大きく取られた部屋の窓から高く澄んだ空を見上げ、ルークは濃い翠の瞳を眇めた。
( ――――― クソっ……)
 口の中で転がすように小さく呟いて、乱暴に窓を閉じる。
 癖の無い紅い髪を腰に届くほど長く伸ばして前髪を後ろに撫で付けており、眉間の間には鋭い皺が刻まれていることもあって幾らか大人びて見えるものの、やっと青年に足をかけたばかりの彼は今年一七になったばかりだった。
 キムラスカ王国第三位王位継承者であり、インゴベルト六世陛下の甥。
 そしてその一人娘、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアの婚約者……すなわち、時期国王に最も近いと称されながら、けれど、彼は決して恵まれては居なかった。
 無論、物理的には恵まれている。
 身の回りのもの全てが、目にするものも口にするものの全て王室御用達の最高級品で、何不自由のない生活を送っている。
 けれど確かに彼は恵まれては居なかった………或る一点に置いて。
 ――――― 彼はこの七年の間、僅かな例外を除き、一度も屋敷の外に出たことが無かったのだ。
 十歳の少年から十七歳の青年へと至る七年の間に外に出たのは僅か数度。
 それも大勢の護衛に囲まれ、公式行事の為に眼と鼻の先にある王城を訪れた時だけ……一度たりとも外の土を踏んだことは無かった。
 ………時は七年前に遡る。
 当時十歳だった彼は、敵国マルクト帝国の手によりその身を勾引かされたのだ。
 幸い大事には至らずマルクト領に程近い古城に軟禁されているところを発見されたのだが………おそらく国境を越えるに手間取ってたのだろう………その時から彼のこの異常とも思える生活が始まった。
 確かに身体の弱い母は過保護で、心配性ではあったが、それにしても行き過ぎている。
 それに気づいたのは軟禁後、数年が過ぎてからだった。
 何度か異議を申し立てたこともあったのだが、『兄上様はお前の身を案じておられるからですよ』と母に泣きつかれてはそれ以上の口答えは出来なかった。
 その彼が、心の支えにしているものが二つ、あった。
 一つは幼馴染であり、婚約者でもあるナタリアの存在。
 そしてもう一つは ――――― ………
「ルーク様」
 扉の向こうから向けられた聞き慣れた青年に、ルークは取り止めもない思考を途切らせた。
「……入れ」
 促せば、一拍置いて砂色の髪を短く刈った長身の男が入ってくる。
 ルークにとってもう一人の幼馴染、兼使用人のガイ・セシルだ。
 子供の頃から気難しく、宛がわれた遊び相手のことごとくを追い払ってしまったルークが唯一側においている男だった。
 遊び相手の貴族のお坊ちゃま方が片っ端から逃げ出した後、庭師のペールの遠縁だと言う彼が宛がわれた時には苦々しく思ったものだが、彼はお坊ちゃま達とは違い、決して愚かでも愚鈍でもなかった。
 年齢が上だと言うことを差し引いても機転が利いて頭のいい、良く気のつく男で、容貌も物腰もそこいらのバカ貴族よりはよっぽど洗練されている。
 だからルークはこの男が嫌いではなかった………彼の中で、それは最上級の褒め言葉に近い。
「旦那様がお呼びです。急ぎ、応接室まで来るようにと。」
「父上が?」
 このような昼の日中に呼び出されることは珍しい。
「ヴァン謡将がいらっしゃっていたようですから、その為ではないかと」
 訝る様に眉を顰めた様子に気付いたのだろう、ガイが重ねてきて、ルークの表情は一変した。
「ヴァン師匠せんせいが!?」
 顰められた小難しそうな顔付きが、年相応の幼さと明るさを備えたものになる。
 それはまさに、先程脳裏に浮かんだ人物の名前だったから。
 護身と精神修養の為に習わされた剣術はルークの唯一の趣味で、彼はその師匠だった。
 十年来の付き合いで、この世界の行く末を左右する預言スコアを管理するローレライ教団の重鎮となった今ではとても忙しい人だが、それでも月に1、2度、バチカルに来る度に稽古をつけに来てくれる。
 ルークに外のことを教えてくれる数少ない人で、ルークが尊敬する数少ない大人の一人だ。
「今日は稽古の日ではないはずだが……」
 しかしそれは前もって連絡があってのことで、このような突然の来訪は記憶にある限り初めてだった。
(…………何かあったのだろうか……)
 最近またキムラスカとマルクトの緊張が高まって小競り合いが頻発していると言う噂もある。
 ローレライ教団はどちらにも属さぬ第三勢力として二国間仲を取り持つ役目を担っているから、また忙しくなるのかもしれない。
「……すぐ行くとお伝えしてくれ」
 何はともあれお待たせするわけにも行かない。
 ガイを先触れに向かわせ、身支度を整えようと鏡に向き直る……と、その時だった。
「っ……!?」
 頭を万力で締め付けるようなそれが訪れたのは。
 覚えのある感覚に、全ての感覚が遠ざかっていくような感覚にルークは小さく息を呑んで鏡に縋り付いた。
 良く磨かれた鏡面に映る青年の顔は苦痛に歪んでいる。
『 ――――― ルーク……ルーク……我が魂の片割れよ……我が声に応えよ……』
 吐き気を伴う鈍い頭痛と共に、どこからともなく男の声が聞こえる……ルークにしか聞こえない、頭の中に直接響くような声が。
 唐突なそれは、けれど時間を置けば消えるものだと言うことを知っていた。
 一度や二度のことではない………物心ついたころから、付き合ってきた現象だからだ。
 けれどルークは、それを他人に話したことはなかった。
 原因不明の頭痛と幻聴に悩まされていることが広まれば時期国王の……ナタリアの婚約者の立場が危うくなると彼なりに考えてのことだった………。


