部屋に戻ったイザークは、備え付けの鏡に映った自分の顔を見て思わずギョッとした。泣き腫らして真っ赤に染まった目元は自分でさえ目を顰めたくなるほど悲惨で、こんなみっともない顔を晒して歩いていたのかと思うと、誰にも会わずに来れたことを密かに感謝した。でなければアスランと一緒にいたこともあって、今頃は面白おかしく脚色された噂話がアカデミー中を駆け巡っていたことだろう。
内心安堵の息を吐いたイザークが鏡越しに斜め後ろに立つアスランの様子を窺うと、案の定彼は酷く痛ましい…まるで自分の方が痛そうな表情をしていた。優しすぎる所があるから泣き顔を見ればきっと気にするとは思ってはいたが、こうして実際目の当たりにすると、彼にそんな顔をさせてしまった後悔が彼女の胸に苦い思いとなって広がった。
「―――それで? 話って何だ?」
心の惑いを振り切るように勢いよくアスランに向き直ったイザークは、ともすると及び腰になる自分を誤魔化すようにわざと高飛車に言ってみる。もちろん、尊大に腕を組んで相手を見下すような冷ややかな眼差しを作るのも忘れない。もっとも、泣き腫らしたこの顔では大した迫力は出はしまいが、要は気合いだ。
「―――その……さっきのことだけど、乱暴して悪かったと…」
「そのことならもういい。真剣勝負に乱暴も何もないだろう。貴様が勝って俺が負けた、ただそれだけだ。俺の方こそ、見苦しいところを見せてすまなかった」
躊躇いがちに口を開いたアスランだったが、話し終わる前にイザークは先手を打って彼の言葉を封じた。自分から話を促しておきながら、いざとなるとこれ以上アスランの口から謝罪の言葉は聞きたくなかったから。彼を前にしてどこまで平静を保てるか、自信がないのだ。
「でも、どうしても一言謝りたくて…」
食い下がるアスランにイザークは舌打ちする。
「だから、謝罪はいいと言っている! 何度も言わせるなっ!」
イザークの剣幕に一瞬言葉を失ったアスランだったが、すぐに気を取り直すと言葉を継いだ。
「君はよくても俺はよくない。乱暴なことをしたのは事実だし、その結果泣かせてしまったんだから、それに関してはきちんと謝罪をしたいと思っている」
アスランの言う『乱暴なこと』というのがあのキスのことを指していることは間違いなく、あくまでも謝罪の姿勢を崩さない彼の態度がイザークを傷付ける。気を抜くとぼやけてしまいそうになる視界を深く息を吐いて一生懸命堪えた彼女は、先程の激昂が嘘のように静かに口を開いた。
「……別に、謝らなければならないことをされた記憶はない。さっきも言ったとおり、真剣勝負に乱暴も何もないし、その…女みたいに泣いてしまったことに関しては、無様な姿を見せてしまったのは恥ずかしいと思っている。できれば忘れてくれるとありがたい」
そう言ってイザークはさり気なく視線を外して俯いた。アスランの真っ直ぐな視線が痛くて、とても正視できない。このまま納得してくれないかと祈るような気持ちのイザークに、珍しくアスランが声を荒げた。
「そうじゃなくて! 俺が謝罪したいのは、イザークを泣かせてしまったことだよ! …言っとくけど、キスしたことは謝らないよ。でも、いきなりで乱暴だったことは謝る。ごめん…」
アスランの言葉はイザークの予想とは少し違っていて、どういう意味なのかわからず戸惑いながら顔を上げると、真摯な光を宿したエメラルドの瞳とぶつかった。
「―――あの時、泣いてるイザークが可愛くて、慰めたくて、思わずキスしてしまったんだ。イザークが好きだから、止まらなかった。…軽蔑するかい?」
「……え?」
―――好きって、アスランが私を…?
