――――― 声は、震えていなかっただろうか。
 緊張に強ばったルークの声とは裏腹に、返ってきたのは一見極自然体の、軽やかな声だった。
「おや、私とですか?」
 細い眉が面白いとでも言いた気な弧を描き、薄い唇が笑みの形を形作る。
「聞いていらっしゃったかもしれませんが、今は少し立て込んでいましてねえ。軍の将校と話がしたいと言うことであれば、セントビナーに行かれた方が早いかもしれませんよ?」
 一見友好的とも思えるが、眼の奥はまるっきり笑っていない ――――― ルークの素性を薄々察していながらの飄々とした態度に舌打ちをしたくなるが、おそらくはルークの出方を伺っているのだろう。
「今、話しておかなきゃいけない大事な話なんだ。多分、そちらにとっても重要な話になると思う」
 ここで引き下がるわけには行かないと静かな、けれど強い口調で告げてルークは再度男の方へと足を進めた。
「……あなたはさっきの……」
「さっきはぼうっとしてて悪かったな。まさか導師イオンがここに居るなんて思わなくてさ」
 隣に立つイオンが小さく声を上げるのに返した声は、白々しくは響かなかっただろうか。
 ――――― 自分の言動の一つ一つが酷く不自然なものに思えて落ち着かない。まるで自然な動作、というものを忘れてしまったかのように手足が強張る。
「いえ、僕の方こそすみません」
「お知り合いですか?」
 イオンが小さく頭を振って謝罪の言葉を口にして、ジェイドがそれに僅かに眉を上げた。
「いえ。さっき急いでいてぶつかってしまったんです」
 おっとりとした笑みを浮かべるイオンとルークの間に僅かに思案するような視線を巡らせて、けれど男は顎先を撫でて一つ頷いただけで再度ルークに視線を向けた。
 ルークがイオンと意図的に接触したのか、計り兼ねているのだろう。
「……ま、いいでしょう。ところでこちらにとっても、とは何を持ってそうおっしゃるのでしょうね」
 唇はうっすらと口角が上がり面白がっているような表情にも見えるが、眼鏡の奥の赤い瞳はまるで笑っていない。
 深呼吸の様に長く大きな息を吐いて、ルークは真っ直ぐにその目を見返した。
「……言葉遊びはいいよ、あんただって戦争は嫌だろ」
 ぴくりと僅かに男の眉が動いた。
 気を付けていなければわからないほどの、微かな反応。
 彼らは今、極秘任務の下キムラスカへ和平の申し出に向かう途中のはず ――――― それが漏れているのか、と懸念したのだろう。
 すぐに表情が消えたのは、例え図星を指されたとしてもそれを隠す必要があること、そして目の前の少年 ――――― 即ちルークが、それを知らずとも、戦争の火種を持っている可能性を考えたからだろう。
 キムラスカ方面からの第七音素セブンスフォニム、赤い髪、緑の瞳。この符号を以てすれば彼が、その可能性に辿り着いたとしても可笑しくはない。
(……やっぱり一筋縄じゃいかないよな)
 流石はジェイドだと思ったが、今は彼のこの用心深さは目の前に立ち塞がる大きな壁でしかない。
「二人だけで、話をさせてくれ」
「えっ?」
 声を上げたのは、ティアだった。
 男の方もおや、と言うように眼を見開く。
 それはそうだろう、ティアはマルクトの軍人との接触を不安がっていたし、今更自分に隠すことがあるとは思わなかったに違いない。
「ティアには後で話すよ。一応、機密事項みたいのもあるからさ」
 公爵家に軟禁されていたルークの立場でキムラスカの上層部の情報に手が届くはずはなかったが、内情を知らない彼女がそれを知る由もない。
 キムラスカの王族だけが知る ――――― あまり他に漏らしてはならない情報があると思ったのだろう。
「……わかったわ」
 ティアは不詳無精の様子ながら、仕方ないというように息を吐いた。
 本当は、マルクトの軍人などと二人きりにはさせたくない。
