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 朝廷では、端午節(五月五日)には午門の外で、朝廷に仕える官たちに蒸した餅やちまきが賜われ、酒もたびたび振舞われた。文職に就く大臣は皇帝に付き従って後宮の庭園へ入り、武官たちが柳を射たりする姿を観賞することができた。それが終わった後は、皇帝が母后(皇太后)を迎えて廷内の沼へ行き、竜船を見物するなどして、大砲を撃つ音が絶え間なく響いた。これは宣徳帝以後の事であろうと思う。そして丙戌の年(憲宗の成化二年か?)、大砲の音が聞こえてこなかったので人々は不思議がった。後に聞いたところでは、この日宦官たちが大砲を撃とうとした所、皇帝がそれを止めさせてこう言ったという。「貧しい者たちにこれを聞かせるのは問題があるだろう。」これは皇帝が国民を憐れむ言葉であり、ここに優れた知恵と人格が見えるのである。

 

 奉天殿ではいつも朝見が行われる。皇帝が着席すると宦官が小さな扇を持って来る。それは黄金色の絹で包まれている。以前ある老将軍が言っているのを聞いたが、それは扇ではなく、名を卓影辟邪というらしい。永楽帝の時代に外国から贈られたものだそうだが、そんな名を聞いても何をするものなのかはもうわからない。

 

 最近、洪武四年の科挙の記録を見た。総提調として中書省の官が二人。読巻官として祭酒、博士、給事中、修撰それぞれ一人。監試官として御史二人、掌巻、受巻、弥封官として各主事が一人。対読官として司丞、編修が二人。捜検懐挟、監門、巡綽として所鎮撫官が一人ずつ。礼部提調官として尚書が二人である。次に御試(皇帝が行う試験、殿試。)の策題(題を設けて経義や政治上の意見を試問する)について書かれ、続いて恩栄次第(朝廷に何か問題が起こればすぐに殿試は日程を移される)について書かれている。
 洪武四年二月十九日に廷試が行われた。二十日に午門外にて(合格者の)名が呼ばれ、黄榜(成績を発表する掲示板)がはり出されると、奉天殿にて皇帝がそれを聞き意向を述べられた。同じ日のうちに(合格者に)新しい官職が授けられ、奉天門にて(合格者から)謝恩がなされた。二十二日中書省にて宴が催された。二十三日には国子監にて先聖(昔の聖人)に拝謁し、釈菜礼(聖人に野菜を供える祭)を行った。第一甲の三名に進士及第を賜り、(成績が)一番だった者には員外郎が授けられ、(成績が)二番、三番だった者には主事が授けられた。第二甲の十七名には進士出身を賜り、全員に主事が授けられた。第三甲の百名には同進士出身を賜り、全員に県丞が授けられた。姓名の下に記す戸籍は現在の形式と同様であり、国初(明代初め)の制度の簡略さはこのような様子であった。
 現在の進士登科録を見ると、最初に礼部の官が殿試の日程についてや、読巻及び執事の官の人数や進士出身などの段階ごとの試験について奏上している。皇帝はそれらを承諾するのだが、その言葉を「玉音」というそうだ。次に、読巻、提調、監試、受巻、弥封、掌巻、巡綽、印巻、供給それぞれの官職名が記録されている。また次には、三月一日に貢士(会試合格者)が内府へ赴いて殿試を受けるさまを記録している。皇帝が奉天殿にお越しになり自ら策問(=策題。題を設けて経義や政治上の意見を試問する)された。三日の早朝、文武百官は朝服にて参上し、錦衣衛は鹵簿を丹陛、丹[土+犀]の内に設置した。皇帝が奉天殿にお見えになると、鴻臚寺の官が陛下の命令を伝え、大きな声で(合格者の)名前を読ぶ。礼部の官は黄榜を棒で叩きながら、鼓楽に導かれて長安左門を出、門外に(黄榜を)はり出して終わる。順天府(旧北平府、現在の北京周辺)の官が傘蓋を用いて儀式を整え、それに送られながら状元(首席合格者)が帰るのである。四日には礼部で宴を賜った。宴が終わると鴻臚寺へ赴いて儀礼を学んだ。五日、状元は朝服、冠帯及び進士宝鈔を賜った。六日、状元は他のゥ進士たちを率いて皇帝に感謝の意を表した。七日、状元と他のゥ進士たちは先師孔子廟へ拝謁し釈菜礼を行った。また礼部が願い出て、工部に国子監へ題名を刻んだ石を立てるよう命令が出された。
 朝廷に何か問題が起こればすぐに殿試は日程を移されるのだが、これを「恩栄次第」というそうだ。
 また次には進士甲第(最優秀での及第)について記録されている。第一甲三人に進士及第を賜い、第二甲若干人に進士出身を賜い、第三甲若干人に同進士出身を賜い、それぞれの人名毎に家柄の事を書き添えてある。一番最後には、第一甲三名の策問に対する回答や、家柄や姓名などが、以下のように記されている。『故郷の某府某州某県某籍某に生まれる。某経を修め、字は某である。年は幾歳で、某月某日の生まれ。曽祖父は某、祖父は某、父は某、母は某氏。祖父母と父母ともに生存しているのは「重慶」といい、父母が生存しているのは「具慶」といい、父のみが生存しているのは「厳侍」、母のみが生存しているのは「慈侍」といい、父母共に死亡しているのは「永感」という。兄は某、弟は某、妻は某氏である。某所の郷試の(成績は)何番目であり、会試の(成績は)何番目である。』

