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科挙 〜『明史』選挙志より〜 構成:余花さん

 

明代科挙試験
〜務取経明行修、博通古今、名実相称者〜
受験要領

一、出願資格

 挙子(科挙受験者)は、国子監の生徒及び府、州、県学の生徒で優秀な者、儒学の士だがまだ仕官していない者、品秩のない未入流官など、関係各所から温厚な人物であり文才があると推薦され、それに応じた者である。
 学校の教員や罷免された官吏、役者の家の者、同居の父母が亡くなり喪中である者についてはいずれも試験を受ける事は許されない。


二、試験期日及び合格発表日

 三年に一度、直省(皇帝の直轄省)で学生に対して試験が行われる。これを郷試という。合格者を挙人と呼ぶ。
 次の年、挙人は京師で試験を受ける。これを会試という。
 (会試の)合格者は皇帝が自ら宮廷で試験を行う。これを廷試といい、殿試という。
 子、午、卯、酉の年に郷試を行い、辰、戌、丑、未の年に会試を行う。
 郷試は八月で、会試は二月に行い、最初の九日間が第一場、次の三日間が第二場、次の三日間が第三場となる。
 廷試は三月の朔(一日)に行われる。


三、募集人員

  (殿試の合格者を)一、二、三甲に分けて、成績順とし、一甲は三人に止め、(成績順に)状元、榜眼、探花と呼び、進士及第を賜った。二甲は若干名で、進士出身を賜った。三甲は若干名で、同進士出身を賜った。
 状元、榜眼、探花というのは制度で定めたものだが、さらに士大夫たちの間では郷試の一番を解元、会試の一番を会元、二甲、三甲のそれぞれ一番を伝臚と呼んでいる。
 状元には(翰林院)修撰を授け、榜眼、探花には(翰林院)編修を授けた。二、三甲で庶吉士に選ばれた者は皆翰林院の官となった。それ以外は給事や御史、主事、中書、行人、評事、太常、国子博士、または府推官、知州、知県等の官を授けた。挙人や貢生(府県の長官から太学に推薦された地方の学校の学生)で科挙を受けなかった者、国子監に入った中から選ばれた者は、小京職(京官の下級職?)や府佐、及び州県の正官(長官)、または教職を授かった。


四、試験科目

 当初、初場(第一場)では経義二道と四書義一道、二場では論一道、三場では策一道を行い、合格者には十日後、また騎、射、書、算、律の五つについて試験が行われた。
 後には科挙の方式が広く定められ、初場では四書義三道と経義四道とした。
 「四書」は主に朱子の『集註』、「易」は主に程の『伝』と朱子の『本義』、「書」は主に蔡氏の『伝』及び古註疏、「詩」は主に朱子の『集伝』、「春秋」は主に『左伝』、『公羊』、『穀梁』の三伝及び胡安国と張洽の『伝』、「礼記」は主に古註疏である。永楽年間に『四書五経大全』が頒布され、註疏は使われなくなった。その後「春秋」では張洽の『伝』、「礼記」では陳[水+白+告]の『集説』も使わなくなった。
 二場では論一道、判五道、詔と誥と表と内科一道を試験する。
 三場では経史時務策の五道について試験する。


五、試験場

 郷試は直隷であれば京府で、それぞれの省の場合には布政司で行われる。
 会試は礼部で行われる。
 試験会場は貢院といい、受験者が入る各部屋を号房という。警備を行う人々については号軍という。


六、試験官

試験種 官名 職掌 備考
主考 正副ある試験官。主に翰林、・事、科道及び大学士、六部、府事の官が務める 郷試、会試ともに二人である。
同考 答案の検討を補佐する 郷試が四人、会試が八人。
提調 上下の連絡と事務処理を行う 一人。在内の京官、在外の布政司官が務める。
会試 監試 試験を監視し不正を取り締まる 礼部の官、二人。在内の御史、在外の按察司官が務めることもある。
会試 弥封 試巻(答案)の名前の上に紙を貼って番号を記入する 試巻(答案)を管理する官で、御史から派遣される。いずれも定員が決まっていて、それぞれについて取り仕切った。
謄録 試巻(答案)を書き写す
対読
受巻
巡綽監門 カンニングの見回りをする
捜検懐挟 懐を調べるボディーチェック
廷試 読巻官 共同で策に対する回答を検め、順位について検討し、皇帝に奏上する 翰林や朝臣の中から文学に秀でた者を起用する。

 在外の提調官や監試官は外簾官(試験場の監督)という。在内の主考や同考は内簾官(答案を審査する)という。


、受験上の注意事項

 試験当日、会場に入場したら質問や代理受験などは禁止された。
 試験官が入院すると、そのまま内外の門戸を閉ざして鍵をかける。
 試巻(答案)の最初には、三代の(先祖の)姓名及び戸籍のある出身地と年齢、習得した経、担当の官の印等がある。
 試巻(答案)の文字の中に皇帝の御名や廟号などが入らないようにし、家柄などを記入する事は許されなかった。
 弥封には三文字を組み合わせて号を作った。
 夜になっても答案を回収せず、灯りとして枝三本が支給された。
 注意しなければならないところ、または変更事項があれば、命令を伝達して試験会場にて大声で知らせた。
 受験者は墨を使ったので、これを墨巻と呼んだ。
 謄録には[石+朱]を使ったので、これを[石+朱]巻と呼んだ。

 

 

進士題名記 〜北京・孔廟〜

 

画像をクリックすると別ウィンドウが開いて拡大が見られます。
  宣徳二年進士題名記

五代皇帝宣宗宣徳帝の二年[A.D.1427]の進士題名記です。保存がよくない、というか雨ざらしですので大分痛んでしまってるんですが、近くで見るとちゃんと読めます。
題名碑は大学士が文章をつけて建てることになっていましたが、これも当時、華蓋殿大学士であった楊士奇が設置したものということです。書き出しは『宣徳二年進士題名記 栄禄大夫少傅兵部尚書兼華蓋殿大学士
楊士奇奉』で始まっています。
  正統十年進士題名記

六代皇帝英宗正統帝の十年[A.D.1445]の進士題名記です。
これは明代を通してただ一人しかいなかったという「三元」商輅が進士となった時の題名碑です。
「三元」というのは郷試、会試、殿試ともに一番の成績をとって合格した者を呼びます。だからといって順風満帆な人生かというと必ずしもそうではなかったようですが、大変なものです。すごいなあ。
  正統十年進士題名記(拡大)

上のやつの拡大。『賜進士及第第一甲三名 商輅 厳州淳安県』とあります。
自分の名前が何百年も残されるというのはうれしいのやら恥ずかしいのやら……
まあ、名誉なんでしょう。
  拓本

たまたまなんですが、余花さんが見に行った時、題名碑の拓本をとっているおじさんがいました。写真はまだとり始めで、この後何回も墨を叩いて濃くしていきます。途中仲間らしき兄ちゃんが来て邪魔したりしやがって、結局完成作品を見ることはできませんでした。
ちなみにこれは清代の題名碑で光緒二十九年のもののようです。

 

写真集「孔廟」にも、他のいろいろな写真を掲載しています。よかったらご覧下さい。

 

 

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