的なイエスズ会の宣教師などの影響で、寺院や神社は焼き討されてしまい、平戸から長崎、島原に至る一帯には、古い寺や神社は、何もないのですから。
伊万里と言えば、お宝鑑定団の定番ですが、来て見て分かったことは、実はこれが商標と言っても良いものということでした。鍋島藩の財政を支えるものとして、有田などの焼き物を、伊万里港から運び出す、その御用商人がここに本拠地を持っていたのです。
伊万里の陶器商家 鍋島藩窯のあった大山内山の町並み
伊万里から少し離れた山水画に出てくるような山並の中に大山内山があります。江戸時代は鍋島藩窯の在った所で、関所があって出入りも制限されていたとか。今は多くの窯が立ち並んでいます。ここから武雄温泉まで行き、そこに泊まりました。
さて、三日目は、焼き物の本場の有田から松浦を通り、平戸島へ向かいます。ここから佐世保までキリシタンの世界の第一歩です。松浦から先はキリシタンが勢力を持った所、ここまでとはかなり雰囲気が違っているということが今回の旅で良く分かりました。
有田では陶山神社に行こうと探しましたが良く分からず行けませんでした。
そこから戻って17世紀初め陶工李参平が日本で磁器に必要な陶土を始めて発見し、柿右衛門などの磁器を生み出す元となった泉山磁石場跡に行って見ました。朝鮮からつれてこられた陶工の子孫がこの地で焼き物を発展させた事に感銘した次第です。
ここから、佐賀県立九州陶磁文化館に行きました。展示品の大半は、蒲原、柴田という収集家が寄贈したものでしたが、良く分からぬ小生にも素晴しいものと思われました。
李参平の碑と泉山磁石場跡
有田を後にして海岸をしばらく行くと、平戸大橋です。
平戸はキリシタンと海賊松浦氏が交わる古い日本と西欧との接点とも言えるでしょう。
いよいよキリシタンの世界ですが、長くなるので三日目の後半からは(その2)とします。
平戸大橋
(ついでに)
九州の人は、橋をかけるのが大好きです。皇居の二重橋を作ったのも九州の石工とか。
先の福岡市長も博多を橋だらけにしたといわれています。
島、谷、川とあらゆる所が橋だらけ。これからの旅でも沢山で出てきます。見果てぬ夢のひとつが、関崎と佐多岬を結ぶ九四架橋でしょう。