TOP SECRET! 8








人気のない図書室はひっそりと静まりかえり、窓から差し込む淡い月の光が室内を仄かに照らしている。
 追いかけてくるアスランを撒いてここに逃げ込んできたイザークは、整然と並べられた書架の奥に隠れるように置かれたソファに両足を抱えるように座り、ぼんやりと宙に視線を彷徨わせていた。
 泣いて泣いて泣きまくって、それこそ涙が枯れるくらい泣いた気がする。あまりに泣きすぎて頭が痛くなったくらいで、同様に痛む喉に恐らく声も凄いことになっているに違いないとまるで人事のように彼女は思った。
 涙が収まると同時に高ぶった感情も鎮まり、今イザークの心は不思議と落ち着いていた。レッドゾーンを通り越しリミッターが外れて暴走した感情が、ガス欠をおこして虚脱状態に陥っていると言った方が正しいかもしれないが。それでも客観的に自分を顧みれるくらいには余裕が戻っていて、先程の醜態を思い起こした彼女は深い溜息を吐いた。
 冷静になって振り返れば、何故あれほど感情的になってしまったのかわかった気がする。
 負け続けとはいえ少なくとも対等だと思っていたアスランに、実は全然叶わなかったことを気付かされたことが悔しくて、更には今まで実感したことのなかった男女の力の差をまざまざと思い知らされて怖くなった。いい気になっていた鼻っ柱を折られ、歴然としたその力の差に情けなくも怯えてしまったのだ。それでパニックを起こして泣き出してしまうなんて、まるで子供の癇癪と一緒だ。自分がこんなにも弱い人間だったことを自覚させられ、恥ずかしくも居た堪れない心地でいっぱいだった。しかも、よりによって一番泣き顔を見られたくなかったアスランの目の前で大泣きしてしまって、これからどんな顔をして彼に会えばいいというのか。考えるとなんとも気が重かった。
 それにしても、わからないのはアスランの行動だ。何故あんなことを――キス――してきたのか、まるでわからない。泣き出した自分を慰めたつもりなのか。だが、普通は泣いている人間にキスなどするものだろうか? 家族ならわかるが、単なるルームメイトでしかも同性――アスランは自分を男だと思っているはず――に対して。
 そこで一瞬イザークの思考が途切れた。今更ながらものすごいことに気付いた気がする。
 ―――――キス…したんだ、アスランと。ひょっとしなくても、ファースト・キスというやつで……。
 指先でそっと唇に触れてみた瞬間、ぼっと火が点きそうなくらいの勢いで顔が赤くなる。心臓が早鐘を打ち始め、うろたえたイザークはとりあえず深呼吸などして気を落ち着けようとしてみるが全くの無駄だった。
 一体、どうしたんだ、私は! アスランと、キスしたくらいでこんなに動揺するなんて!
 そう、たかがキスだ。たまたま一番最初にした相手がアスランだというだけで、別に何でもないことだと無理やり納得させようとするが、彼女の意に反して心臓の鼓動はますます速まり、顔の火照りも酷くなる。もはや耳まで真っ赤の状態だ。挙句の果てにアスランの笑顔まで脳裏に浮かんできて、イザークはジタバタと手足を動かして必死に彼の面影を消そうとするが、悲しいかな徒労に終わった。
 やがて抵抗に疲れてぐったりと背もたれに身体を預けたイザークは、諦めたように瞳を閉じた。
 いずれにせよ、あのキスに意味などない気がする。アスランにどんなつもりがあったにせよ、多分気の迷いというやつで。だから彼は謝ったではないか、ごめん…と。まるで後悔しているように、何度も。その時の苦しげなアスランの顔を思い出してイザークの胸がずきんと痛んだが、気付かないふりをした。
 それに、彼にとっては謝れば済む程度のことで、された方も犬に噛まれたと思えばなんてことはない。それをさも重大なことのように騒ぎ立てる自分が滑稽なのだ。大体、好きな人のために大事に取っておこうなどという少女趣味は生憎持ち合わせてなぞいないし、一回や二回したくらいで減るものでも……。
「―――――あ…、れ……?」
 ふいに、何かが一筋頬を伝うのを感じる。驚いて指で滴を拭うと、まるでそれが合図だったかのように鼻の奥がツンと痛くなって涙が溢れてきた。
「ああ、もうっ…!」
 苛立たしげに目元を手の甲で拭うが、溢れ出る涙は止まらない。散々泣いて枯れ果てたと思っていたのに一体どこに残っていたというのか。どうやら本格的に壊れてしまった涙腺に苦笑を浮かべようとして失敗したイザークの顔が悲しげに歪んだ。自分を誤魔化すのもそろそろ限界にきたことを察した彼女は、震える手を口元に当てて懸命に嗚咽を飲み込む。
 ―――本当はアスランに謝ってなど欲しくなかった。どんなに優しく告げられても、結局「ごめん」という言葉は謝罪の言葉でしかない。彼にとっては謝らなければならないことでも、自分は違うから。あの時は混乱してわからなかったことが今ならわかる。
