――――― 息が、苦しい。指先が冷たい。 まるでそれ自体が質量を持っているかのようにねっとりと重く絡み付いてくる冷たい空気が、身体から根こそぎ体温や生気と言ったものを奪って行くようだ。 呆然と、ただ立ち尽くすルークの眼前に広がっているのは、見渡す限りの毒々しい紫色の瘴気の海。 『………け、て……け……』 細い声に反射的に視線を動かした、その先に。 瘴気の海に半ば沈み込みながら、救いを求めるかのようにこちらに手を伸ばす子供の姿を見つける。 ルークの眼前で、子供の身体はゆっくりと、しかし確実に。 ずぶずぶと、泥濘のような瘴気の海に沈み込んでゆく。 恐怖に怯え、見開かれた目は確かにこちらを見ているのに、その顔は判別出来ない。 急いで手を伸ばそうとしたけれど、まるで凍りつてしまったかのように指先が動かない。 (……っ……動け、動け、動けッ!!) 自分自身を叱咤するように、脳裏であらん限りの声を振り絞る。 泥の中を泳ぐように重い腕をどうにか伸ばしたその先で、子供がとぷんと泥に飲み込まれた。 『 ――――― !!』 悲鳴を上げる暇さえなく、忽然と足場が消える。 同時にゾッとするような冷たい感覚に包まれた。 視界が塞がれる、息が出来ない。 声を上げかけた口から流れ込んできた冷たい泥が喉を焼く。 口や耳、目、鼻。ありとあらゆる場所から焼け付くように冷たいそれが流れ込んでくる。 底冷えするほど冷たいのに、熱い。 何も見えない、聞こえない。 手を伸ばして懸命に上を目指そうとしても縋るものさえない身体は今、どこにあるのかさえ定かではない。 熱い、冷たい、痛い、苦しい、怖い。怖い、怖い ――――― 。 その時、闇雲に延ばした手が何かに触れた。 掌に簡単に握り込めてしまうほど細い、けれど何か温かなもの。 どこまでも冷たい泥の中で、痺れたように感覚の薄れていく中でそれだけが唯一の縁のように感じて賢明にそれを引き寄せる。 『……ッ』 どこかで小さく、誰かが息を飲む音が聞こえた気がした。 ――――― 近い。 真っ先にルークの脳裏に浮かんだのは場違いとも思えるそんな単語だった。 前の時も確か、彼女はここでルークの顔を覗き込んできていた。 だから、この状況は想定の範囲内と言えば範囲内なのだが、この近さは想定外だった。 殆どぶつかりそうな程近くに彼女の白い顔があって、流れ落ちてきた長い髪が視界を覆っている。 「……」 一瞬何もかも忘れて瞬いた瞼に押されて、目尻に溜まっていた涙が頬を滑り落ちた。 温い感触が耳の方へと伝っていく ――――― その感触は本来不快なもののはずだったが、今はそれに深い安堵を感じた。 そこに、感覚があると言うこと自体に。 その安堵と動揺を押し隠して視線を泳がせ、現状を把握しようとする。 彼女は左手をルークの枕元に付いて身体を支えているようだった。 「……大丈夫?」 囁くような声音に、ようやく感覚の戻り始めた身体をおずおずと動かして僅かに頷く。 「………な、んで?」 喉がからからに渇いているせいで酷く掠れた声で問うと、彼女は戸惑うように視線を揺らしてルークの胸元へとそれを向けた。 その視線を追って、胸元に置かれた自身の腕を見つけて再度眼を瞬く。 その手の中に、がっちりと彼女の細い腕が握り込まれていたから。 夢の中で無我夢中で掴んで引き寄せた温かなものは、どうやら現実に伸ばされた彼女の腕だったらしい。 大方魘されてでもいたのだろう、起こそうとしたところでしがみつくように腕を引っ張られてルークの上に倒れ込みそうになった、と言うところか。 「……ご、ごめん!」 慌てて謝罪して彼女の腕を放そうとするが、強ばった指先はまるで硬直してしまったかのように言うことを聞かなかった。 「あ、あれ?……っ……」 右手で指を掴んで引き剥がそうとするが、指先が酷く震えてどうにも上手く行かない。 「……奥、詰めてくれる?」 彼女はしばらく黙ってそれを見ていたが、やがて小さくそう言った。 「……え?」 意味が分からないまま彼女を見上げると、肩の辺りを軽く押されて反射的に後ろにずり下がる。 そうしてベッドの端に出来たスペースに、彼女は一度身体を起こすととんと腰を下ろした。 「………?」 「流石にいつまでも中腰ではいられないもの」 それはそうだろうが、しかしそもそもルークが彼女の手を離せばすむことなのだ。 けれど彼女はそれを責めることなく、無理に指を剥がそうとするルークの右手にの自身の右手を重ねた。 「いいわよ、このままで」 「……このままって、このままじゃ、お前が寝れないだろ」 「構わないわ。私は馬車の中でも寝たし、それなりに訓練も受けているから、一晩や二晩寝なくても大丈夫」 このまま寝ろ、ということか。 「で、でもっ……」 「……貴方がこのままじゃ眠れないと言うなら他の方法を考えるけど……貴方、馬車の中でも眠っていなかったでしょう?」 「………」 ――――― ばれている。 図星を指されて黙り込んだルークの目元に、手から離れた彼女の左手が寄せられて視界が塞がれた。 