 死霊使いネクロマンサーと思しきこの男に、一介の響長である自分が勝てるとは思わなかったが、もしものことがあった場合は命に代えてもルークだけでも逃がさなくてはならない。
 その為にも自分も同席して男の様子を具に観察しておきたかったのだが、おそらくルークは譲らないだろう。
 彼は口調こそ荒いが基本的に優しい。物腰も穏やかと言って良い方だ。
 けれど一度こうと決めたら譲らない、と言うことはこの短い期間にも何となくわかっていた。
「……まぁ、いいでしょう。5分だけですよ」
 黙って二人のやりとりを見守っていた将校は話が纏まったのを見て取ると小さく溜息を落として青いグローブに包まれた指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ローズ婦人、奥の部屋をお借りしますよ」
「はい、どうぞ。暫く近付かなきゃいいんですね」
「お気遣い感謝しますよ」
 婦人に軽く片手を上げて、そのまま振り返ることなくジェイドは奥の扉へと向かっていく。
「すぐ戻るから」
 不安そうな表情のティアに重ねて告げて、ルークはその後を追った。
 奥の部屋に滑り込むと木製の扉を閉め、扉の向こうの気配が追ってこないことを確認する。
 扉は木製の薄っぺらなもので、張り付けば簡単に中の音が聞こえてしまうだろう。
 けれどローズ婦人やイオンがいる以上そのような真似は難しい。かと言って閉じてしまった扉を開けて踏み入ってくる可能性も低いが、万が一のことがあっては困ると思ったからだ。
 僅かに安堵にも似た息を吐いて振り返った途端、男が口を開いた。
「……それで、彼女に聞かせたくない話とは?」
「………流石はジェイド、察しがいいな」
 思い切り警戒されているな、と思いながらルークは苦笑を浮かべた。
「……どこで、私の名を?」
 奥の机に身体を預けるようにしてこちらを見ていた男の赤い瞳がどこか物騒な色を帯びる。
 ルークが無意識に漏らした呟きは相当に男の警戒心を煽ったらしい。
 そう言えばまだ名前を聞いていなかったな、と思いながらルークはそれでもなるべく扉から離れた位置へと向くべく男の方に足を向けた。
「……あんたに聞いた。今、ここじゃない未来で」
「……面白いことを仰いますね」
 面白いこと、と言いながらも男の眼はまるっきり笑ってなんかいない。
 探るようなそれに緊張が高まるのを感じながら、ルークはそっと乾いた唇を舌先で湿した。
「……俺は、ルーク。ルーク・フォン・ファブレ」
 ――――― 男の瞳に動揺の色はない。
 ジェイドの地位と立場を考えれば敵国とは言え数の少ないキムラスカの王族の名前ぐらいは把握しているはず。
 そうでなくとも少なくともファブレの名前に関しては、敵軍の将校としても耳に残っているはずだ。
 と言うことは一度目の時もこの段階で既に当たりを付けられていたということになる。
 紅い髪に緑の瞳と言う取り合わせはそれ程珍しいものではないが、ルークのそれは特に鮮やかだ。
 そこから連想するのは難しいことではなかったのかも知れない。
「……キムラスカの、ファブレ侯爵家の嫡男。ルーク・フォン・ファブレのレプリカだ」
 心臓が壊れそうなぐらい、激しく脈打っているのを感じながら、ルークは努めてゆっくりと、けれどはっきりとそう言って男の眼を見返した。
「…………」
 感情の色の薄い赤い瞳が、初めて揺れる。
 ――――― 驚愕と嫌悪、そして動揺。
 その単語が他人の、ましてや異国の子供の口から紡がれるとは思ってもみなかったのだろう。
 整った面差しには忌々し気な表情が浮かび、眉間に細い皺が刻まれる。
 普段感情を露わにすることはなくいつもどこか人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべているジェイドだが、この件に関してだけは違う。
(やっぱり、この世界でも……)
