戻ってきたルークと男の間には、なんとも言えない重たい空気が漂っていた。
 険悪という程ではない。けれど互いに目を合わせることを拒むような。
 良い結果は得られなかったのだろうか。
 ――――― その場合、自分はどう動くべきなのか。
 導師イオンは無益な殺生は好まれないはず。
 だがしかし、この場の主導権を握っているのはあの男のようだ。
 僅かな間に諸々の可能性を考えたティアだったが、結局それは杞憂に終わった。
 深い、これ見よがしの溜息を落とした男が右手で眼鏡のブリッジを押し上げる。
「……我々としてもは貴方が協力してくださるのなら渡りに船です。貴方の言うことを全て鵜呑みにすると言うわけには行きませんが、とりあえずあなた方の身柄はこちらで保護させて頂く、と言うことでどうでしょう」
「 ――――― わかった」
「…………」
 低く平坦な声に、それに応じて小さく頷いたルークに、ティアは小さく、無意識のうちに詰めてしまっていた息を吐いた。
 マルクト軍の保護が受けられれば少なくともマルクト領内での安全は保障される。
 『とりあえず』と言うのが気にならなくはないが、少なくとも何の当てもなく国境を目指すしかなかったこれまでの状況からすれば遥かにマシだろう。
「明日、タルタロスと合流します。宿はこちらでご用意しますから、今日はそちらで休んでください。ああ、勿論監視は付けさせて頂きますよ」
 抜かりなく付け加えた男に、ルークどこか寂し気な、苦笑めいた表情を浮かべたのが奇妙に印象に残った。