あまりにも自分に都合がいい展開が信じられなくて茫然と見返したアクアマリンの瞳が真剣な表情のアスランを映すが、予期しないことに一瞬止まってしまった思考はうまく働かず、咄嗟に唇から零れたのは否定を意味する言葉だった。
「――――嘘……」
「嘘じゃないっ!」
「だって、どうして私なんか…」
アスランに対して敵愾心剥き出しの酷い態度を取ってきた自覚はあるだけに、そんな自分を彼が好きになるはずなんてないとイザークは思っていた。嫌われこそすれ、好かれる理由など欠片も思いつかないのだから。それとも、彼の言う『好き』は所謂友人としての『好き』なのだろうか? 自分に全く自信の持てないイザークは、嬉しいと思う気持ちと裏腹にアスランの言葉を素直に信じることはできなかった。
「確かに最初は苦手な感じが強かったけど、イザークに『勝負だっ!』って挑まれるのが俺だけだと思ったら段々楽しくなっていったんだ。俺に負けると全身で悔しがるとことか、逆にたまに勝ったりするとすごく嬉しがるとことか、可愛いなって思うようになって。気が付いたら好きになってた」
褒めているのか貶しているのか微妙なラインのアスランの言葉は、恋愛経験ゼロのイザークから見ても、果たして告白という定義に当てはまるのかどうか疑問だった。でも当の本人は大いに真面目な顔をしていて、とても嘘やその場しのぎの誤魔化しで言っているように思えなかったから、そういうこともあるんだろうと彼女は納得した。大体、あれほど嫌っているはずだったアスランを好きになってしまったこと自体、自分でも信じられないことなのだから。
「イザークにも俺のことを好きになって欲しいけど、無理強いはできないから…」
初めから諦めていると、悲しげに顔を曇らせ語尾を落とすアスランに苛立ったイザークは声を荒げた。
「私の意思も確かめずに、勝手に自己完結するな!」
「イザーク! じゃあ…」
アスランの顔が期待でぱあっと輝く。
「ご、誤解するなっ! だからといって好きというわけでもない!」
この期に及んでも正直に認めることが気恥ずかしくて、天邪鬼な性格のままに赤らめた頬を背けたイザークだったが、アスランはまったく動じたふうもなくにっこりと笑った。
「いいよ、これから口説くから」
「くど…っ!」
さっきまでの殊勝な態度はどこへ行ったのか。自信ありげに嘯くアスランに思わず顔を戻したイザークは、そのあまりの豹変ぶりに絶句する。
こいつ、こんな性格だったのか…!?
何だかうまく騙されたような気分でなんとなく釈然としないものを感じたイザークだったが、続くアスランの言葉に瞳を瞠った。
「でも、無理強いはしたくないのは本当だよ。男同士だってことでイザークが戸惑うのは当然だ。でも、俺が好きなのはイザーク・ジュールという人間で、性別なんか関係ない。それだけは知っておいてほしいから」
長所も短所も全てひっくるめてイザーク自身として好きなのだと、彼の本気が痛いほどわかる熱の籠った告白に、耳まで赤く染まる。
こんなふうに熱い想いを告げられたことなどもちろん初めてのことで、嬉しいけれど恥ずかしさが先に立ってしまった彼女はどうしたらいいのかわからず、甘く強く自分を縛り付けるエメラルドの双眸から逃げるように顔を伏せた。
「……イザーク」
いつのまにか目の前に立っていたアスランにこの上もなく優しく名前を呼ばれ、おずおずと顔を上げたイザークは、真摯な翡翠色の瞳に心臓ごと真っ直ぐに射貫かれ、呼吸が止まりそうになる。
「好きだ」
想いの深さを表すように熱く告げられ、そのまま胸の中に深く抱かれた。体格など大して変わりないと思っていたのにアスランの腕にすっぽりと覆われてしまい、今まで気付かなかった彼の逞しさに心臓の鼓動が嫌でも速くなる。
この煩い音がアスランにも聞こえているんじゃないかと思うと気恥ずかしかったが、それ以上に深い安堵を感じたイザークは強張っていた肩の力を抜いた。
もう自分の気持ちに正直になってもいいのだ。イザークは意地っ張りだが、大切な時に意地を張り続けるほど愚かではない。
「―――私も……、好き…」
消え入りそうな小さな声は、それでもアスランの耳にははっきりと聞えた。
「…イザーク!」
きついくらいの抱擁がそのままアスランの思いの丈を表しているようで、イザークは夢見心地のままにそっと瞳を閉じた。恐る恐る彼の背中に手を回し、しがみつくように力を込めれば、ほんの一瞬緩んだと思った抱擁がさらに強いものになる。
「…ちょっ、アスラン。苦しい…」
さすがにこれ以上力を入れられたら堪らないと、軽く背中を叩いて抗議すれば、はっとしたように拘束が解かれる。
「この、馬鹿力め」
「ごめん。嬉しくて加減ができなかった」
照れくささもあってわざと呆れたようにアスランを睨めば、子供のような悪びれない笑みを返され、イザークの頬にも苦笑が滲む。
「馬鹿…」
ゆっくりとその笑顔が近付いてきたと思う間もなく視界が塞がれ、唇に柔らかなものが触れた。すぐに離れてしまったその温もりを追うようにゆっくりと瞳を開けば、愛しむようなやさしいエメラルドの眼差しに迎えられる。視線を交わし、少し恥ずかしげに微笑みあった後、どちらからともなく自然と唇が重なった。羽のように軽いキスを何度か繰り返した後、名残惜しげに離れた唇がイザークの赤く染まった目元に落とされる。
「…何度も泣かせてしまって、ごめん…」
滑らかな銀糸を愛しげに梳きながら真摯な翡翠色の瞳が本当にすまなそうに告げるのを、イザークは首を振って遮った。
「アスランのせいじゃない。私が弱かっただけだ」
そう言って甘えるように彼の肩口に顔を埋めたイザークは、今更ながらアスランを偽っていることを酷く後悔していた。
さっきは性別なんて関係ないと言ってくれたが、それは男だと思っているからで、実は女だと告げたらアスランはどんな顔をするだろう。呆れられるだろうか、それとも怒られるだろうか…?
