「…………なた……ねぇ」
 ――――― 声が、聞こえる。
「………ねぇ、大丈夫?」
 頭の中で暴れていた男の声ではない。柔らかく落ち着いた女の声だ。
(………お、んな…………)
 そう思った瞬間、意識が一気に覚醒した。
「!?」
 飛び起きて、急に起き上がった所為でぐらぐらと揺れる視界に歯噛みする。
「……大丈夫? 意識を失っていたのだから、急に動かない方がいいわ」
「ふざけるな!!」
 伸びてきた白いグローブに包まれた腕を叩き落し、ルークは素早く立ち上がると後退って距離を取った。
 頭がズキズキと痛む……何時もの頭痛とは違う、物理的な痛みだった。
 師を殺そうとした女に予想もしていなかった穏やかに声をかけられた事による混乱があった。
 それ以上に、得体に知れぬ女に対する警戒と憤りがあった。
(クソッ、一体何が………)
 素早く視線を動かしてあたりを確認し ――――― ルークは目を見張る。
 どれほど意識を失っていたのだろう、辺りは既に暗く、空には星が瞬いていて。
「……海……?」
 眼前にはうっそうと生い茂る緑豊かな渓谷の狭間から、大きな月と。
 それに照らされる黒々とした海が、広がっていた…………。


「………何がどうなってやがる!?」
「――――― どうやら、私と貴方の間で超振動が起きたようね」
 噛み付くように言ったルークに、少女は……落ち着いた雰囲気から随分と年上かと思っていたが、良く見れば年の頃はあまり変わらないようだった……溜息にも似た息を落として立ち上がった。
 警戒されているのがわかっているのか、それ以上距離を詰めることはせず、落ち着いた ――――― 深い湖を思わせる蒼い瞳でこちらを見つめている。
 公爵邸に押し入った暗殺者のそれにしてはあまりにも普通めいた、静かな所作で。
 それがいっそうルークの混乱に拍車をかけた。
「…………あれは、物質を分解する現象じゃなかったのか……?」
「………そうならなかったことに、感謝しなくてはいけないわね」
 超振動とは、同位体の音素フォニム振動が干渉しあうことによって生まれる、あらゆる物質を破壊し、再構築するとされる超現象のことだ。
 軍事転用の為の研究も進められており……幼い頃、ルークも関わったことがある。
 厳密に言う関わらされたのであり、屋敷に軟禁されるようになって唯一良かったと思えるのがこの研究に関わらずにすむようになったことだった。
「………貴方も第七音素譜術士セブンスフォニマーだったのね……迂闊だったわ……」
 少女は考え込むように視線を落として、黙り込む。
「…………巻き込んでしまってごめんなさい。貴方は……ファブレ公爵のご子息ね?」
「……………そうだ。ルーク・フォン・ファブレだ。………お前は?」
 長い沈黙の後、向けられた言葉に目を見張り。
 けれどすぐに彼女が自分を知っていてもおかしくないことに気付いて………公爵邸に住む、キムラスカの王族の証である紅い髪と瞳の緑を持つ青年となれば他にいない………ルークはゆっくりと頷いた。
「……私は………ティアよ」
 僅かな逡巡の後、そう言って彼女は押し黙った。
 それだけか、と暗に責める様な視線を送ったが、彼女はそれ以上言葉を紡ごうとはせず、戸惑うような困ったような表情で視線を反らしてしまう。
 ――――― 始めに見た冷徹な侵入者のそれとのブレを、強く感じた。
(………………妙な女だ)
 暗殺者にしてはどこまでも真っ直ぐな蒼い瞳をしていて、それがすぐ近くに居た誰かを思い出した。
(……誰か……そうだ、師匠せんせいだ!)
「貴様、何故師匠せんせいを狙った!」
「…………個人的な事情よ」
 激昂のままに怒鳴りつけた瞬間、それまでの揺れが嘘のようにすぅっと彼女の表情が消えた。
 声が冷えて、透き通った氷を思わせるものになる。
「…………」
「…………」
 ――――― 長い沈黙が落ちた。どうやらそれ以上のことを応える気はないらしい。
「………とにかく、巻き込んでしまったことはすまないと思っています。それで許されるとは思わないけれど、責任を持って貴方をバチカルのお屋敷まで送っていくわ」
 やがて彼女の発した平坦な、一切の感情を含まない冷たい声に反発を覚えてルークはふんと小さく鼻を鳴らした。
「ここがどこかもわからんのに、どうやってバチカルまで行く気だ?」
「とりあえず、この渓谷を抜けて海岸線を目指しましょう。街道に出られれば辻馬車もあるだろうし、帰る方法もみつかるはずだわ」
「素性も名乗らん女をどうやって信用しろと?」
「………信用してもらうしかないわ。それとも一人でここに残りたい?」
「………………」
 ルークは小さく舌打ちをして眉を顰めた。
 自分が外の世界に疎い自覚はある。
 少なくとも、どこか街に辿りつくまでは彼女に同行した方がいい。
 ………それは、わかっているのだ。
「…………私は、神託の盾オラクルの人間よ。少なくとも貴方の敵ではないわ。……これではダメかしら?」
 彼女に、自分を傷つけるつもりがないことも。
 そのつもりがあったのなら、ルークは意識のない間にとっくに殺されていたはずだった。
「………わかった」
 ――――― 結局折れたのはルークの方だった。


