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米国同時多発テロ 9月11日の悲劇から学ぶこと

アメリカの世界貿易センタービルがテロリストによってハイジャックされた旅客機で爆破されたのは2001年9月11日。この悲劇が私達に教えてくれたことの一つは、この地球上の様々な地域の人々が、日々どのように暮らしているのかをリアルに知ることの難しさと大切さです。

テレビで流れたニューヨークのビル倒壊シーンは、現実でありながらリアリティを持たない、さながら「ダイハード」の新作のようにも見えました。そして今、私達はアフガニスタンのタリバーンに対して、メディアによる新たな幻影を抱かされ始めているのかもしれません。今こそ、仮想現実に慣らされ、麻痺した現実感覚を呼び覚ます。傷の痛みや手の温みを感じられる生身の感覚を取り戻すべき時であることを痛感します。

テロを防ぎ戦火を静めるのは、巨大な空母や何万もの古びた小銃ではありません。武力による報復は「やられたらやり返せ」という教えを子ども達に教えることに他なりません。

私たちは憎悪と破壊の連鎖を断ち切る力を手に入れるべきです。それは、一瞬のうちに瓦礫の下に埋もれたニューヨークの人々の姿と重ねて、アフガニスタンの山中で何10年もの間、戦禍のもたらす飢えや絶望にさらされてきた人々の姿を想像する力です。

一見平和に見えなが様々な問題を抱えた日本に暮らす私たちは、この悲劇から何を知り何を学ぶべきか。未来を託す子どもたちに教えるべきことは何かを考える絶好の機会です。

今回の事件をめぐる3人の女性の活動や生き方を並べてみることで、それを考えてみたいと思います。


バーバラ・リーさん

かけがいのない命や未来を、テロによって奪われた人々の悲しみや怒りは計り知れません。報復を求める激しい憎悪が生まれるのも自然です。しかし、それを乗り越えていく力こそが、私達が育てていくべき力なのではないでしょうか。

2001年9月14日には、アメリカの下院議員でブッシュ大統領に武力行使を認める決議が採択されました。その時、たった一人反対票を投じたカリフォルニア州選出の女性議員バーバラ・リーさんの記事が2001年9月16日付朝日新聞朝刊に載っています。彼女は「だれかが抑制を利かせねばならない。決議の意味をじっくり考えるべきだ」と訴え、武力行使が世界的に暴力の悪循環を生みかねないとの懸念を示したのです。採択は賛成420、反対1となり、大統領が求めた上下両院の満場一致≠ヘ実現しませんでした。

彼女は1998年のイラク空爆にも反対。1999年のコソボへの部隊派遣では下院でただ一人決議に反対。ブッシュ政権が離脱を宣言した地球温暖化防止の京都議定書を支持。2001年7月には「平和省」の新設法案を提出しています。


ファタナ・ガイラニさん

内戦が続くアフガニスタンでは約300万人が混乱を避けるためにパキスタンに逃れています。そのパキスタンのペシャワルで、アフガニスタンの子どもと女性の困難な状況を変えようと活動している女性がいます。タリバーンの暗殺リストに女性で唯一名前を挙げられている「アフガニスタン女性協議会」(AWC)の代表ファタナ・ガイラニさん(47才)です。1999年10月8日付朝日新聞朝刊に、次のような紹介があります。

ファタナ・ガイラニさんは難民キャンプの女性や子どもを見て「社会を変えるためには、女性が正しくイスラム教を解釈し、権利を自覚できるための教育が必要」と思い、1986年にペシャワルでAWCを設立したのです。

旧ソ連軍との戦争とその後の内戦で、1万人以上の男性が命を落とし、女性と子どもが取り残されました。しかし、タリバーンは、女性の教育や就労を一切認めておらず、女性一人の外出も許されていません。そのため、女性は生活の糧を得られず、やむなく売春や物乞いをしたりするしかないといいます。

子どももストリートチルドレンになるか、武装集団の兵士として訓練を受け「武装集団の論理とカラシニコフ銃の使い方しか知らない大人になってしまう」そうです。

彼女はタリバーン政権とは真っ向から対立しており、「彼らの政策はイスラム教ではない。彼らはイスラム教を人々を支配、抑圧する口実にしている」と批判。「神が人間に与えて下さった権利を、全ての子どもと女性が享受できる社会にしたい」と願っています。

ここで忘れてならないのは、女性や子どもたちへの被害は、敵対する双方に生ずるという、当たり前過ぎる事実です。2001年10月1日付朝日新聞夕刊には、タリバーンと敵対する北部同盟の18才の少年兵アブドル・バシール君の様子が掲載されています。

4年前、タロカン近郊の生まれ故郷にタリバーン軍がきて、市場で店を開いていた彼の父と兄2人は殺されました。彼は復しゅうを誓い、14歳で志願兵となり、高度千数百メートルのタロカン山脈の最前線に配置されています。故郷には母と4人の妹がいますが、事件以来一度も会っておらず、米軍のタリバーン攻撃を期待するものの、都市の空爆を心配しています。彼は取材の記者に対して次のように語りました。

「毎日のように戦っていると、自分の将来に希望が持てなくなる。(小麦や米で支給される)軍の給料では家族を養えない。死んでしまいたいとよく思う。もし平和でチャンスがあれば、学校に行ってみたかった」


西垣敬子さん

タリバーンの名が日本でも広く知られるようになったのは、今年の春のバーミヤン仏教遺跡爆破からでしょう。しかし、日本で暮らす人々にとってイスラムの世界はあまりに遠く、