 

 私は命を受けて兵士たちの慰労のため寧夏(現在の寧夏回族自治区の銀川の近く。当時は寧夏衛という衛所があった)へ行ったことがある。内府(貢物や武器を入れておく倉庫)の乙字庫には関所に勤める兵士たちの冬用の衣類が納められていた。
 ふと見ると、内官の手には数珠が握られていた。象の骨に似た色で、しかも紅さはそれ以上ある。その数珠がどのように作られたのかを聞くと、内官はこう言った。太宗皇帝(永楽帝)の白溝河の大戦(靖難の役時、建文二年[A.D.1400]四月の戦い。後に永楽帝となる燕王が建文帝の軍に大勝した)の折、戦死した兵士たちの遺骸が辺り一帯に積み重なっていたのを見て、太宗皇帝は思い悩み、その頭蓋骨を集めて数珠を作らせた。それを内官たちに分与して念仏を唱えさせ、死者の輪廻を願った。また、頭蓋骨の深くて大きいものがあれば、清らかな水を満たして仏に供え、それを天霊碗と名付けた。これらは全て、西方の僧に教えられた事であるという。

 

 私が使いとして訪れたことがあるのは、趙、秦、伊、周の四つの王府である。朝見(皇帝に謁見する)の日には四王府いずれも宴を催したのであるが、秦王だけは承運門で自ら宴を開き、食事も大変結構なものであった。他の王はと言えば、どれも賓館で行われ、(各王府の)長史が出席するような礼を守る程度のものであった。それについて聞いたところでは、秦王の母である太妃陳氏が才知に優れた人で、なお且つ厳格であり、朝見するごとに使いの者が来ると、必ず王自らに宴を開かせるようにしているという。陳氏はこう言ったそうだ。「単におまえの朝廷を尊重する姿勢を見るということではない。よい事やよい話を見聞する機会となるからだ。これがもし宮中で婦人の相手をするだけの事だったなら、得るものがあるかどうかわからないけれど。」
 酒も料理も揃ったら(陳氏が)それを会場で確認し、もしだらしのない所があれば典膳(配膳係)や厨役(料理番)は皆鞭打ちの罰となるそうである。秦王が賓客に対して礼を欠いたことがないというのはひとえに太妃の才知によるところなのである。

 

 各鎮戍の鎮守内官は、その土地の特産物を皇帝に献上することを競い合う。これを孝順という。
 陝西に果実がある。名を榲(木+孛)[オツボツ]という。果肉の色は桃に似ているが、上下が平らなところは柿のようである。香りがよいが味は酸っぱくて渋いので、蜜をつけて食す。毎年献上されるのだが、決して美味いものではない。太監の王敏が陝西の鎮守となった時、はじめてこの特産物の献上を止めるよう奏上した。それによりかなりの費用を節約する事ができた。王敏はもともと漢王府の出身で、(足+日/秩j鞠[トウキク](蹴鞠遊びのこと)が上手く、宣宗皇帝に気に入られて宦官となった者である。
 常熟の知県である郭南は上虞の出身である。虞山はやわらかい栗の産地で、郭南にこれを献上する者がいた。郭南は急いでその栗の木を全て伐採するように命じた。「いつか必ず
(この栗がもとで)常熟の民を害そうとする者が現れるだろうから。」と言ったという。民衆の将来を考えるというのはこういうことである。似たような話なのでここに記した。