 ルークがレプリカのルークであるように、ジェイドは複製術を開発したジェイドであるらしい。
 そのことに安堵すればいいのか、それとも落胆すべきなのか。
 わからないままルークは苦笑めいた笑みを浮かべた。
「……からかっておいでで?」
 聞こえてきたのは低い、凍り付くような静かな怒りを秘めた声。
「冗談、なら良かったんだけどな。多分現実なんだ。俺が長い夢を見てるんでなければ」
「ふむ。私は貴方の夢の登場人物というわけですか」
「混ぜっ返すなよ。可笑しなことを言ってるって言うのは自分でもわかってる。最初は俺も信じられなかった。自棄になって被験者オリジナルに剣を向けたこともある。返り討ちにされたけどな」
 紫色の瘴気に覆われた、あの街で。
 突きつけられた真実に耐えきれず、目の前の現実を被験者オリジナルの ――――― アッシュの存在ごと叩き切ろうとした。
 あの時は自分でも何故自分がそんなことをしたのかわからなかったけれど、おそらくはそう言うことだったのだろうと思う。
 例えあそこでアッシュを殺したところで、何が変わるわけでもなかったのに。
「………」
 ジェイドの、表情の見え辛い赤い瞳の奥に嫌悪にも似た色が浮かぶ。
 それは、成長したレプリカと被験者オリジナルの間に起こりうると想像できる幾つかの事象のうちの一つで、その中でももっとも最悪の部類に違いない。
 作り込まれた、唾棄すべき嘘とでも思っているのだろう。
被験者オリジナルのルークは、ローレライの力を継ぐ者とユリアの預言スコアに詠まれた存在だった。秘預言クローズドスコアに、マルクト滅亡の引き金を引く存在として詠まれている」
 ぐっと、眉間に刻まれる皺が深くなる。
 ルークの知る限り、ジェイドはそれほどマルクトと言う国を愛しているわけではなかった。
 けれど幼馴染みであり唯一の友人であるピオニーの大切なものとして、この国を想っていたように思う。
「……ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで若者は力を災いとしキムラスカの武器となって街と共に消滅す」
 ――――― 何度、この預言スコアを聞いただろう。
 この預言スコアがなかったら、ルークは生まれることはなかったのかも知れない。そう思うと複雑な感情を抱かずには居られない。
 胸の奥で渦巻く様々な感情に蓋をして、ルークは努めて静かにそれを口にした。
「……キムラスカの、第六譜石に詠まれている秘預言クローズドスコアだ。それが引き金になって戦争が起こる。マルクトは領土の大部分を失って、キムラスカには未曽有の繁栄が齎される」
 男が机に両の肘をつき、口元で組んだ手元でそこが隠される。
 意図したことではないのだろうが、窓から差し込む光が眼鏡の硝子に反射してますますその表情が読み取り難くなった。
「……それは、キムラスカの王族である貴方にとっては願っても無いことなのでは?」
 低く冷ややかな声に気圧されそうになりながらも、ルークはぐっと眼を瞑って俯き頭を左右に振った。
「……俺は、キムラスカの人にも、マルクトの人にも死んで欲しくない。それに……預言スコア通りになれば結局は人間は滅びるんだ」
 尊ぶべき、従うべき預言スコアに滅びが読まれた時、人はどう動くのだろう。
 ジェイドは敬虔なローレライ信者と言う訳ではなかったはずだ。
 それでも習わしとして誕生日には預言スコアを詠んでもらっていただろうし、預言スコアに詠まれたことが起こることは当たり前のことだったに違いない。
 何せ預言スコアは ――――― 例え受け取った側が抽象的な内容を読み違えることはあったとしても、その預言スコア自体は ――――― 二千年の間一度も外れたことが無いのだから。
 初めは荒唐無稽な戯言と思われていたかも知れない。
 けれど積み重ねていけば誰もが信じざるを得なくなる。