アフガニスタンに侵攻した旧ソ連軍が1989年に撤退したのちは、アフガニスタンは忘れられた存在だったのではないでしょうか。そうした中で、一人の日本人女性が、アフガニスタンの女性や子ども達を援助し続けていました。2001年9月28日付朝日新聞朝刊と、2000年8月7日の大阪読売オンラインニュースの記事をもとに、以下紹介します。

宝塚市に住む西垣敬子さんは1993年の夏、アフガニスタンの内戦で地雷によって足を失った兵士や、銃を持つ若者たちの写真展を見ました。戦争の愚かさと悲惨さを実感した彼女は、翌年1月、戦争で夫を亡くした女性や子どもたちを支援しようと、宝塚・アフガニスタン友好協会を設立しました。そして、その年の11月には「赤ん坊にミルクを」と呼びかけて集めた40万円を持参して、アフガニスタン東部のジャララバードの難民キャンプを訪れました。

以後年に2〜3回、日本で寄付を募ってはミシンや文具を贈り、夫が死ぬなどして収入を得られなくなった女性らの仕事作りにと刺繍の糸を届け、現地滞在中は、女性たちが一人でも生きていける技術を身につけることができるよう、刺しゅうや裁縫の教室を開いてこられました。

タリバーンが支配するようになった1997年以降は、女性の就業・就学が禁じられたため、女性教師は仕事を、女の子は学ぶ場を失いました。娘に教育を受けさせたい親たちは費用を出し合い自宅などに「元教師」を招いて寺子屋式の私塾を開いています。それを西垣さんは「隠れ学校」と呼び、教師の月給約2000円を援助しています。

西垣さんは大学を卒業後、しばらく「普通のおばさん」だったそうです。しかし、1980年、44歳でかねてから興味のあった仏教美術を専攻するために神戸大文学部の学士入学試験に挑戦して合格。50歳を過ぎた1987年から2年間は、若いころから好きだったフランス映画で覚えたフランス語を生かして、大阪市内のフランス総領事館に勤務。1990年には、英語を身につけるために半年間イギリスに留学。

そして1994年、戦禍のキャンプに飛びこみ、アフガニスタン女性を援助する活動を開始。その原動力は「やってみないとわからない」という思いだそうです。アメリカ軍を中心としたテロ報復の攻撃が予定されている2001年秋、66歳となった西垣さんは情勢を見ながら再び現地に足を運ぶ予定です。


共生社会実現のために育てるべきもの

20世紀の後半、様々な条約や法律が生み出されました。社会的弱者であった女性の人権が認められ、社会的(政治的・経済的)にも精神的にも自立した存在となることが保障され、かつ求められつつあります。そして、子どもたちの人間としての権利も認められつつありますが、それらを世界の隅々に実現する道のりは険しく遠いものです。

バーバラ・リー、ファタナ・ガイラニ、西垣敬子。国も立場も活動の内容も違いながら、3人に共通して感じるのは、問題の本質を見極める理性、問題解決への強い意志、そして卓越した行動力です。これらはかつて「男らしさ」として位置付けられ、女性が不得手とするもののように言われてきました。しかし、弱者を支え、平和を築くために必要なことを言い、し続けてきた中心に女性がいるのです。

男性中心に作り上げられてきたこれまでのやり方≠ノとらわれず、流されずに発想する。障害や抑圧、脅迫にも屈せず発言する。守るべきものと果たすべき役割を自覚し、行動する。自立のための知識や技術を身に付け、育てる。こうした彼女らの姿勢こそ、閉塞状況にある日本の社会や教育現場に求められるものではないでしょうか。


学ぶことの意味

不登校・いじめ・学級崩壊・学力低下etc.日本の学校では、学ぶことの難しさばかりが目に付き、学ぶことの喜びや目的が見えにくくなっています。国や社会の問題ばかりかクラスや家族、友達同士のかかわりでさえ、互いが抱える大変さやつらさを共有することが難しい。

ダイオキシンも児童虐待も自分の進路についての不安も、大人も子どもも、すべての解決を「一人一人の心がけ」「一人一人のがんばり」という耳に優しい言葉で済ませがちな風潮。それが結果的に人と人との絡み合いを遠ざけ、あらゆる問題の解決を阻んでいるのかもしれません。

「一人一人はそれほど強い存在ではない」「誰であれ、手助けなしには生きられない」という当たり前の事実からスタートした時、初めて解決への道が開けてくるのではないでしょうか。

勉強する意味や目的について、多くの母親や父親は「勉強はあなたの将来のため」と言って励まします。これは軍国主義時代の「お国(天皇)のため」よりはましのようにも見えます。また、物質的な貧しさが目の前にある時には、相対的に豊かな生活を目標にすることは動機付けとして有効だったかもしれません。しかし、「競争」から「共生」へと移り変わりつつある時代にあっては、逆効果でしょう。

宇宙や神秘、人間や自然に対する純粋な知的好奇心が育まれる環境や、それを引き出す親や教師や仲間があれば幸せです。しかし、抑圧や戦禍の中で、あるいは溢れかえる豊かさの中で、それが見当たらないと言って嘆いていても未来はありません。

「誰と手を携え、何を変革するために、どんな力が要るのか」、「人とのかかわりの中で自分をどう役立たせることができるのか」という視点が定まった時、学ぶことへの大きな意欲が生み出されてくるのだと思いませんか?