「ルーク・フォン・ファブレ、参りました」
 執事の手によって開かれた扉を潜れば、広い応接間にはガイの言ったとおり、父母の他にヴァン師匠の姿があった。
「……座りなさい」
「失礼します」
 一礼して、師匠の隣へと腰を下ろす。
 師はマロンペーストの髪を頭の高いところで一つに括り、灰色の内着に白を基調に黒い模様トライバルの描かれた教団の法衣を重ねていた。
 髭を生やしている所為か随分と落ち着いた印象だが、実年齢はまだ二十代の後半のはずだ。
「……顔色が悪いようだが、何かあったか?」
 小さく問われ、ルークははっと目を見張った。
 向けられた青い瞳は優し気で、どこか気遣うような光さえあって、僅かに頬が赤くなるのを自覚する。
「い、いえ、何でもありません」
 父母にさえ気づかれない自信があった体調の不良を気づかれてしまったことが恥ずかしく、けれど同時に彼がそれに気づいてくれたことが ――――― それだけ自分を気をかけてくれていると言うことが純粋に嬉しかった。
「それより今日は稽古の日ではなかったと思うのですが、何かあったのでしょうか?」
 問いに答えたのは、上座に腰を下ろした父だった。
「……ルーク。グランツ謡将は明日、ダアトへ帰国されるそうだ」
「…………」
 悪い予感、と言うのは当たるものだ。けれど聞かされた内容は予想以上のものだった。
 ローレライ教団の最高権力者、導師イオンが行方知れずになったと言うのだ。
 キムラスカとマルクトの休戦は、導師イオンがいるからこそ成立していたと言ってもいい。
 その存在がなくなれば、両国の関係が悪化し、再び戦争が起こらないとも限らない。
 故に、ヴァンが主席総長を勤める、ローレライ教団の保持する軍隊……神託の盾オラクル騎士団が動くことになったのだと言う。
 当然暫くはファブレ公爵邸に顔を出すことも出来なければ、ルークの稽古に付き合うことも出来ない。
 自身がキムラスカに戻るまでは部下を来させると言われても、ルークの心は晴れなかった。
 確かに剣術の稽古は好きだが、ルークにとってはそれよりももっと、尊敬するヴァンが色々なことを教えてくれると言うことに意味があったのだ。
「……その分今日はとことん稽古に付き合うぞ」
 くしゃりと頭を撫でられて、否を唱えることも出来ずにルークは僅かに目を細めた。