 

 環、慶の廃墟に塩水の池がある。そこで作られる塩は全て四角い塊で、すごろくで使うサイコロの様になっている。色は光のように鮮やかで明るい。いわゆる水晶の塩というやつだろう。池の底にはまた石のような塩のもとがある。土地の人はそれをとってきて、切って大きく平らな鉢を作る。肉を煮たりする時はその鉢に入れておくと塩味がついた。長く使っているとだんだんそれが消えて薄くなっていくのである。
 甘肅や霊夏の地にも、青、黄、赤の三種類の塩があり、すべて池の中にあるという。

 

 陝西布政司はもともと唐の宰相府だった。前堂にある屏風や衝立の後ろに方形の石池(石でつくった池)がある。中ごろに波の紋を刻んであって、これを宰相の氷果の器と言うそうである。後堂の軒下には一つだけ石を置いた石池がある。真中がやや高くなっており、四方の周りに水路を走らせている。これを宰相の割羊(羊肉を割く)に用いると呼んでいる。
 また、官石に釘を打つ者がいたのだが、石の中で、釘のほうが割れて裂けてしまっているのがはっきり見えたそうである。このことから唐出身の科挙受験者はこれによって自分を占うようになった。釘が打ち込めた者は一生を上手く過ごす事ができたが、打ち込めなかった者はしばしば災難に遭うことがあったという。

 

焚書祗是要人愚
人未愚時国已墟
惟有一人愚不得
又従黄石授兵書

焚書(書物を焼き捨てる事)はただ要人の愚かな行いである。
人が愚かではない時には国はすでに荒れ果てているものだ。
ただ、一人でも愚かにはなれない者がいたならば、
また黄石から兵書を授けられるだろう。

 これは『焚書坑詩』というのだが、誰が作ったのかはわからない。一家の主はいつもこれを詠唱する。
 坑(あな)は驪山の下にある。坑儒の谷というのはこれのことである。

黄石 黄石公のこと。秦代の隠者で、前漢の張良に兵法を教えたという人物。張良は秦の始皇帝を討とうとしたが失敗し、その後、漢の高祖・劉邦の忠臣となって天下を統一するのを助けた。

 

 正統己巳(正統14年[A.D.1449])、英宗皇帝は戦争(土木の変)により敵地へと連れ去られた。敵の勢いは非常に烈しく、人心は騒然となった。太監の金英は廷臣達を集めて話し合い、人々はひそひそと囁きあった。翰林の徐f、元玉は都を南京に戻すことを主張したが、金英はそれに大反対をした。ちょうどその時、兵部尚書の于謙が南京への還都を唱える者を斬首に処すべしと奏上した事によって、人々の意見がようやく(遷都は行わなわないことで)一致した。
 景帝(英宗の弟・[成+オオザト]王[示+オオザト]ト)は即位すると、皇太子も替えたいと言うようになった。ある日、金英と話をした際、「七月二日は皇太子の誕生日だ。」と言ったので、金英は叩頭して答えた。「皇太子の誕生日は十一月二日でございます。」景帝は押し黙ってしまった。思うに、景帝が言ったのは懐献(景帝の子・懐献太子見濟)のことであり、金英は今上皇帝(憲宗成化帝、英宗の長子・朱見深)のことを言ったのだろう。
 徐fは後に、有貞と名を改めた。

 

 陝西の環県の境界には、唐代の木波、合道等の遺跡がある。記録では、范文正が環を守護していた時に築いたものであるという。以前調べたのだが、唐の徳宗の興元13年の2月に方渠、合道、木波の三つの城市をまとめたのは、[分+オオザト]寧節度使であった楊朝晟の力であった。(范)文正は、ひょっとしたらその遺跡を修築したのではないだろうか。

 

 温泉という地は臨潼県の驪山の北麓にある。すなわち唐王朝の花清宮のことである。山上には「玉女祠」というのがあって、そこが温泉のもととなっている。唐の時代には毎年皇帝がここへ来ていたので、宮殿は壮麗なものであった。しかし今は、ただこの池が残っているのみである。上は数本の柱を立てた屋根で覆ってあり、周りは平らな石で石垣を作って囲っている。温泉の水はちょうど良い温度で、しかも澄みきっているのでわずかなものでさえ映しだすほどである。
 湯の出る泉は句容や宣府、遵化などの地にもあるが、その景色の美しさはここの比ではない。けれども行政機関がこれを管理しているので高い身分の役人でなければここで温泉につかる事はできなかった。外のほうに別に泉の湯をひいて男女混浴を二箇所作り、土地の住民は共同でそれを利用しているのである。