もし嫌われたらどうしようと不安になるが、いつまでも偽ったままでいられるはずもなく、やはり彼には本当のことを告げなければと思い直す。それでもし嫌われてしまったら、その時はアスランが閉口するくらい泣いて泣いて泣き喚けばいい。それくらいの意趣返しをしたって許されるはずだ。
「―――アスラン」
「ん?」
意を決したように顔を上げたイザークは、真っ直ぐにアスランを見つめた。強い光を称えたアクアマリンの瞳に何事かを感じ取った彼は、真面目な面持ちでイザークの言葉を待つ。
「―――今まで黙っていたが……。実は、私は……女、なんだ…」
「……………へ?」
一瞬の空白。
今、信じられないことを聞いた気がする。
―――女、って……、イザークが……?
幻聴だろうかと蒼氷の瞳を見つめ直すと、腕の中の彼――いや、彼女は酷く思い詰めた表情で微かに身体も震えていて、とても嘘を言っているようには見えない。
と、いうことは―――――。
「―――え? え? えええええええーーーーーーーっっっっっ!?!?!?!?!?!?!?」
アスランの絶叫が部屋中に響き渡った。
「―――お…、女…の子…? イザークが…!?」
「ああ、本当だ。このことはディアッカしか知らない」
なんなら証拠を…と言いかけ、慌ててアスランに止められる。
思いもよらないイザークの告白のショックからまだ立ち直れていないアスランは、これ以上ないくらいに瞳を大きく見開いて呆然と彼女を見つめた。ついでに口もぽかんと開けたその顔は、いつもの取り澄ましたアスラン・ザラとは思えないほどの間抜けぶりで、それを見たイザークは思わず吹き出してしまった。
「アスラン。貴様、その顔…!」
可笑しそうに腹を抱えて笑うイザークの無邪気な笑顔は初めて目にするもので、殻を破ったそんな素顔を見せてくれるのは嬉しかったりするのだが、なにせ事情が事情なだけにアスランは複雑な心境だ。
男を好きになってしまったと悩んだあの日々は一体何だったのだ…と、アスランは遠い瞳をした。もの凄い脱力感にその場にへたれ込みそうになる。
取り敢えず腰でも落ち着けてとイザークとともにベッドに座った彼は、まだ混乱している思考をなんとか纏めようと口を開いた。
「何でそんな危ないことを」
「母上との約束でな」
イザークが掻い摘んで事情を話すと、アスランは急に頭痛に襲われたように頭を抑えた。
エザリア女史は一体何を考えているんだ…? それをあっさり承知するイザークもイザークだが、ディアッカもディアッカだ。何故もっと強く止めないんだ!
大体幼馴染みか何か知らないが、今までイザークを独り占めにしていたのが気に入らない。何かというとイザークの傍にべったりで。まあガードしていたと言えば聞えがいいが、結局のところ自分以外の人間をイザークに近付けさせないようにしていただけじゃないか!