 ジェイドの部下の若い兵士に案内されて、二人はエンゲーブに一軒しかない宿屋に向かった。
 宿屋に着いて兵士が部屋の外に出て行くと、ルークは無言のまま質素なベッドに腰を下ろし、両膝に肘を付いて体の中央で組んだ手に額を押しつけるように俯いて動かなくなってしまった。
 随分と消耗しているように見えるが、一体何があったのか。
 声を掛けるのも憚られる様子にどうしたものかと視線を揺らしたティアは、ふっとルークの長い、朱い髪に半ば隠れた指先を覆う手袋の一部が濡れた様に黒ずんでいることに気付いた。
 水に濡れて色を濃くした皮とは少し違う、赤黒い、まるで血のような ――――― そう思って、すぐにそれが本物の血であることに気付く。
(……一体、何が……)
 怪我をしているような様子には見えなかったが、ルークはの第七音素師セブンスフォニ マーだ。自分で傷を治すことができてもおかしくはない。
 けれどあの時、刃物を持っていたのはルークだけだったし、室内からは争うような声は聞こえてこなかった。
(なら、自分で……? ……何の為に?)
 自問しながら、ティアはルークに歩み寄るとその傍らに膝をついた。
「……?」
 のろのろとした仕草で顔を上げたルークに右手を差し出す。
「……見せて」
「………ぇ?」
 静かに告げられた言葉の意味を計り兼ねて、ルークは僅かに首を傾げた。
「……その染み、血よね。あそこで、何があったの?」
「………こ、これは、別に……っ!」
 問い掛けに我に返って、慌てて左手で右手を ――――― 染みになったその場所を押さえる。
 途端に予想外の痛みが走って、ルークは思わず低い呻き声を上げた。
「ぁ……」
「…………」
 しまった、と思った時にはもう遅かった。
 傷口こそ譜術で塞いだものの、ルークはあまり治癒術は得意ではない。
 傷が深かった為、完全には治りきっていなかったのだろう。
 覗き込んでくるティアの顔は真剣そのもので、誤魔化すことは出来そうにもなかった。
「……この量、引っかけた程度じゃないわよね」
 ルークが怯んだ隙にその腕をぐっと掴み引き寄せた彼女の唇から、硬い声が漏れる。
 手袋は小指側から掌にかけてがべっとりと血を吸っていて、そこで擦り傷では到底すまない量の血が流れたことを示していた。
 乱暴にならないよう努めてゆっくりと捕まれた腕を胸元に取り返し、ルークはもう一度左手で右手を覆った。
「………自分で、やったんだ」
「自分で? どうしてそんな……」
 眉を落とし、困ったような、苦笑めいた表情を浮かべるルークにティアは眉を顰める。
 これほどの血が流れたのだ、傷は相当に深かったはず。当然痛みもそれなりのものだったに違いない。
 一体何を想い、何の為にそんな真似をしたと言うのか。
「……身の証を立てる方法を、他に思いつかなかったから」
「…………」
 返ってきた答えは端的なもので。
 静かな、それでいてそれ以上の問いを拒むような強さを感じさせるものだった。
( ――――― ……まただわ)
 緑の萌木を思わせる鮮やかな翠の瞳の奥に、それとは裏腹の、深い深淵の底を覗くような昏さが覗く。
 ルークがこんな目をする時は、何を聞いても無駄だ。何度尋ねてもこれ以上の答えは得られないだろう。
 そう確信して、ティアは溜息のように細い息を落とした。
「………本当に、あの人にやられたわけではないのね?」
 重ねて問いかけてきた彼女は、ジェイドを疑っているようだった。
 あの場には二人しかいなかったのだから、それも無理はない。
「……うん」
 ジェイドには悪いことをしてしまったかなと思いつつ小さく頷くと、彼女は眉を寄せたまま、先程よりは優しい手付きでルークの右手に手を伸ばしてきた。
 促されるままに右手を差し出すと、水気を含んで肌に張り付く手袋を外されて。
 露わになった掌に白い手袋に包まれた掌が重ねられる。
 驚いて腕を引こうとしたけれど、重ねられた手に込められた力は思いの外強く、解けなかった。
「………」
 彼女が口の中で何事か小さく呟いたかと思うと、ふわりとそこに熱が生まれた。
 灯るような、淡い、温かな光。
 胸の奥まで温かくなるような、懐かしい ――――― そう思った途端、鼻の奥がつんと痛んで。
 溢れそうになる涙を隠すべく、ルークは強く瞼を閉じた。
 怪我をするのは無論良いことではない。だが、ルークは彼女に治癒術をかけてもらうことが好きだった。
 何度も、何度も。数えきれないぐらい、こうやって傷を癒してもらった。
 初めのうちは必ずと言っていい程、無駄な怪我やミスの多いルークへの小言やお説教が付随していたけれど、ルークが髪を切って、少しずつ変わるうちにそれも少しずつ変わっていった。
 呆れと諦観が、信頼と好意 ――――― 無論、仲間としての ――――― に。
 やがてはルークの音素乖離を知って、不安と憂慮を含んだものへと。
 心配をかけてしまっていると思うと申し訳なかったが、そこに昏い悦びを見出していたことも事実だった。
 ルークに消えて欲しくない、彼女がそう思ってくれていることが嬉しかったのだ。
「……無茶はしないで。いいわね」
『……無茶はしないで。』
 実際にはほんの数秒だったのだろう。
 けれど酷く長く感じた沈黙の後、掛けられた声にルークは驚いて眼を瞠った。
 少し硬い彼女の声に、柔らかい、けれど痛みを堪える様な彼女の声が重なって聞こえた気がしたから。
「……ルーク?」
 どうかしたの、と言うように首を傾げる彼女に何でもないと小さく頭を振る。
「………手袋、洗ってくるわね」
「……ありがとう」
 立ち上がった彼女が、血で汚れた手袋を手に部屋を出ていくのを見送って、ルークはぼすっと堅いベッドに倒れ込んだ。
(………結局、心配をかけることしかできないんだ)
 ――――― 前の時よりはずっとマシだと思いたいけれど。
(……ジェイドはどう動くかな)
 ジェイドには、七年前の時点でルークが覚えている限りのことを詳細に記した手帳を渡してきた。
 彼がそれに目を通せば、イオンがチーグルの森に行くのは止められるかもしれない。
 けれどそれではミュウに会えないし、泥棒騒ぎも収まらないだろう。
 否、泥棒ができなくなればチーグルはライガに食われる。
 チーグル達を狩りつくし、食べるものがなくなればライガ達はエンゲーブを襲うだろう。
(やっぱりチーグルの森に行かないと……)
 見張りを眠らせて?それでは印象が悪いか。けれど他に良い方法は思いつかない。
 もしジェイドが手帳に書かれたことが実際に起こると信じてくれなくても、ルーク達がチーグルの森に行った、ということは想像できるだろう。
 なら追いかけてくるに違いない。
(明日の朝までに、何も起こらなければ……)
 見張りを眠らせてでも、チーグルの森に向かおう。
 そう、心に決めて。ルークは静かに瞼を伏せた。

BACKNETXT
 

 ここまで10本、新書サイズで本にすれば100P近いの分量を書いていることに、そしてにも拘らずまだエンゲーブに居ることに気付いて驚愕しました……これ終わるんだろうか(笑)。
 終わるとしたらいったいどれぐらいの量になるのか、何年かかるのか……気長にお付き合いいただければ幸いです。

2013.06.19

戻ル。