 

 居庸関の外側は宣府であり、駅逓の官は皆百戸の者である。陝西の環県の北方は寧夏であり、(駅逓の官も)また同様に置かれている。それらの土地に府州県などがない為だろうと思う。しかし、居庸関より北では水は甘美で穀物や野菜もよく獲れるのに、環県の北はすべて塩気の多い土地であり、水は苦くてそれを飲んだら腹を下す事もあるという。そこで、駅官は冬の間に雪をとってきておいてそれを土中の穴一杯に詰めておく。それが水に変わったら上官に提供し、普通に客をもてなすのに使うことも、稀だができるようになるということである。

 

 陝西都指揮の司整は、幼い頃幾人かの悪い仲間と結託して義兄弟となった。一人が敗北した時には、力を合わせて復讐を行ったりした。
 司整は以前、街中の歌楼で一人の人間を撃殺したことがあった。□□はそれを捕らえる努力をしなかったので、逃げられてしまった。ようやく仲間の劉という者を役所に捕らえ、司整の居所を突き止めようとした。しかし、劉は、「自分がそいつを殺したのだ、司整ではない。」と言った。他の仲間たちもその裏づけをした。司整と劉は互いの結びつきが堅固であることを認め合った。法司では(司整を)捕らえるかどうかなかなか決定できずにいたが、しばらくしてようやく死刑判決を出した。その後(司整は)減刑を得て、遼東の三萬衛の軍に徴発された。司整はそれに恩を感じ、毎年その軍に資財を提供した。その頃、司整には老いた母親がいたのだが、劉が(司整の母に対して)司整のふりをしていたのだった。いにしえの侠客というのはゆき過ぎるということはないのである。

※文中の□□は史料の破損による欠けのため不明

 

 陝西の城中には、以前は水道がなく、井戸も少なかった。住民は毎日西門の外に水を汲みに行っていたという。参政の余子俊(1429-1489)が西安府の知府となった時、漢中は険要の地であった。数日間城門を閉じていなければならない時は、住民はどうやって生活していたのだろうか?まず鑿を使って城中に水路を掘り、[水+霸]川や[水+産]川の水を城の東から引き入れて西から出すようにした。丸い敷き瓦を敷いて、その下に水を流し、上は土を敷いて平らな土地にした。それは長くのびて続いており、途中に井戸を作って住民がすぐに水汲みができるようにした。これは後世に利益として長く残る事である。

 

 正統丙辰(正統元年[A.D.1436])に状元となった周旋は温州、永嘉の出身である。ある閣老は第一甲の三人を決定するのに加わるということを聞いて、(廷試の)読巻の時を待って仲間の試験官たちに訊ねてこう言った。「周旋の姿かたちはどのようであるのか?」ある者が、豊満で美しい人物だと答えると、閣老は喜んだという。しかし、伝臚(殿試の後、合格者の名前を読み上げる)の時になって(実際に見て)みると、聞いていたのとは違っていたのだった。思うに、「豊満で美しい」というのは厳州の周[王+宣]のことである。これを聞いたこと自体は嘘ではなく、ただ答えた者が間違えただけであろう。
 天順庚辰(天順四年[A.D.1460])に曹欽が反乱をおこした時、仲間である馮益の損之はひどく慌しく逮捕された。そして、占い師だった馮益の謙之がすぐに逮捕され、これもまた処刑された。思うに、二人はどちらも寧波の出身で、しかも名前が同じであったため、このような誤りが生じてしまったのだろう。
 人間の幸不幸はもちろん偶然によって決まるものではないが、しかしこのようなこともまた起こりえるのである。それを天命というのだろう。

 