 誰もが信じて、依ればそこにあることが当たり前になる。
 そうやって積み上げられてきたのが、この世界なのだ。
「……確かにキムラスカは繁栄する。でも戦争で出たたくさんの死体から疫病が発生してマルクトを飲み込んで、何十年か後にはキムラスカも飲み込むんだ。そしてオールドラントは滅びる」
 もし普通に生まれて、当たり前の様に預言スコアを聞きながら育っていたら。
 ルークだってそのことに疑問を感じることはなかっただろう。
「バカなことを……もしそうだとして、なら何故イオン様はここに居られるのです? その預言スコア通りならマルクトに居ては危険なのではありませんか? いえ、どうせ滅びるのならどこに居ても一緒かも知れませんが、それにしてもなんらかの手を打たないはずがありません」
 頭を振って嘲笑めいた笑みを浮かべる男に、ルークは僅かに視線を反らした。
「……それはどうかな。多分、打たない人達もいる。預言スコアが滅べって言うのなら、滅ぶべきだって人達も。勿論そう言う人ばかりじゃないと思うけど」
「…………」
 ジェイドが黙り込んだのは、その言葉に思い当たる節があったからだろう。
 マルクトはキムラスカに比べれば比較的預言スコアを重んじてはいない。
 それでもキムラスカには夕食の献立さえ預言スコアに頼る様な輩がいることは聞き及んでいるだろう。
 そんな連中が第七譜石の預言スコアを知ればどうなるか。
 滅びの預言スコアを捨てられる者は良い。けれど中にはその現実を受け止めきれず、絶望する者や享楽に走る者、自ら命を絶つ者さえ出てきても可笑しくはない。
「それに、今のイオンはこの秘預言クローズドスコア自体知らないから」
「……今の?」
 ぴくりと僅かに男の整った眉が動く。
 僅かに動揺しながらも、ジェイドはそれを聞き逃さなかった。
「そう、今のイオンは俺と同じレプリカだ」
「……馬鹿な! それこそ有り得ない!」
 ガタンと椅子の音が大きく鳴った ――――― ジェイドが椅子を倒して立ち上がったのだ。
「何を以てあり得ないって思うんだ? イオンが変わったって話は聞いたことがあるだろ。前のイオンは怖い奴だったって聞いてる。今のイオンは優しい。身体が弱いのはレプリカ特有の劣化に依るものだ。聞いてみろよ、イオンは秘預言クローズドスコアを詠んだことがないって言うぜ」
 動揺の色濃く見返してくる男を見やり、ルークは淡々と告げた。
 真実、導師であれば、それは有り得ない話だ。
 何故なら導師こそが唯一、預言スコアクローズドスコアを読むことのできる存なのだから。
「……その滅び預言スコアを覆そうとした人が居たんだ」
 ぽつり、と零れ落ちた声は、それまでのものと違って、まるで途方に暮れたような。迷子の子供のような頼りない響きを宿していた。
 それが真実であれば、何も憂うようなことではない。むしろ喜ばしいことではないだろうか。
 ――――― けれど。続く言葉は、ジェイドの予想の範疇を遙かに越えたものだった。
「その人は、預言スコアに捕らわれた人間を全部滅ぼしてレプリカと入れ替えようとした」
「レプリカと、入れ替える……?」
「レプリカは預言スコアを持たない。だから、預言スコアと違う未来を作れる。そういう発想、だったんだと思う。そもそも師匠はこの世界を憎んでたから、全部壊したかったのかも知れない。……師匠はホドの生き残りだったんだ。たった一人の妹以外、家も家族も、全部亡くした。だから、わかってたのに回避しなかった人達を憎んだ」
 ホド島に住んでいた人達は、貴族も兵士も平民も、大人も、子供も。罪も無い赤ん坊までも例外なく、魔界の海に落ちて死んだのだ。
 しかもその引き金を引いたのは ――――― 引かされたのは、他でもない自分自身だった。
 それが。最初から分かっていた、回避しようと思えば回避できるはずのことだったとしたら。
