この間から、どうもお母さんはゆううつになっていました。 何をするにも大決心しなければ出来ないのです。 掃除をするにも、洗濯をするにも、ご飯の支度をするにもギリギリの時間まで座っていました。 きのうは小学校二年生のごんちゃんの父母会をとうとう欠席してしまいましたし、 三才のやこちゃんのかわいい声や、五才のたっちゃんと、ちびのやこちゃんがコソコソ話をして、 くっくっと笑い合っている、いつもは大好きなこんなかわいい場面もうるさく感じられ、 ジロッとにらんでしまうのでした。 (「きっとわたしは疲れているんだわ。でも困ったなぁ、どうちゃったのかなぁ」)と思いながら ミシンやアイロン台のある仕事部屋からテラスに出るドアを開けました。

今年は庭のあじさいがとても元気で美しく、 蔭になっているところの花が深い海のような青色で、お母さんは気に入っていました。

「あ、そうそう、雨が何日も降らないのに水をやっていない……」

お母さんが決心をして大きなじょうろをもって台所へ水をとりにいっている時、

「あっち、あっちだぁ」

「いたよ。この下に入ったよ」

ごんちゅんと、たっちゃん、それにお兄ちゃん達の仲間に入ってうれしくてたまらないやこちゃんが、 庭に走ってきました。

見ると、やせこけて目ばかりがギラギラしたよもぎ猫が一匹、 どうしたらよいか分からないように、よたよたとテラスの下から出て庭の真中でこちらを見ていました。お母さんは指さしながら、

「物置の下に入りなさい。そこは安全地帯よー」

と思わず叫び、子供たちに、

「猫は物置の下に入ったから、もうかまわないでおこうね」

と言いました。ごんちゃんが、

「お母さん、あの猫ね、病気みたいだよ。フラフラして真っすぐ歩けないの」

と言いました。お母さんが、

「え、そうなの。じゃ物置の下で死ぬのかな。死んじゃ困るなあ」

「死んだら教えてね。お母さん」

とごんちゃん。

「死んだ猫見たことないから見たいんだ」

とたっちゃん。

「わたしにもおしえてね。お母さん」

とやこちゃん。

「みんなは、猫が死んだほうがいいみたいなこと言うのねっ」

お母さんは子供たちをジロッとにらんでから、サンダルをはいて庭に出て水をやり始めました。 子供たちは楽しそうにキャッキャッ言いながら庭から出て行きました。

あじさいは直径が二メートルほどに広がり、花の数も三・四十に増えて実に見事です。

と突然、

「ううっ、ううっ、うおーあー、ううっ」

声は間違いなく物置の床下からです。

(「え、やっぱり……。断末魔の苦しみというあれなんだろうか……」)

(「かわいそうに。出てきていいのよ、子供達もいないし庭の真中で死んでいいのよ」)

とは思ってみたものの、お母さんはやはりこわくなって、水やりはあじさいだけにして家に入りました。

それから三十分もしたでしょうか。

「ニャーオー、ニャーオー、ニャオー」

あの猫の声です。お母さんはドアを開けました。 庭の真中で猫は足をこきざみに震わせながらやっと立ち、 一声鳴くたびに胸の骨がせり上がって今にも血を吐いて死ぬのではないかと思うほど切なそうでした。

(「もしかして……もしかして、あなたは赤ちゃんを……生んだ……の……」)

もちろん猫には通じるわけがありません。返事をするはずもありません。

「すごい声を出すんだもの、びっくりするじゃないの。病気だったら具合がよくなるまでその下に住んでいていいよ」

猫はゆっくり歩いてお日様がよく当たって暖かくなった石板の一つに寝そべり、 毛づくろいをはじめました。ゆっくりと休み休みです。

お母さんは、プラスチックのケースに牛乳を入れ、少し離れたところに置いてやりました。

猫はお母さんを警戒しながら立ち上がろうとしてよろけました。

「大丈夫。わたしは味方よ」

やさしく小さな声でお母さんはそう言って猫を安心させ、ドアを閉めました。

夕方、子供たちがまた外で遊びたくなる時間に、台所の窓から庭を見たお母さんは、 牛乳が一滴も入っていないプラスチックのケースを見てホッっとしました。 お茶わんに一杯くらいは入っていたでしょうから、あれでずいぶん体力がつくと思ったからです。