 渓谷を下った二人は、幸いすぐに辻馬車に乗ることが出来た。
 厳密に言えば水を汲みに来たその御者と遭遇し、ティアの持っていたペンダントと引き換えに乗車させてもらえることになったのだ。
 当初『漆黒の翼』なる盗賊に間違われたルークが切れかけて宥めるのに一苦労だったとかトラブルがない訳ではなかったが、これで彼を首都まで送っていくことが出来る。
(仕方ないわよね………)
 御者が無造作にズボンのポケットに捻じ込んだペンダントを思い出し、ティアは密かに嘆息する。
 ――――― それは繊細な細工の金の台座に大振りのスタールビーが嵌め込まれた年代物アンティークのペンダントで、母の形見として兄から貰ったものだった。
 大切なものではあったが、着の身着のままどことも知れぬ場所に飛ばされ、碌な路銀もない現状では手放すより他に手はなかった。
 自分が巻き込んでしまったのだから責任を取るのは当たり前のこと。
 そのこと自体は後悔はしていないものの、何とも言えない寂しさと罪悪感があった。
(ごめんなさい………)
 小さく呟いて隣を見やれば、慣れない山歩きに疲れたのだろう、ルークが苦悶するように眉を寄せて眠っているのが見える。
 それに何か思うより早く、耳を劈くような轟音が聞こえてティアは目を見張った。
「…………今のは、譜術による砲撃の音……?」
「………うわぁッ!?」
「……っ!」
 衝撃に目を覚ましたらしいルークが窓に張り付いた同時に、殆ど正面からぶつからんばかりの勢いで黒塗りの馬車が突っ込んできて、息を呑む音と御者の悲鳴が重なった。
 辛うじて衝突を避け右にずれた車体に、今度は腹の底に響くような大音量がぶつかってくる。
『そこの辻馬車! 道を開けなさい! 巻き込まれますよ!』
 音機関を通して増幅したらしい若い男の声だった。
 声の聞こえてきた方向に頭を巡らせて、ルークは目を見張る。
 其処にあったのは、先程の馬車の数倍……否、数十倍も大きな、巨大な陸艦の姿だった。
「あんた達と勘違いした漆黒の翼だよ、軍が追ってるんだ!」
 御者の完成にも似た声が上がる。脇にそれて停止した辻馬車の横を抜け、陸艦はぐんぐんと黒塗りの馬車………よく見ると扉に赤で縁取られた鳥の翼の意匠を凝らしてある………へと近づいていった。
(…………ん?)
 その馬車から何か樽の様なものが落とされて、あれはなんだろうと思うが早いか、炎が上がった。
 同時に陸艦の前に巨大な譜術の障壁が展開される。
 それに押し返されるように炎が渦巻いて、馬車が渡る橋を飲み込んだ。
 馬車はどうにか反対側へと渡り終えたようだが、橋は見る影もなく焼け落ちてしまう。
「あれが漆黒の翼………」
 逃亡の為に橋一つ落としてしまうとは何とも豪胆だ。
 一筋縄ではいかなそうな賊だとぼんやりと考えたところで、頭上からどこか興奮した様子の御者の声が振ってきた。
「驚いた! ありゃあマルクト軍の最新型陸上装甲艦タルタロスだよ! 俺も前に一度遠くから拝ませてもらったことはあったが……まさかこんな近くで見ることが出来るなんて思ってもいなかった!」
 ルークはぎょっと目を見開いて、顔を上げる
「………マルクト軍だと!? どうして、マルクト軍がこんなところをうろついているんだ!」
「そりゃあ当たり前さ。何しろキムラスカの奴らが戦争を仕掛けてくるって噂が絶えないんで、この辺りは警備が厳重になってるからな」
 こともな気な様子で告げられた台詞に、言葉を途切らせる。
 それはつまり、どう言うことだ? その言い方ではまるで、ここがキムラスカではないようではないか。
「………ちょっと待って。この馬車は、今どこを走っているの?」
「……どこって、西ルグニカ平野さ」
「………!」
 ティアも慌てたように身を乗り出し………絶句した。
「………おい、どう言うことだ」
 その様子に嫌な予感を覚えて、ルークは御者に聞こえぬよう小声で彼女に問いかける。
「…………西ルグニカ平野は、マルクト帝国の西岸に広がる平野よ……ここはマルクト帝国領なんだわ」
「……なんだと……!?」
 背中に嫌な汗が滲むのを感じる。
 まさかそれ程の距離を……国境を越えてしまう程の距離を飛ばされてしまっていた、とは予想外だった。
 ティアにしてもそれは同じだったのだろう、もともと白い頬が僅かに青褪めている。
「どうかしたのかい?」
 急に黙り込んだ二人を不審に思ったのか隣の乗客が声をかけてくる。
「あ……いえ、思っていたのと全く違う場所、だったので」
 誤魔化すように笑って、ティアはさり気なくルークの肩に顔を寄せた。
「………とにかく近くの街で下りましょう。話はそれからよ」
 極々小さな声で告げられたそれに、ルークは憮然とした表情で、けれど頷いて了承の意を示したのだった。

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 えーと、ルクティアです。いつ会うのかわかりませんが、ルクティアなんですと主張しておきます(苦笑)。
 しっかりじっくり一本の小説として書きたいなと思ったらこんな感じに……(汗)。
 ちなみに他カプはアシュナタ、シンアリ、イオアニ(フロアニ)の予定ですが、全体的に進んでみなければわからない気配が漂っています……(笑)。

2009.07.12

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