 慶陽の西北二百五十里のあたりは環県という。県城の北にある山の麓で、周囲三里ばかりのところに四百戸余の住民が暮らしているが、城内に住んでいるのはわずかに数十件だけである。国境を守る兵士たちは借家住まいをしているのだが、集落に入れなければ学校の建物を借りてそこに住むありさまだった。土地は痩せ細っていて、水は苦く、飲めばたちまち脾臓を病んで腹を下した。趙大夫溝まで出れば(水の)味も甘くなるが、それは城を出て十数里も遠くである。毎年の孔子を祀る日には発酵酒を飲めるが、毎日飲むことはできない。食禄は駅伝で運ばれてきて稲米が供給されているのだが、おそらく慶陽あたりで買うと粟一斗に対して稲米一升(1/10斗)を得るくらいである。
 薪は開城あたりで買う。開城もまた小さな村であり、環から八十里のところにある。よい薪が取れる土地で、それは環にまで知られるところである。そこには古跡である霊武台があり、唐の肅宗が即位した場所である。城の南には唐代の木波や合道などの城の遺跡があり、現在もまだ残っている。
 数日滞在していると、学校の教師が科挙試験勉強中の弟子五、六人を連れてやってきた。経書を手に更なる教えを求めており、全員が慎み深く素朴であった。義理(性理学)について考えさせると、全員がとてもよくできた。しかし時勢の事柄や他の書物の事について話してみると、ほとんど知らないようだった。かつて一緒に韻書(韻で分類された字書)を探したこともあったが、城中のすみずみまで探したのに見つからなかった。思うに、文化の低い田舎であるから、優れた教師や友人もなく、そこに教師としてやってきた者は、それぞれ自分が経の通じているところについて弟子達に教授するのであろう。ある場合はすぐにこの土地を去ってしまうのだが、それははっきりわからないまま最後までやり遂げることができなかったということである。迷いのないことなのだ。だが才能ある人にとっては辛いことだ。

 

 巡撫陝西都憲(都察院の都御史のこと)で嘉禾出身の項忠が、慶陽、[分+オオザト]、寧州の各県の住民に道路脇に街路樹を植えさせたことで、住民から非常に恨まれていた。巡撫延綏都憲で広東出身の盧祥が詩を読んでこのことを嘲笑ったのだが、その締めくくりはこうだった。「道端が(彼の)領地のようになってしまったのは惜しい事だ。そこではただ楡や柳が植えられていて、桑は植えられていないのだ。(=あまり生活の役には立たないものが植えられている)」項忠は和韻させて(同じ韻を使って漢詩を作る)こう返した。「老いた自分がどうして生活のことを考えないなどということがあるだろうか。どうしてこの土地が桑の栽培に適していないなどと知っていただろうか(桑に適していないと知っていたから楡柳を植えたのではない)。」この二つの詩は、現在慶陽の公館(役所)の壁に書かれている。
 [分+オオザト]、寧、慶陽は全て昔の[ヒン]の国があった地である。『七月』(『詩経』[ヒン]風篇中の詩のこと。周王の業績を述べた)の中では養蚕のことが詠われている。つまり、盧公の言ったことのほうが当を得ているのである。

※[ヒン]の字については表現が難しいため読みがなのみとしました。無理をして書けば[豕+豕/山]で、「幽」の字に似たものです。

 

 荘浪の参将である趙采児は、地元出身の人である。以前の話だが、(馬に乗っていて、その)馬がつまづいた拍子に土の中から何かが出ているのを見つけ、(掘り出して出てきた)一本の刀を手に入れた。非常に珍しい話である。
 その地方で戦争があればいつも、自分が鞘を取り出すとほんの少し(取り出した)だけで、鞘が、刀の刃のところで必ず自ら割れて壊れてしまうのだった。学者には、「これは不思議な力のある刀だ。適当な時に羊の血をその刃に塗っておきなさい。」と言われた。采児はその霊妙さを頼みにし、偵察の度に鞘を取り出して、(鞘が割れて戦争が迫っていないか確かめることで)あらかじめ有事に備えていた。そのことから、辺境警備にあたること数年、とうとう負ける事がなかった。
 太監の劉馬児は朝廷に願ってこの刀を求めたが、与えられなかった。それにより彼(劉馬児)の功績は覆い隠されてしまい、昇進する事ができなかったそうである。

 



昔の人はすべての書物に印を押して、「誰それの本」といっていた。そして今の人は、とうとう印を押す事を指して「本にする」と呼ぶようになった。
「正」は、碑に刻まれた文章や業績のことであるが、もともとは文章や業績を碑に刻むことを言った。しかし今では、碑のことを文章の名前としており、「正」とは呼ばなくなってしまった。

 

 

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