次の日、朝早くいつものとおりお母さんは、ボールを持っておしんこうを出しに物置の戸を開けました。 階段を三段降りて足を床に着けようとした時、

「フーッ。フーッ」

「ええっ」

床下に入っている猫が物音を聞いて警戒し、おどしています。 でも床下ですからお母さんは平気。さっさといつものとおり石を持ち上げてたくあんを一本取り出し、 ボールに入れて立ち去ろうとした時、かわいい子猫の声を聞いたのでした。

「二ャー、ニャー」

小さな声なので落ち着いて耳を澄まさなければ聞こえないほどです。

「まあ、そうだったの。やっぱり赤ちゃんだったのね。わかったわ。」

お母さんはグーッと感動がこみ上げてきました。こうしてはいれません。 夕べの煮魚がありました。 (「そうそう、あれがいいわ」)お母さんは使っていない植木鉢のお皿を洗ってご飯を入れ、 魚をのせて物置にもっていきました。子猫の鳴き声が大きく聞こえる辺りの板の穴にデレッキの先を入れて持ち上げ、 少しずらしました。母猫は一瞬、

「フーッ」

と強くおどしましたが、目を据えてかまえるわけでもないし、逃げようともしません。 土のくぼんだ所に大きい石があって、その石に寄りかかり、 胸の辺りに明るい茶と白のしましまの子猫が目をつぶったまま首を振って鳴いていました。子猫はたった一匹でした。

お母さんはこわくてたまらなかったけれど、がまんして火ばさみでお皿のふちをはさみ、 静かにご飯をいれてやりました。板を元どおりにしてから、

「大丈夫。わたしもお母さんですからね。たすけますよ。子供達から守ってあげるし、 食べ物は運んであげるから、早く元気になりなさい」

と言いました。

次の日、お母さんがご飯を持って行き、床の板わ持ち上げたとき、もう母猫はフーッと言いませんでした。 又、お皿の中ははじめから何も入っていなかったようにきれいになっていました。

「よかったね。食べられたのね。がんばるのよ」

お母さんは小さい声でそう言って板を元どおりにしました。

こうして一週間くらいたった頃、母猫がお母さんをとても頼りにしているのがわかったので、 お母さんは、ごんちゃん、たっちゃん、やこちゃんを呼んで、猫が庭にはいって来てからの事を話しました。

ごんちゃんは猫がぜったい死ぬと思っていたのでびっくりしてしまいました。 おまけに赤ちゃんを生んだなんて……。

お母さんは、

「母猫は、心配のあまり子猫を食べてしまう事もあるんだって……」

とおしえて、音を立てないように約束させてから一人ずつ物置に連れて行き、床の板を持ち上げて見せました。 母猫はいつものように石に寄りかかり、ゆったりと幸せそうでした。

子猫はニャーニャー鳴きながらお母さんの腕の中に顔をうずめていきます。 それを見たどの子もしあわせ一杯。一番チビのやこちゃんなんか息をつめていたから、 あとで何度も何度も深呼吸をしなければならないほどでした。

母猫はおだやかなやさしい目わして子猫を見るようになり、 気力がないのか投げやりだった子猫の毛づくろいもちゃんとしてやるようになって、お母さんを安心させました。 その間に、子猫はツルツルの貝殻をはめ込んだような明るい灰色の目をパッチリさせて母猫に甘えるようになっていました。

夏休みの終わる晩は、お父さんの話をする声が一時きこえなくなるほど激しい雨降りました。

お母さんはごんちゃんが学校へ持って行く通知箋のハンコを確かめたり、 忘れ物がないかを注意したり、たっちゃんの靴袋の名前を書いたりしていたので、床下の猫の事などすっかり忘れていました。

次の日の朝、いつものようにご飯を持って行き、板をずらしてお母さんはびっくり。 母猫は土のくぼみに入ってくる水を防ぐようなかっこうで寝て、子猫を両手でおさえてじっとしているではありませんか。

お母さんはずらした板を壁に立てかけ、ご飯を横に置いて、

「今、ちゃんとしてあげるからね。かわいそうにー、気がつかなくてごめんね」

と言いながら、棚の上にあったダンボール箱をおろしメロンに敷いてあったパッキングを何枚も敷いた上に、 古くなった柔らかいバスタオルを入れて、母猫が心配しないように机の下に箱を入れてやりました。

「さぁ、引越しよ。雨が降ってかえってよかったねぇ。いいお部屋が出来ましたよ」

お母さんはこう言ってから、おそるおそる子猫をつまんでダンボールに入れてやりました。

母猫は子猫に引かれるように床の上に這い上がり、ブルブルンと二度身ぶるいをして水を払ってから箱に移りました。 お母さんが猫のいなくなった床下をのぞくと、もう水はくぼみを満たし、石も半分浸かっていました。