 そして、そのことを知ってしまったとしたら ――――― 。
 もしそれが自分だったら。その時自分は何を思うのだろう。
「……その人はユリアの子孫で、第七譜石の預言スコアを知っていた。だからそれを覆す為に計画を立てた。そのうちの一つが、単独で超振動を扱えるローレライの力を継ぐもの、つまりルークを手に入れることだった」
 ありとあらゆるものを分解し、再構築する ――――― 本来であれば、唯一の力。
「ルークは10歳の時に誘拐されて、表向きは記憶喪失になって帰ってきたことになってる。でも本当は違う。本物のルークはまだその人の下にいる。返されたのはレプリカだったんだ。――――― それが、俺」
 身代わりにしか過ぎなかった人形が、音素振動数まで同じ特異な存在となり。聖なる焔の光と同じ力を手にしているとわかった時、あの人は何を思っただろう。
 万が一の時のスペアが出来た、ぐらいには思ったのだろうか。
 それともこれでアクゼリュスの崩落が楽になると北叟笑んだのだろうか。
「……俺達は全部を知って、その人とは違うやり方で世界を救おうとしたんだ。結果的には預言スコアも覆したし、その人も倒した。でもたくさんの人が死んで、俺も、音素乖離を起こして消滅した ――――― したと、思ったんだ」
 崩れた建物の残骸と共に振り落ちてきたアッシュの遺体を抱えたまま、痛みさえなく、只静かに指先が解けて音素に還っていくのを見た。
 腕が半ばまで消えればアッシュの身体は足元に落ちるのだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えて、でも最後まで目を開けていることは出来なかった。
 不思議と静かに、すべてを受け入れて。
 最後に初めて見た、彼女の泣きそうな顔を思い出して。
 ――――― 生きたかった。帰りたかったと思った。
 彼女の、皆のところへ。約束を果たしたかったと思った。
 それがルークの、最後の記憶だ。
「……でも目を覚ましたら、俺は生まれたばかりの子供の姿でコーラル城の研究所に居た。それがどう言うことなのかはわからないけど、ひょっとしたらローレライが力を貸してくれたのかも知れない」
 何度呼びかけてもローレライは応えず、全部夢かもしれないと思った時もあった。
 現実ではなく長い長い走馬燈なのかも知れないと。
 けれど、もし仮にそうだとしても、動き出した現実に足を止めているわけにはいかなかった。
「だからこれは、俺にとって二度目の人生なんだ。俺には記憶がある。前は後手に回ってばっかりだったけど、今度は変えられるかも知れない ――――― いや、変えたいんだ。イエモンさん達やフリングス将軍、アッシュも、俺も、死なないですむように」
 その為には、どうしてもこの男の協力が必要なのだ。
 無論、この男だけではない。
 イオンや、ナタリア、アッシュ ――――― そしてティア。
 皆の強力が無ければ成し遂げられないだろう。
 これはその為の、第一歩だった。
「……そのような世迷い事を、私が信じるとでも?」
 ――――― 長い、長い沈黙の後。
 深い、深い溜息と共に返ってきたのはそんな言葉だった。
「…………」
 僅かに脱力すると同時に、やっぱりと思う。
 仲間内で一番の知恵者であり、科学者であり、疑い深くも慎重な現実主義者。
(……だからジェイドの協力が欲しいんだ)
 口の中だけで小さく呟いて、ルークは昏い笑みにも似た表情を浮かべた。
「 ――――― 言葉だけで信じて貰えるとは思ってないよ」
「では、どうするおつもりで?」
 そう思っているのなら、何故このような世迷い言を言い出したのか。
 やはり性質の悪い悪戯かと冷ややかな表情を浮かべたジェイドの前で、ルークは黙って腰に佩いた剣に左手を当てた。
 すらりと淀みなく引き抜かれるそれに、ジェイドははっと目を見開く。
(しまった、罠か ――――― !)
