宣徳 |
10年 |
正月 |
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宣宗、崩御 |
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壬午 |
英宗(宣宗の長男)、即位 |
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2月 |
辛亥 |
(英宗の)弟[示+オオザト]トを[成+オオザト]王に封じた |
正統 |
14年 |
7月 |
己丑 |
瓦剌の也先が大同に侵入し、参将の呉浩が戦死したため、英宗は親征の詔を下した。吏部尚書の王直は群臣を率いて英宗に親征を止めるよう諌めたが、英宗はそれを聞き入れなかった |
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癸巳 |
[成+オオザト]王に親征の間の居守を命じた |
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甲午 |
親征軍は京師(北京)を出発した |
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辛丑 |
親征軍は宣府に宿営した。群臣からは行軍の一時停止が奏上されたが英宗はそれも聞き入れなかった |
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8月 |
戊申 |
親征軍は大同に宿営した。鎮守太監の郭敬が親征を諌め、それによって軍を引き返させるかが議論された |
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庚戌 |
親征軍を帰還させることとなった |
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庚申 |
瓦剌の大群が攻め込んできた |
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辛酉 |
親征軍は土木に宿営したが、そこで瓦剌の軍に包囲された |
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壬戌 |
親征軍は壊滅的な打撃を被り、死者は数十万人となった。……英宗は北方に連れ去られた |
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甲子 |
京師では親征軍の敗北を知らされ、群臣は朝廷で慟哭した。侍講の徐fは都を南京に戻すよう願ったが、兵部侍郎の于謙はそれを許さなかった |
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乙丑 |
皇太后(英宗の母、宣宗の貴妃孫氏)は[成+オオザト]王に監国を命じた |
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己巳 |
皇太后は皇子の見深(英宗の長男)を皇太子に立てた |
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9月 |
癸未 |
[成+オオザト]王(後の景帝)が即位し英宗を太上皇帝とした |
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12月 |
甲寅 |
景帝は妃の汪氏を皇后に立てた |
景泰 |
元年 |
7月 |
庚申 |
右都御史の楊善、工部侍郎の趙栄を瓦剌へ遣わせた |
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己巳 |
右都御史の楊善は瓦剌へ行き、也先は上皇(英宗)を帰還させる事を許した |
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8月 |
癸酉 |
上皇(英宗)は瓦剌を出発した |
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甲申 |
侍読の商輅が上皇(英宗)を居庸関で迎えた |
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丙戌 |
上皇(英宗)が京師に帰還し、皇帝(景帝)は東安門でそれを迎え、その後南宮に入居させた(事実上の軟禁状態) |
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11月 |
辛亥 |
礼部尚書胡[火+火/冖/水]は全ての官に上皇(英宗)の万寿節(誕生日)を祝わせるようにと願い出た |
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12月 |
丙申 |
また、翌年の元日に全ての官に上皇(英宗)に延安門で挨拶させるようにと願った。
これらの願いは全て認められなかった |
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3年 |
5月 |
甲午 |
皇太子の見深を廃位にして沂王とし、替わって皇子の見濟(景帝の長男)を皇太子とした。皇后の汪氏を廃して皇太子の母である杭氏を皇后にした。また、(景帝の)皇子の見清を栄王に、見淳を許王に封じた |
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4年 |
11月 |
辛未 |
皇太子の見濟が亡くなった |
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5年 |
5月 |
甲子 |
礼部郎中の章綸、御史の鍾同は沂王(朱見深)を再び皇太子にするよう願ったが、それによって錦衣衛の獄に下された |
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6年 |
8月 |
庚申 |
南京大理少卿の廖荘は沂王を再び皇太子にするよう願ったが、それによって皇帝(景帝)の前で鞭打ちとされた。また、章綸と鍾同も獄中で鞭打ちとなり、鍾同はそれによって死亡した |
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8年 |
正月 |
丁丑 |
皇帝(景帝)は病気となり、南の郊外にある斎宮に宿泊した |
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己卯 |
群臣は皇太子を立てるよう願い出たが、聞き入れられなかった |
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壬午 |
夜明け、武清侯の石亨、都督の張[車+兒]と張イ、左都御史の楊善、副都御史の徐有貞(徐f)、太監の曹吉祥等が上皇(英宗)を軟禁場所の南宮から助け出し、英宗は奉天門に出て、百官の朝賀を受けた。
正午、英宗、奉天殿にて即位 |
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丙戌 |
景泰8年を天順元年と改めた |
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2月 |
乙未朔 |
皇帝(景帝)を廃位させて[成+オオザト]王に戻し、西内に居所を遷させた。また、皇太后となっていた呉氏(景帝の母、宣宗の賢妃呉氏)以下、全てもとの通りに戻した |
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癸丑 |
[成+オオザト]王は西内にてそのまま亡くなった。年は三十歳だった。諡は「戻」とされた。打ち捨てられた場所に墓所を造り、親王の礼をもって西山(京師北京の西にある山)に葬った。そして、そこには武成中衛軍二百戸の守護を与えた |
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3月 |
己巳 |
再び(英宗の)長男の見深を皇太子に立てた |