「さあ、よーしっと。チビさんもお母さんもこの箱に慣れてくださいよ」

といって横にご飯と水を置き、お母さんは台所へ上がっていきました。

子供達はいつものように、やこちゃん、たっちゃん、ごんちゃんの順に起きてきました。

物置に行く戸の前に置いた台の上に上がって窓からソッとのぞいたごんちゃんは、

「お母さん、今度あの箱が猫のお家なの……、あれ、猫ちゃんいないよ」

「え、どーれ……」

お母さんが椅子から立ち上がると、あとの二人もついてきました。

「ちゃんと箱の中にはいっていたのに……、どうしたんだろう」

「お母さん、物置の戸開いてるよっ」

あ、それで分かりました。去年の夏、物置の窓は網戸を入れたのですが、入り口の戸はまだだったので、 暑い日はいつも十センチくらい開けていたのです。お母さんはそのことを説明してから、

「チビちゃんは母猫と一緒だから心配しなくていいし、あの"よも"母さんも元気になったから出ていったんでしょう。 猫はさよなら言わないしね。仕方がないよね」

と言いました。

「だめだよー、お母さん、ねこ、ねこ、ねこぉー」

三才のやっちゃんは、もう目に涙を浮かべています。

「お兄ちゃん達がお出かけしてから、ねこちゃん探しにいこうか。 でもお母さんはこれでいいと思っているのよ。元気になるまでおいてあげるんだって言っていたでしょう」

そして、

「悟郎君、さあ今日から二学期ね、がんばってください。達郎君、幼稚園も今日から二学期が始まります。 がんばりましょう。康子さんは来年幼稚園ですから、お母さんといっしょにがんばります……ね」

お母さんはきちんと話したい時や、何か注意をする時、子供達を○○ちゃんって言わないのです。 三人はそれぞれ口の中でブツブツ言いながら、それでもだんだんいつもの早さで歯をみがいたり、顔を洗ったり、服を着たりしました。

子猫と母猫はその日とうとう帰ってきませんでした。

次の日は又朝から雨が降り、だんだん雨足が強くなって夕方には雷まで鳴り始めました。

お母さんは物置の窓をしめようと戸を開けてびっくり。 母猫がダンボールの箱の中でいびきまでかいて寝込んでいるではありませんか。

「あら、よもさん赤ちゃんは……」

「ニャー」

目をさました母猫の声を聞いてびっくり、子猫みたいな甘え声を出しているのです。

雷がピカッーと光ました。ビクッと肩をすぼめたお母さんは、雷のこわさを押さえこむような大きな声で

「あなたはお母さんでしょ。子供はどうしたの……、どこへ置いて来たの。自分だけ帰ってくるなんてどういう事っ 。今すぐ探しに行きなさいっ。子供を連れて来なさい。子供と一緒でなければ帰って来てだめよ。 家には入れませんよっ。すぐ行きなさい」

雷が近い所でものすごい音を立てました。雷の大嫌いなお母さんなのに、今日はぜんぜん違います。 母猫はお母さんの恐ろしいけんまくに、 すごすごとダンボールからでましたが"やっと帰ってきたのにー"というように雨でぬれた背中のあたりを毛づくろいしようとしました。

「今、すぐ行きなさいっ」

お母さんは強い調子と一緒に物置の戸を一気に開けました。 雨が大きな束のようになってざぁざぁ降っています。屋根沿いにつたわって落ちる雨が滝のようになって下の屋根にぶつかり、 白いしぶきがお母さんの顔にかかりました。お母さんはそれをぬぐおうともせずに戸に手をかけて立ったまま、母猫をにらんでいます。

母猫は一瞬たじろぎましたが、雨の中を飛び出していきました。

お母さんは"ホーッ"とため息をついてから、戸を10センチほど残して閉め台所に戻りました。

母猫はお母さんを大きらいになって行ってしまったのかもしれません。

(「いいの、きらいでけっこうよ。お母さんをやめたあなたは、ただの野良猫じゃないの。 途中で子供をほうり出すなんて……、何てことするのよ」)

もうあの子猫は死んでいるのかも知れません。

(「死んじゃったのなら、こんな雨や雷の晩、なぜ側についていてあげられないの。 子供がかわいそうじゃないの。やっぱり猫は猫なのねっ」)

お母さんはお汁に入れるお味噌をしゃもじに入れて箸でくずしながら、 (「わたしの考えを押し付け過ぎたかしら……」)とも思いましたが、なぜか怒りは収まりませんでしたけれど、 子供たちには母猫の事はだまっていました。

