「………………………」
ベッドに入ったものの珍しくなかなか寝付けないでいたイザークは、それでも何度か寝返りを打ちながら眠る努力をしてみた後、一向に睡魔が訪れないとわかると諦めたように小さく息を吐いた。ごそごそと身体を起こし隣のベッドの様子を窺えば、シーツに包まった人影が常夜灯の仄かな明かりに浮かんで見えた。
静かな、静かな夜。聞えるのは、本当に微かなアスランの寝息だけ。
イザークは、自分に背を向けて眠るルームメイトを見つめながら、ぼんやりと考えた。
―――最近、アスランに避けられている…。
一番最初に違和感を感じたのは、アスランが珍しく寝坊した日のことだ。体術の訓練があったその日、いつものようにアスランと組むものとばかり思っていたら、彼はさっさとディアッカを相手に組み手を始めてしまった。その時はアスランと離れた位置に立っていたので、自分ではなくすぐ隣にいたディアッカと組んだのはさほどおかしな話ではない。しかし、それがどんな訓練においても同様となると話は別で、アスランは月2回の模擬戦の組み合わせで当たった時以外、イザークと組まなくなったのだ。
そのことに目ざとく気付いたラスティが、何故急にイザークと組まなくなったのか聞くと、『いつも同じ人間と組むと、相手の癖もわかってしまって訓練にならないから』と、いかにも優等生の彼らしい答えが返ってきたという。
そのこと自体はイザークも一理あるとは思う。しかし、久しぶりに勝負した――悔しいことにまた負けてしまったが――時、怒りに任せて突っ掛かる自分を困ったような表情を浮かべながらも一応は受けていたアスランだったが、今は勝負が終われば用済みとばかりにさっさと引き上げてしまっている。
噛み付くべき一番の相手がいなくなってしまったため、いつもなら即座に発散できたはずの鬱憤が澱のように溜まり、時々臨界を越えて八つ当たりという形で爆発していた。その被害者は主にディアッカ――時にはニコルやラスティも――と部屋の備品の数々である。
さらに、あまり気乗りがしない素振りをみせながらも彼女の自主訓練やチェスの勝負に付き合っていたアスランだったが、嫌だとはっきり断るようになった。そればかりか、部屋にいても机に向かって趣味だと言うペットロボットの製作に熱中していて、およそ会話というものがない。
ここまで徹底されれば、いかな鈍いイザークとはいえ、避けられていることくらいはわかる。わからないのは、何故避けられるのか、その理由だ。
自慢ではないが、嫌われる原因など腐るほど思い当たる。
何かにつけては敵対意識を露にして突っ掛かり、アスランの方から歩み寄って差し出された手を拒絶してきたのは他ならぬイザーク自身だ。本当はそれではいけないと思いながらも、出鼻を挫かれた悔しさと、女であることを隠し通さねばならないため張り続けた虚勢と精神的疲労、そして性差のハンディに負けたくないという頑ななまでの意地がアスランとの間に壁を作り、素直になることを拒絶させていた。
自分が悪いから、嫌われても仕方がないとは思う。けれど、こうも露骨に避けることはないではないか。
勝気な彼女らしく大人気ない彼に対する憤りが胸に湧き起こるが、それもすぐに消え去ってしまう。
少なくともアスランはすぐ感情的になる自分とは違い、嫌いな相手に対しても良識的な態度で接することができる人間だ。けれど、そんな彼が上辺を取り繕おうとさえしない自分はそれほどまでに嫌われてしまったということで、その事実にイザークはひどくショックを受けた。まるで心臓を鷲掴みされたかのように胸が痛み、俯きながら庇うように押さえた右手がぎゅっと夜着を握り締める。
―――誰に嫌われようが一向に構わなかったのに、それがアスランだと何故こんなにショックなんだろう? 何故こんなに胸が痛くなるんだろう…?
それが、初めてライバルだと認めた人間だからなのか、それとももっと違う感情からなのか、イザークにはわからない。ただ、混乱した思考の中で確かなことは、アスランに嫌われたくないという思いだけだった。誰かに嫌われたくないなんてそんなことを思うこと自体初めてで、どうしたらいいのかなんて彼女にはまったく見当もつかなかった。
けれど、今更そんなことを考えたところでもう遅いのだ。アスランは自分のことを口もききたくないくらい嫌っていて、できれば顔も会わせたくないくらいだろう。そんな相手がよりによって同室なのだから、近いうちにきっと彼の方から教官に部屋換えを申し出るに違いない。何れにせよ、関係修復など望めるはずもなかった。
絶望にも似た思いがイザークを捉え、アクアマリンの瞳が切なげに揺れる。
自分はもっと強い人間だと思っていたのに、たかが一人に嫌われてしまったくらいでこんなに心が弱くなるなんて、彼女自身信じられなかった。
―――アスランなんか…っ!!
きりきりと締め付けられるように胸が苦しくなり、鼻の奥がツン…と痛くなった。目蓋が熱くなって昂ぶった感情のままに何かが込み上げてくる。久しく感じたことのなかったその感覚に、イザークは愕然とした。
―――何でこんな…っ!?