 油断をしていたつもりはなかった。
 けれど目の前の青年からはあまりにも殺気や敵意と言ったものが感じられず、その為反応が遅れてしまったことは否めない。
 けれど、その程度のことで後れを取るようでは軍人など勤まらぬ。
 こちらを丸腰と思い打ちかかってくるであろう相手の不意を打つべく、腕に同化させた槍を具現化しようとして ――――― ジェイドは言葉を失った。
 ルークは静かな ――――― 否、どこか思い詰めた表情で机に、右手を開き置き。
 薬指と小指の間に切っ先を押し当てた。
 刃の部分が触れているのは小指の第一関節と、第二関節の間。
 外側に向けて剣を倒せば ――――― 。
「……やめなさい!!」
 自らの指を落とそうとしているのだと気付いて、咄嗟に上がった声に、けれど彼は怯むことなく刃を傾ける。
 端整な顔立ちが苦痛に歪むのと、ジェイドが彼の左手を掴み止めたのはほぼ同時だった。
 刃は指の半ばまで食い込み、そこから溢れた年代もののワインにも似たどろりと濃い赤が机の上にじわじわと広がるのに。
 そうして、そのような真似をしながら声一つ上げようとしない青年にぞわりと背中が泡だった。
 血を、見慣れていないわけではない。
 目の前の青年よりよほど知っている。
 その匂いも、感触も。
 けれど、これはそんなものとはまるで違う背筋の凍るような異様さを醸し出していた。
「何を考えているのですか、貴方は!」
 叱咤の声に、青年はようやくジェイドの方を見た。
 何を考えているのか、そもそも正気なのかさえ怪しかったが、その髪色といい、瞳の色といい、一目見てわかる仕立てのいい衣服と、キムラスカ方面からタタル渓谷へと流れた第七音素セブンスフォニムの奔流 ――――― 彼が、キムラスカの王族であることは間違いない。
 その王族の身体に癒えぬ傷をつけたとなれば国際問題に発展しかねない ――――― 例え、彼が自分でそれをなしたとしても、端から見ればそうとは取られないだろう。
 これから和平の使者になろうとしているジェイドには尚のことあってはならない失態だ。
 掴んだ腕がもがくように動いて、逃げ出したいのかと思ったが、違う。
 震えているのだと気付いて男の困惑はいっそう深まった。
 ルークは捕まれた腕をそのままにずるずるとその場にへたりこんだ。
「……切り離した指が、音素に還ったら、俺がレプリカだって信じてくれるだろ? そうしたら少なくとも、俺がレプリカだってことは、信じて貰える」
 その為に、自ら指を落とそうとしたと言うことか。
「バカなことを……」
「……髪や、爪じゃ駄目だったんだ」
 切った端から髪が消えていたら、とっくに人間でないことがわかって、ルークではないことがわかって大騒ぎになってただろう。
「でも、イオンが死んだ時、確かにイオンの身体は音素に還った。生命活動を停止したら、音素に還るなら ――――― ……そう思ったんだ」
 俯いたルークの漏らした震える声は、どこか啜り泣きにも似て聞こえた。
「……正気ですか?」
「………そのつもりだよ。俺が可笑しくなって、夢を見てるだけなのかも知れない、けど。でも少なくとも……この七年、俺が覚えている限り、世界は俺の記憶通りの道を辿ってる。このままだと、たくさんの人が死ぬ」
 半ば涙に濡れて見上げてくる瞳に恐怖や恐れはあっても、狂気の色はない。
 幼さと未熟さを曝け出しながら、同時にどこまでも深い深淵を内包するような不可思議な色。
「 ――――― お願いします。俺に、力を貸してください。俺はもう見たくない。俺のせいで死んでいく人達の姿を、見たくないんだ……!」
 目の前で、魔界の泥に飲まれて死んでいった子供の姿。
 ルーク達を庇い、散っていった老人達の顔どこか満足気な顔。
 教会で、ルークの腕の中で力を失っていったフリングス将軍の血の気の失せた顔。
 最後まで、イオンを求め続けたアリエッタの絶望に沈む顔。
 己の生を呪うシンクの、昏い歓喜に歪む顔。
 リグレットの、ラルゴの、名前も知らない兵士達の、幾つもの顔が脳裏に浮かんで、消える。
 床に、血塗れの手をついて、ルークは深く頭を垂れた。
 流れ落ちた朱い髪が床に広がる。
 床に、額を擦り付けんばかりの姿勢で、ルークはもう一度、低く。けれどはっきりと言った。
「お願いします。どうか俺に、力を貸してください ――――― ……」

BACKNETXT
 

 前半と後半で書いた時期が違うので違和感がないかドキドキです……。
 どこかで一度切ろうかと思っていたのですが切りどころがわからずやたらと長くなりました><

 実は考えた当初、頭にあったのはラストの部分のみでした。
 一話目で書いていた 「エンゲーブで○○○。」 の正解は、実は 「エンゲーブで土下座。」 だったと言う訳です(笑)。
 プロットなどは用意していないので(え)、この先どうなるかは不明ですがまだまだ序盤と言う感じですので飽かずお付き合い頂ければ幸いです〜。

2013.03.03

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