中学校の文化祭で劇をする事になったお兄ちゃんは、最初とても張り切ってせりふの練習をしていたのに、 この二・三日はピタッと止めていました。
お母さんは、
「ただいま」
と言って帰ってきたお兄ちゃんに、
「『おーい、君達はこの件に関してはどう思うかね』」
と言いました。お兄ちゃんは、
「あ、はっ、はっは。お母さんが劇に出ればいいんだよな。口ひげもお父さんの背広もみんな貸すからさ」
「『先生、頑張りましょう』――、どうして尻込みするの」
お兄ちゃんは劇の中で先生の役をすることになっていました。
お母さんはチラッと真面目な顔をお兄ちゃんに向けて、仕事部屋に立って行きました。
しばらくして裏庭の方から、
「スツチャラカ スツチャラカ スツチャラカ ホイ!、カチン。スツチャラカ負けたよスツチャラカ ホイ!、カチン」
お兄ちゃんが何かやってます。
お母さんも面白くなって、
「スツチャラカ スツチャラカ・・・・・」
といいながら残り布でかわいい袋を作りはじめました。もっちゃんと同じ幼稚園に行っている仲よしのまさちゃんに、 クレヨン入れを頼まれたのでした。
夏の終わりの午後の陽ざしはまだ強く、けだるく動かない草花が時間の流れを止めているような感じです。
「お兄ちゃん、何やってるの」
もっちゃんが可愛いい声ではしってきました。
「あっ、お兄ちゃん、駄目――、コンニャロー、駄目――。 こうしてやるうー」
もっちゃんの大きなするどい声がしたとたんに、
「ワーッ」
お兄ちゃんは激しい泣き声といっしょに立ち上がって表にまわり、玄関の戸を荒々しく開けると、 はいていたサンダルをあっちこっちに飛ばしながら両手で顔をおおい入って来ました。
ワーワー泣いています。
「お母さん、やられた。もっちゃんに石でたたかれた」
「ええっ」
お母さんはびっくり仰天です。
「どれ、お母さんにちゃんと見せなさい」
おにいちゃんのおさえた手を取ってみると、さぁ大変、右のまゆ毛の上に大きなたんこぶができていて、 その高いところに小豆色の血のつぶつぶがたくさん見えています。血もにじんでいます。 何だか見てるうちにもっと大きくなっていくようにさえ思います。
「うわあ、これはひどいわ、痛かったでしょう。もっちがやったって・・・、どういう事・・・」
続いてもっちゃんも家に入って来ました。
「お兄ちゃんが悪いことするからだーー」
5才のもっちゃんは、目をむいて口をとがらせカンカンにおこって大声でいうと、 自分のオモチャ箱から竹トンボを持って出て行こうとします。
お母さんは、
「待ちなさい。どうしてこんなことしたの。お兄ちゃんがたいへんよ」
もっちゃんは真っ赤な顔で
「だっておにいちゃんは、ありさんを石で潰したんだよ。ありさんは何もしていないのにー。 たくさん潰したんだーー」
「えっ。 あ、そう。 うーん、うーん・・・・・」
お母さんはいつまでたっても言葉になりません。
お母さんは、一瞬のうちに、さまざまな考えや、言葉や、情景が頭の中にふき出して来て、 一つにまとめる事が出来なくなってしまいました。
でも、
「もつちゃん、あなたはやりすぎだったのよわかる? あやまりなさい」
今は、それだけいうのが精一杯でした。
「だめだよ、お兄ちゃんが悪いよ。お母さん、ありさんは、いっぱいしんじゃったんだよ」
もっちゃんのこの言葉を聞いて、お兄ちゃんの泣き声が又大きくなりました。
中学3年のお兄ちゃんが、こんな声を出して泣くなんて・・・・、やれやれとおもいながらお母さんは、 おでこのたんこぶを何とかしなければならないと、急いで救急箱を持ってきました。
オキシドールで消毒してから薬をつれ、ガーゼでおおってバンソーコーでおさえ、ホータイを斜めに2回巻いて、 はしを耳の横のホータイにはさみました。
お母さんはももっちゃんのために少し大げさにしたのです。