思わず両手で口を押さえたその下で喘ぐような吐息が零れる。まずいっ…と思ったその瞬間、闇の向こうから声が聞えた。
「―――眠れないの?」
「……………っ!!!」
てっきり眠っているとばかり思っていた相手に急に声をかけられて、どくんと心臓が波打った。驚きのあまりもう少しで零れそうになった涙が寸でのところで留まり、深く息を吐いたイザークが恐る恐る彼の方を窺えば、アスランが身体を起こしてこちらを見ていた。
「―――――寝てなかったのか…」
震える声を誤魔化そうそして、わざとぶっきらぼうに言う。もっとも、声をかけられた瞬間身じろいでしまったためにおきた衣擦れの音で取り繕ったことなど気付かれてしまっているだろうが、泣きそうになったことだけは絶対に気付かれたくなかった。
「……あんなに寝返り打たれたんじゃ、寝ようとしても寝れないよ」
「―――っ! 悪かったな! もう寝るっ!」
呆れたようなその口調にかっとなって叫んだイザークは、ベッドに潜り込むと自棄くそ気味に毛布を頭から被った。
「そうした方がいいよ」
背中越しに掛けられた素っ気ない言葉にまた傷付けられたイザークは、悔しげに唇を噛み締めた。
―――――アスランなんか、アスランなんか、アスランなんかっっ…!!!
こんな奴に振り回される自分が情なくて悔しくて、涙が出そうになった。高ぶった感情を抑えようとシーツを握り締める力を強くする。
もうたくさんだった。思いどおりにならない自分の感情も、避けていたくせに気まぐれに構ってくるアスランも。すべて切り捨ててしまいたい。
しっかりしろ、イザーク・ジュール! お前は何のために性別を偽ってまでアカデミーに入学したんだ? プラントを守る軍人になるためじゃなかったのかっ!? だったら、こんなくだらないことで神経をすり減らしている場合じゃないだろう!!
自分で自分を叱咤して、イザークはかつての自分を取り戻そうと躍起になる。けれど、それが精一杯の虚勢であることに彼女は気付かない。――いや、気付いてはいても、彼女の矜持を守りぬくためにそうするよりほかに方法を知らなかったのだ。
やがて眠りに落ちるまで、イザークはずっと心の中で言い聞かせていた。
今度こそ、決着をつけるのだ、と―――――。
自分に背を向けてシーツに包まったイザークの姿をしばらく見つめていたアスランは、小さく嘆息すると右手で額を抑えた。闇に溶け込んだエメラルドの瞳に滲んだ苦悩の色が、彼の心情を物語っている。
寝付きのいいはずの彼が珍しく眠れない様子なのがなんとなく気になっていると、やがて起き上がる気配がした。慌てて寝返りを打って寝たふりをしながら様子を窺っていると、微かに聞えた身じろぐ音。
気付かれぬようにこっそりと顔を向ければ、常夜灯の僅かな光に照らされてぼんやりと浮かび上がる華奢な背中――。俯いた彼の表情は銀糸に隠れて窺えないが、覚束ない灯りの下でも何かを堪えるように胸の辺りをぎゅっと押さえている様子は見て取れた。夜着に包まれた細い肩が頼りなくて、そんなわけがあるはずもないのに泣いているように感じられ、思わず抱き締めて慰めたくなる衝動を必死で堪えた。けれども堪えきれずに声を掛けてしまい、その瞬間びくっと揺れた細い肩に苦い後悔が押し寄せる。
恐らくは自分に見られたくなかった姿だったのだろう。震える声がそれを如実に物語っていた。しかし、ここで気遣うような素振りをみせることは彼のプライドを傷付けると判断したアスランは、イザークの気を逸らすためにわざと素っ気ない返事を返した。案の定怒ったイザークは不貞寝をするようにベッドに潜り込み、彼の目論見は一応成功したと言える。
―――けれど。
表情こそ見えなかったが、アスランはイザークが何かに酷く傷付いていることに気付いていた。そしてそれは自分が原因だと、自惚れに近い確信がある。
何故なら、アスランは最近イザークを避けているから。自分でさえ呆れてしまうくらいあからさまだったから、当然彼も気付いているはずだ。もっとも、一番最初に気付いたのは意外なことにラスティだった。何故イザークを避けると聞かれて、咄嗟に出た言葉に一応は納得した風を装っていたが、多分嘘だと見抜かれているだろう。彼の洞察力は、それほどに鋭い。
アスランが下手くそな芝居までしてイザークを避けているのは、彼を好きだと自覚してしまったからだ。勿論、男同士と言うことで最初は酷く悩んだし何度も否定しようとした。しかし、自分の気持ちに真っ直ぐに向き合っているうちに、イザークが好きだとすんなり認めることができた。性別なんて関係ない、イザーク・ジュールという人間に惹かれているのだと。若干屁理屈めいてはいるが、自分の気持ちに嘘はつけなかった。