白く細い指先が視界いっぱいに広がる。 そこからじわりと染み込んでくるような温かさに突然涙が出そうになって、唇を噛んで賢明にそれを堪える。 「……辛かったら言うから、大丈夫よ」 (ぜってー言わねえくせに……) 口の中だけで呟いて、もう一度、縋るように彼女の手を掴む手に力を込めた。 冷えきった身体にはどうしようもなく、魅力的な温かさだった。 「でもさ……」 それでも、このままでいられるわけがない。 「……朝になったら起こしてあげるから、もう黙りなさい」 もう一度口を開こうとすると、聞き分けのない子供を優しく叱りつける母親のような、厳しくも穏やかな声音が落ちてきた。 それに怯むとほぼ同時に、零れ落ちてきたもの。 ――――― トゥエ レイ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ 言葉ではない、美しい旋律にルークは咄嗟に息を詰めていた。 それは酷く、酷く長い間、ルークが支えにしてきた歌声だった。 譜力の類は含まれていない、音だけのそれは、けれど何よりもルークの求め続けていたものだった。 鼻の奥がつんと痛んで、じわりと目元が熱くなる。 今ここで泣いてしまえば、確実に彼女にバレる。 だからどうにか堪えなくてはと思うものの、唇が震えるばかりで奥歯を噛みしめることさえままならない。 次から次へと溢れた涙が視界を覆う彼女の掌を濡らして、けれど彼女はそれに何か言うでもなくただ静かに美しい旋律を紡いでいる。 子守歌にも似た優しいそれに、徐々に身体の力が抜けていく。 不審に思われたりはしないだろうか。 こう言う時、どんな反応をするのが正しいのだろう。 目まぐるしく思考は巡って、けれど何一つ形を成さない。どうしたらいいか、わからない。 ――――― それよりも何よりも、今は、何も考えたくない。 そう思ったのを最後に、ルークの思考はゆっくりと穏やかな闇へと沈んで行った。 ふっと、痛いほどに自身の右腕を握り締めていたルークの指先から力が抜けたことに気付いて、ティアは刺激してしまわないようにそうっと彼の目元に宛がっていた手を離した。 「………」 ルークが泣いていることは、掌に触れる温かく濡れた感触からとっくにわかっていた。 それが、何故のものかはわからなかったとしても。 ――――― ルークは完全に寝入ったようだ。 月明かりに照らさる面には先程までの怯えたような、追いつめられたような表情は浮かんでおらず、穏やかで、どこか幼気な表情が浮かんでいて、規則正しく胸を上下させる深い呼吸は眠りが深いことを示している。 尋常ではない程に落ちていた体温も少しづつ平常に戻りつつあるのか、それともティア自身の体温が移ったのか、掴まれたままのそこからは冷たさは感じなくなっていた。 考えてもわからないことばかりで、ルークに対する疑問は増すばかりだ。 けれど同じぐらい深く、この人は信用できると感じている。 (………どうして?) 口の中だけで小さく呟いて、脂汗の滲む額に張り付く前髪を掬い避ける。 不可抗力とは言え彼を自身の事情に巻き込みこんな遠い異国へと連れてきてしまったのはティアだ。 ルークがそのことに怒りや不安を覚えていたとしても、可笑しくはない。 けれどルークにはその素振りは一切なく、否 ――――― もっと根深い不安を抱えているように見える。 何故だかわからないが、そう思うのだ。 (………私は、この人を知っていた気がする……) ふっと、そんな思考が脳裏を過ぎった。 魔界で育ったティアと、バチカルのファブレ公爵家に軟禁状態で育ったルークに接点があるわけがない。 あるとすれば兄を介した間接的な接点だけだが、ティアは兄から殆ど彼のことを聞いたことはなかった。 強いて言えば月に一度、バチカルに足を運ぶついでに剣術を教えている貴族の子息がいると言う話を聞かされたことがあるぐらいだ。 けれど、そんな上辺だけの情報ではなく。 もっと、もっと深い部分で、彼を知っていたような気がする。 胸の奥が、締め付けられるように苦しい ――――― 。 「そんなこと、ありえないのに……」 その切ないような苦しさを振り払うように小さく頭を振って、もう一度口の中だけで呟くと、ティアはそうっとルークの手から自分の腕を引き抜いた。 むにゃと小さく口元が動いて、一瞬起こしてしまったかと思ったが、ルークは眼を覚まさなかった。 質素ではあるもののよく陽に干されて清潔に保たれている上掛けを引き寄せて、冷えた肩を覆ってやる。 「………おやすみなさい、ルーク」 聞こえるはずもない相手にそう呟いて、ティアはそこから静かに立ち上がった。 |
エンゲーブのティアサイド。ようやく少しルクティア?ですが、それにしても進まない……(苦笑) エンゲーブの宿やイベントは飛ばすつもりだったのですが、書きかけを発掘したので組み込んでみ……たら予想外の長さに。 気が付けば週刊ならぬ年刊連載です。流石にどうにかせねば……。 とりあえずもう2話分は8割方出来ているので、次はそれ程お待たせしないはず……。 |