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土木の変から奪門の変へ 〜『明史』英宗本紀、景帝本紀より抜粋〜

 

主な登場人物

英宗 朱[示+オオザト]鎮。明朝第6代皇帝英宗正統帝。5代皇帝宣宗宣徳帝の長男。
即位したのは9歳であったため、土木の変時にはわずか23歳であった。奪門の変によって復辟した後は年号を天順と改めて8年間在位した。
景帝 朱[示+オオザト]ト。明朝第7代皇帝景帝。5代皇帝宣宗宣徳帝の次男。
土木の変で兄英宗が瓦剌へ連れ去られたため、替わって帝位に就き、京師北京を瓦剌の攻勢から守った。ちなみに宣宗の子は英宗、景帝の二人だけである。
朱見深 明朝第8代皇帝、憲宗成化帝。英宗の長男。
土木の変の直後、皇太后により皇太子に立てられたが、景帝の即位により一時廃された。
朱見濟 景帝の長男。
景帝即位後皇太子に立てられたが、景泰4年11月幼くして亡くなってしまう。懐献と諡された。
也先【エセン】 瓦剌(読みは【がらつ】、オイラートのこと)の首領。明の北方にあって、たびたび明に侵入を繰り返していた。

 

宣徳 10年 正月   宣宗、崩御
      壬午 英宗(宣宗の長男)、即位
    2月 辛亥 (英宗の)弟[示+オオザト]トを[成+オオザト]王に封じた
正統 14年 7月 己丑 瓦剌の也先が大同に侵入し、参将の呉浩が戦死したため、英宗は親征の詔を下した。吏部尚書の王直は群臣を率いて英宗に親征を止めるよう諌めたが、英宗はそれを聞き入れなかった
      癸巳 [成+オオザト]王に親征の間の居守を命じた
      甲午 親征軍は京師(北京)を出発した
      辛丑 親征軍は宣府に宿営した。群臣からは行軍の一時停止が奏上されたが英宗はそれも聞き入れなかった
    8月 戊申 親征軍は大同に宿営した。鎮守太監の郭敬が親征を諌め、それによって軍を引き返させるかが議論された
      庚戌 親征軍を帰還させることとなった
      庚申 瓦剌の大群が攻め込んできた
      辛酉 親征軍は土木に宿営したが、そこで瓦剌の軍に包囲された
      壬戌
親征軍は壊滅的な打撃を被り、死者は数十万人となった。……英宗は北方に連れ去られた
≪土木の変≫
      甲子 京師では親征軍の敗北を知らされ、群臣は朝廷で慟哭した。侍講の徐fは都を南京に戻すよう願ったが、兵部侍郎の于謙はそれを許さなかった
      乙丑 皇太后(英宗の母、宣宗の貴妃孫氏)[成+オオザト]王に監国を命じた
      己巳 皇太后は皇子の見深(英宗の長男)を皇太子に立てた
    9月 癸未 [成+オオザト]王(後の景帝)が即位し英宗を太上皇帝とした
    12月 甲寅 景帝は妃の汪氏を皇后に立てた
景泰 元年 7月 庚申 右都御史の楊善、工部侍郎の趙栄を瓦剌へ遣わせた
      己巳 右都御史の楊善は瓦剌へ行き、也先上皇(英宗)を帰還させる事を許した
    8月 癸酉 上皇(英宗)は瓦剌を出発した
      甲申 侍読の商輅上皇(英宗)を居庸関で迎えた
      丙戌 上皇(英宗)が京師に帰還し、皇帝(景帝)は東安門でそれを迎え、その後南宮に入居させた(事実上の軟禁状態)
    11月 辛亥 礼部尚書胡[火+火/冖/水]は全ての官に上皇(英宗)の万寿節(誕生日)を祝わせるようにと願い出た
    12月 丙申 また、翌年の元日に全ての官に上皇(英宗)に延安門で挨拶させるようにと願った。
これら
の願いは全て認められなかった
  3年 5月 甲午 皇太子の見深を廃位にして沂王とし、替わって皇子の見濟(景帝の長男)を皇太子とした。皇后の汪氏を廃して皇太子の母である杭氏を皇后にした。また、(景帝の)皇子の見清を栄王に、見淳を許王に封じた
  4年 11月 辛未 皇太子の見濟が亡くなった
  5年 5月 甲子 部郎中の章綸、御史の鍾同沂王(朱見深)を再び皇太子にするよう願ったが、それによって錦衣衛の獄に下された
  6年 8月 庚申 南京大理少卿廖荘沂王を再び皇太子にするよう願ったが、それによって皇帝(景帝)の前で鞭打ちとされた。また、章綸鍾同も獄中で鞭打ちとなり、鍾同はそれによって死亡した
  8年 正月 丁丑 皇帝(景帝)は病気となり、南の郊外にある斎宮に宿泊した
      己卯 群臣は皇太子を立てるよう願い出たが、聞き入れられなかった
      壬午
夜明け、武清侯の石亨、都督の張[車+兒]張イ、左都御史の楊善、副都御史の徐有貞(徐f)、太監の曹吉祥等が上皇(英宗)を軟禁場所の南宮から助け出し、英宗は奉天門に出て、百官の朝賀を受けた。
正午、
英宗、奉天殿にて即位
≪奪門の変≫
      丙戌 景泰8年を天順元年と改めた
    2月 乙未朔 皇帝(景帝)を廃位させて[成+オオザト]王に戻し、西内に居所を遷させた。また、皇太后となっていた呉氏(景帝の母、宣宗の賢妃呉氏)以下、全てもとの通りに戻した
      癸丑 [成+オオザト]王は西内にてそのまま亡くなった。年は三十歳だった。諡は「戻」とされた。打ち捨てられた場所に墓所を造り、親王の礼をもって西山(京師北京の西にある山)に葬った。そして、そこには武成中衛軍二百戸の守護を与えた
    3月 己巳 再び(英宗の)長男の見深を皇太子に立てた

 

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