「お母さん、僕悪いよ。もっちのいうとおりだ・・・。石でありを潰していたんだもの」
「あのスチャラカ ホイ! のカチン。ね」
「うん・・・」
「もっちは、その石でいきなり叩いたんだ」
「そう・・・・・」
「お母さん、もっちを叱らないでね。
夕べ「この字は何ていうの」って本もって来たの。「ち」がわからなかったんだけれど、 見たらキリギリスとありのお話だった。キリギリスがえんび服着て指揮棒もっていばっていてさ、 ありは首にまいた手ぬぐいで汗を拭きながら、せつせと食べ物運んでいる絵だったんだ。なつかしくて少しよんでやったーーー」
「うん、うん」
とお母さん。
「僕、文化祭のことで友達と意見が合わなくていらいらしていたんだ。もっちにガーンとやられるまで、 ありを潰してたの忘れてた・・・」
「うん、うん」
お母さんは、腹を立てて兄弟にけがをさせるような子供はだいきらいです。 しかも直径10センチもある石で叩くなんてーー。しかし、人間が困ることをしていない動物や虫たちを殺したりいじめたりしてはいけないと、 はっきりわかってしまったら、お兄ちゃんのした事をおこるのはもっともです。
もっちゃんが、人間とありを同じに思っていない事はお母さんが良く知っています。
去年の夏、台所に数匹のありが出たとき、おかあさんはもっちゃんといっしょに、 どこからありが出てくるのかしらべて、その穴に灯油をたらしておいたのに、次の朝おかあさんは、 寝ていたお父さんをわざわざ起して大さわぎするほど、ありの大群がおし寄せました。
お母さんは、ありが砂糖のいれものや、ジャムのふたに真っ黒になってついていて、 おまけに干してあったふきんの裏側にも何匹もいたので、その気味悪さに一日中ビクビクしていました。
後始末としてビニール袋に入れて捨てたり熱いお湯をかけたりし、 最後に金物屋さんからクレオソートの大きな缶をかってきて、もっちゃんと缶詰の空き缶に小分けして入れなおし、 ありが入ってこないように家のまわりにかけてまわりました。
あの時お母さんは、ありが言えの柱や、水気の多い所に巣を作り、 ついには言えをこわしてしまうこともあると教えてくれました。
だけどもっちゃんは、悪さをしないありは「ありさん」で友達だったのです。 まして絵本の中のありさんは働き者で、夏の間さんざんキリギリスにいやな思いをさせられたのに、 寒くなってキリギリスが悲しい顔をして戸口に立ったとき、こころよくいえに入れてやり、大切な食べ物をやったのです。
「お母さん、もっちかわいいね・・・。もっちは本をよんでいろんな事わかるようになったんだねー。 かわいいね、もっち・・・」
「石で叩かれてたんこぶできたのに・・・・、かわいいの・・・・」
「うん、もっちは何だかえらい気がする・・・・」
「うん、うん、わかるーー」
お母さんは、なぜかお兄ちゃんが「えらい気がする」と言った時、胸があつくなって涙がこぼれそうになりました。 そしてお兄ちゃんがどうして? と思うほど大声を出して泣いたわけがしっかりと分かりました。
晩御飯のとき、いつものようにお兄ちゃんの向かい側にすわったもっちゃんは、 おしゃべりしないで静かにお味噌汁を飲んでいましたが突然しくしく泣き出しました。
お父さん、お母さん、お兄ちゃんがびっくりしてもっちを見ました。
「おにいちゃん、石で叩いてごめんなさい」
「えっ、うん、うん」
「でもほんとうは、お兄ちゃんが悪かったよ。もう泣くなよ」
「はい」
もっちは小さい声で返事をしてひとつしゃくり上げてから、おおきなため息をつきました。
おにいちゃんは、目をパチパチさせながら、だまっていしょうけんめいご飯をたべています。
お母さんは、心の中で
(好きよ。好きよ。君達が大好き。神さまありがとうございます)
と大声で叫んでいました。