世界最大の農作地、ルグニカ平野は肥沃な土地だ。
 その北部に位置するチーグルの森もまた緑豊かで昼なお暗く熱く生い茂る木々には森の恵みがたわわに実り、多くの動物や魔物が住んでいる。
 けれどルークは知っている。
 この森の奥は一帯が火事で燃えてしまっていることを。
 そしてそこら一帯を縄張りとしていたライガの女王が南下して来ていることを。
(……ジェイドが来る前に片を付けないとな)
 ――――― ライガの女王はルーク達とアリエッタの間の最大の遺恨となりえる存在だ。
 この森に居座るライガの女王はアリエッタの育ての親だった。
 あの時、ルークは何も知らなくて。自分の身を守る為に全力で剣を振るったし、ジェイドは容赦なくライガを殺した。
 そうなる前にライガをこの森から遠ざけなくてはならない。
 弱らせた上で説得する、或いは譜歌で眠らせて森の奥に移動させる。思いついた手はそのぐらいだ。
 時間稼ぎにしかならないかも知れないが、アリエッタが来てくれればライガを説得してくれるかも知れないし、アリエッタの監視下で有ればライガは人間を襲うことはないだろう。
 フーブラス川で会った時、アリエッタは既にライガの女王の死を知っていた。
 そこまでの間に両者はどこかで接触を持つはずだ。
「……ルーク? 大丈夫?」
「っ……」
 難しい顔をしてしまっていたのだろうか、訝し気に名前を呼ばれてルークは慌てて頭を振った。
「何でもない、行こう」
 乗ってきた馬の手綱を森の入り口の手頃な木に結びつける。
 新しい日記の、まだ使っていないページを切り取って奥に進むことと借りてきた馬の保護を頼む旨を綴り鞍に挟み、魔物に見つからないよう軽く木の枝で遮蔽を施してやって、二人は昼尚暗い森の中へと足を踏み入れた。
 静かな森を暫らく歩いていると、奥の方から獣の方向が聞こえてきた。
 一瞬遅れて、不自然な閃光が走る ――――― 何者かが、譜術を使ったのだ。
「ティア!」
「えぇ!」
 ティアはイオンがここに居ると言うことに関しては半信半疑のようだったが、それを見れば森の中で何者かが戦っていると言うことに関しては疑いようもない。
 鋭く名前を呼べば凛とした声が返り、二人は光の見えた方向に向かって走り出した。
 木々を掻き分け進むと、やがて森が開けた場所に出る。
 その奥で、魔物に対峙する形でしゃがみ込んでいるのは森に溶け込みそうな緑色の髪の少年。
 大地に手を当てる仕草と共に地面に複雑な譜陣が浮かび上がり、そこから迸った光が飛びかかったウルフを弾き飛ばす。
「キャゥン!!」
「……イオン!!」
「えっ……あ……貴方達は……」
 かけられた声に振り向いた少年の、これまた緑の瞳に驚きの色が浮かぶ。
 その頬は白く、御世辞にも血色が良いとは言い難かったが今にも倒れそうと言う程ではない。
「っ……話は後だ!」
 そのことにほっと安堵の息を吐きながらも、ルークは足を止めることなくイオンと彼に相対する魔物の間に身を滑り込ませた。
 ティアがイオンに駆け寄ってその身を背中に庇い入れるのを見ながら、左の腰に刷いた剣を抜く。
 イオンのことは彼女に任せておけば大丈夫。そう考えて、意識を前に切り替える。
「ギャンッ!」
「キャゥゥン!」
 間髪置かずに飛びかかってきた一匹を払い退け、返す刀で二匹目を斬り上げた。
 ――――― こんなところで苦戦しているようではライガの女王を相手にできるわけがない。
 記憶の中のそれ程ではないにしても、それなりに動けていることに安堵する。
(ってもこれで足りてるかわかんねえけど……っ!)
 背後のティアとイオンの方に回り込まれないように、それだけを気を付けながらルークは瞬く間に五匹のウルフを片付けた。
 音素を散らして消えていくのを僅かに眉を顰めて見送り、周囲を見回して他に魔物の影が無いことを確認して腰に剣を仕舞うと背後の二人に駆け寄る。
「大丈夫か、イオン」
「ええ、助かりました。ですがお二人はどうしてここに……」
「イオンが居なくなったって聞いて、チーグルの森に行ったんじゃないかと思ったんだ。それで、ジェイドには伝言を残して追いかけてきた」
「そうでしたか……ご心配をかけてすみません」
「…………」
 おっとりと微笑む仕草に、酷く胸が痛む。
 あの時、イオンはルーク達の為に惑星預言を詠んで、ティアの身体に巣食う瘴気を受け取って消えていった。
 抱き止めた小さな身体が存在感を無くし、光と共に音素に返って行った光景をまざまざと思い出して、ぐっと拳を強く握る。
(……今度は助けるんだ、絶対)
 心の中だけで小さく呟いて、ルークは努めて平静な顔を装い右の手を差し出した。
「昨日は碌に挨拶もしなくて悪かったな。俺はルークだ」
「ルーク……古代イスパニア語で聖なる焔の光と言う意味ですね。いい名前です」
 それを取る白い手は男のものとは思えないほど華奢で、小さい。
「私は神託の盾騎士団モース大詠師旗下情報部、第一小隊所属ティア・グランツ響長であります」
「あなたがヴァンの妹ですか。噂は聞いています。お会いするのは初めてですね」
 それまで控えていたティアが姿勢を正して騎士団の礼を取るのにイオンは少し驚いた顔をして、それからまたその白い顔に穏やかな笑みを浮かべた。
 それに対してティアは困ったような、申し訳無いようなそんな表情で視線を落とす。
 兄への強襲の訳を問われることを恐れているのだろう。
 前の時はここで初めてティアと師匠が兄妹であることを知って驚いて口論の様な形になってしまったのだった。
 ルークは今度はそれに触れようとはせず、森の奥に視線を向けて大きな声を上げた。
「なあ! 今なんか居たぞ、あれ、チーグルじゃないか?」
 左手で、森の奥の方を示して見せる。
 勿論、本当はチーグルなんか影も形も見ちゃいない。ただこの奥に、チーグルの巣があることを知っているだけだ。
「え?」
「行ってみようぜ」
「……えっ、ちょっ、ルーク!」
 驚いたように上がる声に気付かなかったふりで、ルークは森の奥に向かって駆け出した。