 アスランにキスされて、あまりに突然で驚いたけれど嫌じゃなかった。嫌どころか心の奥で本当は嬉しいと思ったのだ。けれどもうそんなことは口が裂けても言えなくなってしまった。
 そんなことを言ったら、きっとアスランは困るから。一生懸命自分を傷つけないように慎重に言葉を探して選んで、そして最後に「ごめん」と言うだろうから。優しいだけの言葉はもう聞きたくなかった。それならばいっそ罵られた方が遥かにマシだ。
 ずっと見ないふりをして避けてきた自分の本当の気持ちをとうとう認めなくてはならなくなって、イザークは絶望に似た思いに捕らわれた。アカデミーに入学以来、アスランに対する態度は最悪の一言で、とても彼が好意を抱いてくれるなんて思えない。ましてや、今のイザークは性別を偽って男としてここにいるのだ。実は女でしたなんてことは言えないし、当然自分を男と思っているアスランに告白などできるはずがなかった。
 今更何をしたところで叶わないこの想いをどうすればいいんだろう。想うだけでこんなに苦しいのなら、いっそ知らないままでいた方がよかったのに。どうして気付いてしまったんだろう。どうして……。
「―――最、悪…っ」
 とうとう嗚咽も抑えきれなくなってしまったイザークは、ソファに縋りつくようにその身を伏せ、あれほど取り繕っていた体裁も意地もプライドもかなぐり捨てて、ただ子供のように泣きじゃくった。
 だって、人を好きになるのは初めてだったのだ。それがどんなものなのか理解する前にライバルだと認識してしまったから、本当の気持ちにずっと気付けなかった。アスランといると胸が騒ぐのも気になってしまうのもライバルだからだと思い込んで、過剰な反応を見せていた自分があまりにも愚かで。けれど、彼がキスなんかしなければ気付くこともなかったかと思うと暴挙に及んだアスランが心底憎らしく、そしてそんな奴が好きな自分は大馬鹿だと思うとまた泣けてきた。いっそ心の痛みも涙で洗い流してくれたらどんなに楽だろう…そんなことをぼんやり考え、他力本願的な自分に苦笑が零れる。
 ―――泣くのは今だけ。明日になったら強い自分に戻るから、今だけ弱い自分を許してほしい…。
 そんなふうに自分を慰めていた矢先、ピーっと入口のロックを外された音がした。はっとして身構えたイザークの耳に、軽い空気音とともに入口の扉が開く音が聞える。
「……………………」
 室内に入ってくる人の気配にイザークは身体を起こしてソファに座り直すと、涙に濡れた頬を乱暴に拭った。気を落ち着かせるように深い呼吸を繰り返しながら、なんとなく誰であるのか予想がついていた彼女は、泣き顔はもう見せてしまったから仕方ないとしてもせめて見苦しい様は見せまいと腹に力を入れた。
 果たして、月明かりにぼんやりとその姿を浮かび上がらせたのは、イザークが今一番会いたくなくなかった人間だった。
「―――やっぱりここだった」
 イザークの姿を認めたアスランがゆっくり近付いてくる。
「―――よくここがわかったな」
 泣いていたことを隠す努力を放棄したイザークが涙で掠れた声で訊いた。
「…うん。よくイザークがここに来て本を読んでいたの知ってたから」
 自分のことなど関心がないと思っていただけにアスランの言葉は意外で、イザークは思わず顔を上げて彼を見上げた。月明かりでははっきりとした表情は見えないが、それでも彼が穏やかな顔をしているのはなんとなくわかった。
「えっと、話があるんだけど、…ここじゃ落ち着いて話せないから、部屋に戻らないか? 夕食もまだだろ?」
「…別に腹は減っていない」
「あ、そう…」
 素っ気ない自分の言葉にアスランが気落ちしたのがわかる。しかし、こちらも平静を保つのが精一杯で、フォローするどころの話ではない。それでもなんとか話しかけようと言葉を探す彼の様子を暫く窺っていたイザークだったが、なかなか口火を切らないアスランにいい加減焦れてきた。元来気が長い方ではないのだ。
 話というのが何だか気になるが、彼の言うとおり確かにこれ以上ここにいても仕方がないし、既にみっともない泣き顔を見られているんだから、今更アスラン相手に恥ずかしいも何もない。
「――イザーク…?」
 やおら立ち上がった彼女に、アスランが不思議そうに声をかける。
「部屋に戻るんだろ?」
「あ、うん…」
 そう言って彼に構わず歩き出したイザークは、慌てて後ろについてくる気配に安心して微かに口元を綻ばせた。





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          なんかイザークずっと泣いてる気が…(汗)
         …全部アスランが悪いってことで(責任転嫁;)
         つ、次こそはイザの笑顔を!!(滝汗)