自覚して困ったことは、何よりイザークと同室だということだ。恋心を抱いている人間と殆ど四六時中一緒というのは若いアスランにはきつい状況だったし、何よりイザークに自分の気持ちを告げることのできない彼にとって、最早拷問に近かった。
いっそ何もかも告白してしまいたいと何度思ったことか。その度に、イザークにこれ以上嫌われることが怖くて何も言えなかった。ただでさえ嫌われている身だ。万が一にも受け入れてもらえる可能性などゼロに等しい。うっかり告げて蛇蠍のように忌み嫌われるくらいならば、今のままでいた方がよっぽどマシに思えた。
しかし、それが甘い考えだと言うことはすぐに思い知ることになる。好きだという想いを理性で抑えられると思っていたアスランが浅はかだったのだ。抑えつけていた想いが膨れ上がった挙句イザークとまともに向き合うこともできなくなり、部屋で一緒に過ごすなど堪えられなくなってきた。そして、暴走しそうな自分を抑え込む最終手段が、『彼を避ける』という消極的かつ卑怯な方法だったのだ。
突然避けられた始めたイザークは戸惑っただろう。何か言いかけた彼に気付かぬふりで無視を決め込んだことなど一度や二度の話ではなく、我ながら最低だと何度も後悔した。それでも、彼を傷付ける行動に走るよりはマシだと思っていたが………。
己が勝手な思い込みによる行為が、イザークの身体ではなく心を傷付けていたことにようやく気付いた。プライドが高く意地っ張りな彼は決して表面上に出さなかったが、その裏でどんなに心を痛めていたのかと思うと、愚かな自分が許せなかった。いっそ自分で自分を絞め殺してやりたいくらいだ。
こうなったら、すべてを包み隠さず告白するしかないとアスランは思う。
どれほど謝っても許してもらえないだろうし、軽蔑されるのはわかっている。もう二度と、あの清冽で真摯なアクアマリンの瞳に見つめてもらえないだろうことも。それは身を切られるように辛いことだが、すべては自分が招いた自業自得の結果だから仕方ない。それよりも、イザークの心の負担を取り除いてやることの方がよほど重要なことだった。
ひょっとしたら同室でいられるのも今夜が最後かもしれないと、アスランは思った。明日すべてを打ち明けたら、イザークは教官に部屋換えを申し出るだろう。自分に対して邪な想いを抱いている相手と同室になど誰もなりたくないものだ。
そう考えたらなんだか急に名残り惜しくなって、イザークの寝顔を見たくなった。よくよく考えれば3ヶ月近く一緒にいるのに、未だ彼の寝顔を見たことがないのだ。我ながら懲りない奴だと呆れるが、これが最後のチャンスだと思うとその誘惑には勝てなかった。
アスランは用心深くイザークの方を窺って、彼が完全に寝入ったことを確認すると静かにベッドを抜け出した。細心の注意を払ってゆっくりと彼のベッドへ近付き、そっと覗き込むと……。
「……………」
猫のように身体を丸めて眠るのがなんともらしく感じられ、思わず苦笑を漏らしそうになった。白いシーツに半ば隠れるようにシルクのような滑らかな銀色の髪が覗き、その下にいっそあどけないといっていいほどの可愛らしい彼の寝顔が現れた。普段はきつい光を宿すアクアマリンの瞳は閉じられ、ほんの僅かに開かれた形の良い唇がまるで誘っているかのようだ。
アスランは邪な考えに捕らわれそうになり、慌てて視線を外した。と、その時。
「―――ん…」
突然イザークが寝返りを打った。とっさのことに動けず固まってしまったアスランだったが、幸いにも彼は起きることなくすぐに規則正しい寝息が聞えてきた。密かにほっと息を吐いて戻ろうとした時、彼の目元に光るものを見つけ、ずきっと胸が痛んだ。エメラルドの瞳が切なげに顰められる。
―――ごめん、イザーク…。
心の中であらん限りの謝罪を述べそっと顔を近付けると、その雫を吸い取るようかのように目元に羽のようなキスを落とした。そのまましばらく愛しげにイザークの寝顔を見つめていたアスランは、引き寄せられるように再び顔を近付け、万感の想いを込めて可憐な唇にそっと口付けた。
触れたか触れないかの短いキスだったが、イザークの柔らかな唇の感触がアスランの胸を幸せな想いで満たした。寝ている時に卑怯だとは思ったが、どうせ最後なのだからという思いが彼を大胆な行動に走らせたのだ。
再びイザークが寝返りを打ったのを見て、アスランは後ろ髪を引かれながら自分のベッドへ戻った。シーツを被ってしばらくしても早鐘を打ち続ける心臓に、思い切ったことをしたものだと苦笑が滲んだ。
自業自得だが今夜はもう眠れそうもないなと、ぼんやり考える。明日からは多分辛い日々が待っているだろうから、せめて今夜だけは幸せな気持ちに満たされていたい。
イザークのあどけない寝顔と柔らかな唇の感触を思い起こしながら満足げな笑みを浮かべたアスランは、溢れんばかりの彼への思慕を抱きながら静かに瞳を閉じた。