「…………ん……?」
 稽古用の木剣を手に中庭に………稽古は何時もそこで行われると決まっている………向かったルークは、ヴァン師匠と並び立つガイの姿に眉を潜めた
「なるほどねぇ……神託の盾オラクルの騎士様も大変だな」
「 ――――― 仕方がない。そういうわけだ。暫くは貴公に任せるしかない」
 腕を軽く組んで何事か話している様は一介の使用人と神託の盾オラクル騎士団の主席総長のそれには見えなかったが、何故かガイにはそれが許される雰囲気があった。
 あまりにも自然なのだ。
 ルークの知る限りこの二人に接点はないのだが、自分の知らない何かがあるのだろうか………そう思った時、すぐ傍らで庭の手入れをしていた頭の上だけが禿げ上がった白髪の男が声を上げた。
「ルーク様! そちらは先程水を撒いてしまいましたのでぬかるんでおります、お気をつけください」
 ガイの保護者で庭師のペールだ。
 土の色が濃く一見わからなかったが、確かに石畳に僅かな水の後が残っている。
 一つ頷いてヴァン達の方へと足を向けると、こちらに気づいたガイが姿勢を正すのが見えた。
「何をしていた?」
「………ヴァン謡将は剣の達人ですからね。少しばかり、お話を伺えればと思いまして」
 ガイはルークの使用人であると同時に腕の立つ守護剣士でもあるから、達人と名高い師匠に興味があってもおかしくはないのだが………僅かな違和感を感じる。
「………さ、始めるぞ?」
 けれどわざわざ追及する時間も惜しい。
 ヴァン師匠は忙しい方なのだ。
「見学をさせていただいてもいいでしょうか?」
 後で問えば言いと常の笑みを浮かべて問う男に鷹揚に頷き、ルークは師匠に向き直った。
(…………これは……)
 けれど、瞬間その表情が呆ける。聞き慣れない音が耳に飛び込んできた気がしたからだ。
 だが誰も気にした様子はなく、一瞬何時もの幻聴かと思ったがそれにしては痛みがない。
「……ルー……!?」
 柔らかい女の声だと思った瞬間、訝し気な表情を浮かべていた師匠がはっと顔を上げた。
 音が ――――― 否、歌が聞こえる。
 ずしりと身体が重くなって、膝が落ちた。
 急激に、どろりと纏わりつくような不自然な眠気を感じる。
「なっ……!?」
「こ、これは譜歌じゃ! お屋敷に、第七音素譜術士セブンスフォニマーが……」
 ずるりと頽れながら、ペールが声を搾り出すのが聞こえる。
 譜歌とは、第七音素セブンスフォニムの素養を持つ人間だけが使える譜術の様なものだ……この素養を持つものは少なく、譜歌を歌えるものはもっと少ない。
 実際に耳にしたのは初めてで、正直これほどの威力があるとは思ってもいなかった。
(威力では譜術に落ちるんじゃなかったのかよっ……)
「……か、身体が……」
「………………こ、これは……」
 ガイはふらつきながらもベンチの背もたれに掴まり辛うじて身体を支えていたが、縋るもののない師匠はルーク同様その場に膝を付いていた。
(…………一体何が……!?)
 声が途切れた、と思った瞬間、眼の前が翳った。
「ようやく見つけたわ……裏切り者、ヴァンデスデルカ!」
 ――――― 塀の上から、中庭に。
 ふわりと重さを感じさせない動きで女が降り立つのが見えた。
(…………刺客か!?)
 命を狙われるのは初めてではない。
 咄嗟に木剣を杖代わりに立ち上がろうと試みる。
 何時もと違うのは、護衛の白光騎士団が誰一人としてこの場に姿を見せないこと。
 ――――― そして侵入者が。
 真っ直ぐに公爵子息ではなく、ヴァンに向かっていったことだった。
「覚悟っ!」
「やはり……おまえかっ、ティア!」
 渾身の力を込めて振り下ろされた杖を払う ――――― けれど譜歌が聞いているのか、動きが鈍い。
師匠せんせいに触れるなっ!!」
 ルークは咄嗟に渾身の力を込めて、稽古用の木剣……とは言っても、鉛を仕込んで真剣と同じ重さにしてあるので、思い切り叩きつければ致命傷になりうる……を振るった。
「くっ……」
 身体が女と師匠の間に割り込む形になり、女の杖がそれを受け止める。
 ぎしぎしと木剣と杖が鬩ぎ合い、軋みあって。
「いかん……いかん! やめろ!」
 師匠が、聞いたこともないような焦った声を上げるのがわかった。
 けれど何をやめろというのか、それを理解する前に再び訪れた頭痛にルークは思考を失った。
 意識さえも痛みに焼ききれそうで、今確かに自分が振るっていた木剣に縋っているような気分にさえなる。
『…………ルーク………レライの…………』
「いったいなんだと言うんだッ……!!」
 ルークが叫んだ途端、杖と木剣の重なり合った場所から波紋が広がって。
 キイィン、と甲高い音が響いた。
 ふわりと暖かな光が身体を包んで、痛みが消える……あれほどあった眠気さえも。
「これは……第七音素セブンスフォニムっ!?」
 女が呟くのが聞こえた、と思った瞬間、重なり合った場所から光が爆発した。
「きゃあっ!」
「くっ!?」
 光は二人の身体を包み込み、収束して……一条の光となって空へと奔る。
 そうしてその場に残されたのは、男が三人。
「…………一体、なにが……」
 痛む頭を押さえつつ、身体を起こしたガイは辺りを見回して、愕然とした。
 ほんの一瞬前までそこに居た少女とルークの姿は跡形もない。
「…………しまった……第七音素セブンスフォニムが反応しあったかっ……」
 木剣を支えに膝を突いたままのヴァンが低く唸るのが聞こえた。

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 小説版では長くダアトを離れキムラスカにきていたヴァン師匠ですが、流石に主席総長が留守にしすぎだろうと思って通いにしてみました……(笑)。
 ちょっとややこしいのですが、基本的にオリジナル・ルーク=ルーク、レプリカ・ルーク=ルーク、またはアッシュの表記で行く予定です。

2009.07.11

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