 森の奥、樹齢何百年、何千年かと言う大木の洞がチーグルの巣だ。
 入口は人一人やっと通れる程度の大きさだが中は広く、頭上に隙間があるのか僅かに陽も射して緑の苔に光の模様を描いている。
 ルーク達が洞を潜ると好奇心が強いのか、それとも侵入者を警戒しているのか ――――― その割に鳴き声には緊張感が無かったが ――――― 色とりどりのチーグル達が集まってきた。
 ミュウミュウと甲高い声で鳴いているのが少し鬱陶しいと思ったが、ティアはどこかうっとりとした様子で彼らを見つめている。
「…………」
「っ……な、なに!?」
 視線に気付いてはっとして振り返る仕草はどこか少女めいて、一度目の時は中々気付くことのできなかった軍人としての鎧の内側の彼女の本質を垣間見た気がした。
「通してください」
「みゅー!みゅーみゅみゅ!」
 イオンの言葉に、チーグル達が更に声を高くする。
「言葉がなんか通じないんじゃないか?」
 本当は彼らがそれを理解できていることは知っていたけれど、本来魔物は人間と言葉を交わすことができない。
 極当たり前のこととしてそう訊ねれば、イオンは少し困ったように眉を落とした。
「チーグルは教団の始祖であるユリア・ジュエと契約し、力を貸したと聞いていますが……」
「……ユリア・ジュエの縁者か?」
 と、チーグルの群れの中から鳴き声とは違うはっきりとした声が聞こえて、三人はそちらに視線を向ける。
 声の主は紫色の、眼の上の毛がやたらと長くふさふさとした印象のチーグルだった。
 腹に明らかに人工物である金環を抱えている ――――― チーグル族と人間の対話を可能にする他、様々な叡智を秘めた譜業、ユリアの残したソーサラーリングだ。
「……喋った」
 小さく驚いたように声を漏らしたのは今回はルークではなくティアだった。
 イオンは驚いた様子もなく、静かにそのチーグルの前に進み出る。
「はい。僕はローレライ教団の導師、イオンと申します。あなたはチーグル族の長とお見受けしますが?」
「いかにも」
「……エンゲーブでは今、大切な商品である食糧が盗まれる事件が多発しています」
 言葉を選びながら、静かに問うイオンに、長老は動じるでもなく淡々と事実を述べた。
 即ち、同胞が北の森で火事を起こしてしまったこと。
 その為、そこを根城にしていたライガが南下してきてしまい、チーグル達を喰らおうとしていること。
 それを避ける為に、食糧を盗んで差し出すことにしたこと。
「……ライガと、交渉しましょう」
 暫らく考え込んでいたイオンが出した結論は、前回と同じものだった。
「僕達ではライガの言葉がわかりません。どなたか通訳をお願いできないでしょうか?」
 膝を折って視線の高さを合わせるイオンに、長老は重々しく頷く。
「では、通訳のものにわしのソーサーラーリングを貸し与えよう……みゅう、みゅみゅ、みゅぅ〜」
 イオンは殺生を好まない。かと言ってライガをこのままにしておくわけにはいかないので当然と言えば当然の結論だ。
 ――――― それが、どれだけ甘い考えだとしても。
 人間の都合など、ライガにとっては知ったことではない。だから、交渉は力尽くになる。
 内心でそう考えて、ルークは密かに握った拳に力を籠める。
「みゅ〜」
 暫らくして奥から押し出されてきたのは身体全体は青緑色で臀部の辺りだけがおむつでも履いたかのように白い、他のチーグル達より一回り小さな仔チーグルだった。
「この仔供が北の地で火事を起こした我らが同胞だ。これを連れて行って欲しい」
 もじもじとした仕草で歩み出てきた仔チーグルは、ソーサラーリングを受け取って腰に通すとくりっとした目でルーク達を見上げてくる。
「ボクはミュウですの! よろしくお願いするですの!」
 それは苛立ちを誘う仕草ではあったが、けれど同時にその酷く愛おしくもあった。
 どんな時もルークの傍にいてくれた、小さな聖獣。
「……よろしく頼むな」
「はいですの!」
 懐かしさに眼を細めて、けれどルークはそれだけを言ってしゃがみ込むとくしゃりとその小さな頭を撫でた。

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 前回から三年経っていることに気付いて驚きです……嫌いつかちゃんと完結させたいとは思っていたんですが、まさかこんなに立っているとは……(笑)。
 アビス舞台化のお話を聞いた時にはマジかよ…だったのですが、思いの外ハマりました……。
 見事に再燃してとりあえず続きを書きはじめました(笑)。
 間が開きすぎてしまったので構成に時間がかかりましたが、これからちょこちょこ更新していきたいと思ってます〜(とりあえずアクゼリュスぐらいまでは大筋纏めました〜)。
2017.10.09

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