恋する男の性として、憤りは全ての事情を知っていたディアッカへと注がれる。この瞬間、ディアッカ・エルスマンはアスラン・ザラのブラック・リストのトップに載ったことは間違いない。
「―――アスラン…?」
急に黙り込んでしまったアスランを訝しんだイザークが声を掛ける。
「……嫌、だったのか? 私が女で」
まさか男の方がよかったなんていうのでは…と内心ビクビクしながら聞くと、ものすごい勢いでアスランが首を振った。
「そんなことないよっ! イザークが女の子で嬉しかったに決まってる!」
「本当に?」
「もちろん!」
「本当の本当に?」
「本当だよ! 神様に感謝したいくらいだ!」
「…そうか。ならいい」
彼の答えにほっとしたイザークは、嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべた。それは今まで見たこともないような可憐な微笑みで、アスランは一撃でノックアウトされた。
かっ、可愛いっ! てか、今ここでそんな顔みせるなんて、反則だろっっ!!!
今、自分達はベッドの上に座っていて、おまけに想いが通じ合ったばかりで。シチュエーション的にはまさに最高潮。ここから先は若い男女なら当然な成り行きになだれ込んでもおかしくはない。というより、正直に言うならばもっとイザークに触れたいと思う。
しかし、ここで問題になるのは当のイザークだ。男としてアカデミーに乗り込んでくるくらいだから、こういった恋愛沙汰に疎いどころか免疫もないに違いない。キスした時も微かに震えていたくらいだから、もしここで押し倒したりしたら、それこそ最低の烙印を押されるのは必死で。折角告白してOKをもらったのに、あっという間に嫌われるのは絶対に避けたかった。
ああもう、なんでベッドになんか座ったんだ、俺!
すぐ傍にイザークの温もりを感じながら手を伸ばしたくても伸ばせないジレンマに陥ったアスランは、頭を掻き毟って暴れたくなった。
「…アスラン? どうかしたか?」
彼が必死で理性と戦っているとは思いもしないイザークは、当然自分が如何に危険な状態に置かれているのかも気付くはずがなかった。
「い、いや…、なんでもない」
視線を泳がせ、思わず腰が逃げるアスランに、全く頓着しない様子でイザークは顔を覗き込んでくる。
「そんなことはないだろう。何か言いたいことがあるなら、きちんと話せ」
「えっと…」
至近距離から見つめられる綺麗なアクアマリンの瞳にどきどきしながら、アスランは必死で言い訳を探す。
「……そう、部屋! 今まで男だと思ってたから同室だったけど、これからはそうはいかないだろ? 何とか理由をつけて一人部屋にしてもらわなくちゃ」
「は…? 何で部屋替えしなくてはいけないんだ? 別にこのままでいいじゃないか」
我ながら上手いと自画自賛した言い訳は、あっさりとイザークに切って捨てられた。
「え? だって、…色々と、その……まずいだろ?」
窺うように上目遣いでやんわりと問い掛かけてもイザークには通じない。
「? 何がまずいんだ?」
「えっと、その……」
だから今まではイザークが男と思っていたから平気だった――実際は全然平気じゃなくなっていたが、寝顔にキスしたことは、この先絶対に黙っていようと今この瞬間堅く心に誓った――だけで。女の子とわかって、しかも好きな人と一緒の部屋だなんて、とてもじゃないけど我慢できないというか俺の理性もいい加減限界というかなんというか……。
声に出せない言い訳がアスランの頭の中でぐるぐるエンドレスで巡り続ける。
言いよどむアスランに、イザークの眉間に皺が寄った。彼が惹かれて止まないアクアマリンの双眸がすっと顰められる。
「じゃあ、何か? 貴様は私と同室なのが嫌なのか?」
蒼氷の眼差しに剣呑な光が宿るのを見て取ったアスランは、やっぱりイザークは怒った顔も綺麗だなあと見当違いのことを考えたせいで返事が逸れた。
「や。そんなことはない、よ…?」
「なら、問題はないだろう?」
あっさりと怒気を解いたイザークは、それはそれは優雅に微笑んだ。優美で可憐で、それでいてどこか小悪魔めいた魅惑的な笑顔。初めて見るその笑みに思わず見惚れてしまったアスランは、これまた無意識のうちに頷いていた。
今日だけで一体幾つの表情を見ただろう。様々な顔を見せてくれるイザークのその全てが自分を魅了して止まない。
「―――あれ…?」
ふと我に返ったアスランが迂闊な自分を呪っても、それはもう後の祭りというやつで。
素直に甘えてくるイザークを胸に抱きながら、これから先の幸せと正比例した忍耐の日々を思って、アスランは密かに溜息を吐いた。
END(笑)