家族揃っての夕飯が終わり、今日はごんちゃんが茶碗を吹いてくれるというので、 お母さんは"漕げよマイケル"の低音の方を歌って合唱し、ごんちゃんと楽しく後片付けをしていたら歌の切れ間にニャオー、 ニヤオーと猫の声が入るのです。

お母さんは泡の手をさっと拭くと、

「ごんちゃん、ちょと」

と言ってから物置の戸を少し開けました。

「あっ……、いる……」

母猫がずぶぬれになってあごからポタポタ水を垂らし、 何度もブルブルンとやってからくわえてきた子猫のぬれた毛をなめてやっては、 お母さんの顔を見上げニャオー、ニャオーと鳴いています。

お母さんは戸を全開にしてそこに座り、子供たちを呼びました。

「ここから見るのよ」

こう言って、母猫に、

「頑張ったね。えらかったね。よく連れて帰って来たね」

と大声で言いました。お母さんは子供達に物置に降りて行かないように注意してから、 サケをむしってご飯にたっぷり混ぜ、お汁をかけてから今晩皆で頂いたえびのフライを一本のせて箱の横に置いてやりました。

子供たちはこの土砂降りに猫の親子が帰って来たのは、家族がやさしくしてあげていたからだと思っていました。 お母さんは母猫に気持ちが通じたとしか考えられないような今日の出来事に、少しこわくなっていました。

二日経って、今日は抜けるような青空。

お母さんは家中の床にモップをかけ、やこちゃんに本を読んでやったり、 テラスにピクニックの時の敷物を敷いてママゴトをしたり……、雨上がりの冴え冴えとして庭の空気を胸いっぱいに吸って、二人で、

「よかったねぇ」

と言いじゃっこして笑ったり……。

やこちやんが1時過ぎにお母さんが今日の新聞を拡げて読み始めると、 一気に家中も昼寝をはじめたみたいにシーンとなってしまいました。

3時過ぎになり、お母さんは夕飯に使う材料をとりに物置にいきました。 すると、待っていたように母猫がダンボールの中から出てきました。だまった戸口のひらいているところから外を見ています。お母さんが、

「よもさん、今日は良いお天気よ。いい空気を吸いなさ……」

とそこまで言った時、母猫は静かにするりと戸口を出ていきました。 "あれ"と思ったお母さんは、戸口をもう少し開けてみました。

その後姿の何と寂しいこと。

「よもさん、どうしたの」

道路に出る前に、よも母さんは振り返ってじっとお母さんを見ました。

「よもさん、どうしたの……」

ニャオとも何とも返事がありません。だまってお母さんを見て見て、 お母さんの胸がしめつけられるようになって落ち着きがなくなった時、よも母さんは真っすぐ前を見て静かに去って行きました。 お母さんは母猫が道路を歩いて行って角を曲がってしまうまでジッと立って見ていました。

お母さんは猫達の習慣を知りません。この母猫が猫らしいやり方をしたのかどうか分からないのですが、 ともかく子猫のために子猫と別れようとしていること。又、どんな知らせがあったのかわからないけれど、 母猫は自分がまもなく死ぬ事をしっているらしいのが、その後姿の言葉には言いつくせない寂しさと厳しさによって分かりました。

(「よもさん、あなたはわたしを試したでしょう。今、わかったわ。わたしはよもさんに大声を出して怒り、 外に追い出したけれど……、それであなたは、わたしに合格点くれたんですね。

子猫ちゃんは大丈夫よ。安心してね。

あなたはすばらしいお母さんだったのね」)

お母さんはあの激しい雨の日に母猫が生まれてはじめて、 手も足もゆっくり伸ばして寝られたように思われてなりませんでした。

汚くて、くさくて、病気がちでいつも追い立てられ、ひもじい飢えに警戒心ばかりが強くなってしまった。 よもが気持ちを伝えられる事ができた時は、お別れだったのです。

お母さんは、ハラハラと涙を流しました。

今日はお父さんもお休みです。

秋風の立つ紅葉の美しい豊倉の山道を、お父さんと子供たち、 赤い首輪とひもをつけてもらっていばっている子猫のチャコとで歩きながら、 お母さんはすっかりゆううつの虫が吹き飛んでいるのに気がつきました。 それだけではありません。母猫よもが命と引きかえにおしえてくれた気高い慈しみへのあこがれが、胸一杯にひろがっていました。

子供たちはチビのチャコがお利口でかわいく、世界一の猫だと思っています。