馬車を降りて辺りを見下ろすと、そこには遠い記憶のままの酷く長閑な光景が広がっていた。
 見渡す限りの田園と、それに囲まれるようにして立ち並ぶ平屋建ての素朴な佇まいの家々。
 視界を遮るものがない所為で空が高く、遠くで人の喧噪や家畜の声がして、土や緑、田畑の匂い、熟した果実や青い実の放つ香りが入り交じって、一度に流れ込んでくる情報の多さに目眩がする。
「……大丈夫?」
 動かないルークを訝しんでか、案じるような声が向けられて。
「………何が?」
 ルークはふらつきそうになるのを堪えて努めてゆっくりと彼女の方へと振り向いた。
「……顔色が悪いわ。無理をしているのではない? それにさっきからずっとお腹を押さえているし……」
 言われて、無意識のうちに剥き出しの腹部に手を当てていたことに気付いて慌ててそれを浮かせる。
 染みるような疼痛は相変わらず続いていたけれど、彼女にそれを悟られるわけにはいかない。
「あ、いや。その……えっと、腹、減ったなと思って」
 ――――― 我ながら下手な言い訳だ。
 頭も胸も、重苦しいような感覚でいっぱいで食欲などあるはずもなく、顔色もそれに比例して悪い。
「……まぁいいわ。どちらにせ休息は必要だもの」
 彼女にもそれはわかったのだろう、探るように僅かに眼を細めて、けれどそれ以上追求しないでいてくれた。
「行きましょう」
「……こ、これからどうするんだ?」
 先に立って歩き始めた彼女の後を追い、隣に並んで問う。
「まずは宿を取って、装備を調えましょう。地図や食料も必要だし……あなたも木剣では不安でしょう?」
「ぁ、うん……いや、そうじゃなくて……」
 これからの先のルートのことを話したいのだとみなまで言う間に、彼女はルークの問に応えてくれた。
「多分、カイツールを目指すことになると思うわ。ローテルロー橋が落ちてしまった以上、キムラスカ側に繋がっているのはあそこだけですもの。……私も貴方も旅券がないから通れるかはわからないのだけど……」
 とは言え、キムラスカの筆頭貴族である侯爵家の子息が行方不明になったのだ。
 音素の流れを辿ればそれがマルクト側に流れ込んだことがわかるはず ――――― その捜索隊が組織される可能性もある。
 末端まで情報は行き渡っていないだろうが、キムラスカ側の兵士に接触して小金を握らせるなりなんなりして上司に取り次いでもらえば、何れは侯爵子息の顔を知る者に行き当たるだろう。
 そうなれば臨時の旅券を発行してもらうことができるかもしれない。
 彼がこの七年軟禁されていた、と言うことを知らないティアはそんな風に考えていた。
 実際にはルークの顔を知る人間は一握りなのだが、眼にも鮮やかな朱い髪と吸い込まれるような緑柱石エメラルド色の瞳を見れば、それだけでも上層部に取り次ごうとする人間が出てくるに違いないので ――――― 何故なら王族、或いはその庶出子である可能性が高いからだ ――――― 強ち見当外れというわけでもない。
「………」
「………」
 会話もないまま黙々と歩いていた二人は、宿屋らしき看板を掲げた、他の家々より少し大きめの家の前の人だかりができていることに気付いて足を止めた。
「……何かしら」
「揉めてるみたいだな……」
 壮年の男性を中心に、十名余り。
 低い声で話し合っている様子で、会話の内容までは聞こえないものの、妙に殺気立った空気が漂っている。
 宿でルークを休ませたいのは山々だが、自分達は不可抗力とは言え許可なく国境を越えた不法入国者だ。
 下手に騒ぎに巻き込まれて身分証の提示を求められでもしたら困る。
 神託の盾オラクル騎士団所属のティアはどうとでも言い逃れができるが、ルークの方はそうもいかない。
「……仕方ないわ。先に店を見て回りましょう。向こうにも休める場所があるかもしれないし……」
 少し考えて、ティアは広場に広がる露店の方を指差した。


(やっぱり盗難事件が起こってるみたいだな……)
 頷いて、歩き出したティアの後を追ったルークは、口の中だけで小さく呟いて眉を寄せた。
 食料庫、火事、漆黒の翼 ――――― 微かに聞こえてきた単語から、自身の記憶通りに事が進んでいることを確信して、安堵とも落胆ともつかない感情に囚われる。
 未来がわかっている、とい言うことは変えられるチャンスあると言うことだ。
 けれど同時に、それが確かに起こってしまうことだと言うことでもある ――――― この先に、残酷な真実が待っていると言うことでもある。
 手の届かない、変えられない未来もある。
 自身の手の届く範囲など、ほんの僅かな距離でしかない。
 それを痛感して、いっそ何も知らなければと嘆くことになるのかもしれない。
(………だとしても……)
 ――――― 賽は投げられた。
 ここで立ち止まるわけにはいかない。
 この手で、できる限りのことをするのだ。
 今頃はこの村にジェイドやイオン、アニスが滞在しているはずだ。
(……どうやってジェイドと接触する……?)
 おそらくジェイドはローズ夫人の家だ。
 ジェイドに接触しようとすれば、ティアは間違いなくそれを止めようとするだろう。
 何せルークはキムラスカの王族であり、相手はマルクトの軍人だ。
 ルークは彼が和平の使者としてのここにいることを知っているので、捕らわれたとしても酷い扱いは受けないだろうと思っているが、ティアはそうではない。
(……もう一度リンゴを盗んで……?)
 盗人として強制的に突き出されれば、ローズ夫人の家に行くことになるだろう。
 けれど、なるべくならそれは避けたい。
 村の中央の広場に広がった露店の一角で、あの時と同じ、果実を扱う店の軒先で足を止める。
 陽の光を受けて艶々と輝く林檎は良く熟れて目にも鮮やかな色彩を放っている
 ルークは赤い皮を剥かれて上品に皿に盛りつけられたそれよりもガイが内緒で差し入れてくれた丸のままのものにかぶりつく方がずっと好きだった。
 両親やラムダスに見つかれば叱られる、その思いがいっそう、林檎を美味しくさせていたのかもしれない。
 飾り気のない本物の味 ――――― その時、何を考えていたのかはもう思い出せない。
 いっそ何も考えていなかったのかもしれない。
 店先に立ち竦んだまま林檎を見つめていたルークは、故に気付くことができなかった。
「ぁっ……」
「……っ!?」
 どん、と二の腕の辺りに何かがぶつかって。何気なくそちらを見て、瞬間小さく息を飲む。
 ぶつかった衝撃で尻餅をついた少年の顔は、酷く懐かしいそれだった。
「………イ、ッ……」
 新緑のような鮮やかな緑の髪と翡翠のような穏やかな緑の瞳 ――――― イオン、と叫びそうになって慌てて口元を押さえる。
「大丈夫ですか?」
「……あ、はい。急いでいたものですから、すみません」
 駆け寄ってきたティアが手を差し伸べるのを頼りに立ち上がった少年の声に、胸の奥を締め付けられる。
『 ――――― 今まで……ありがとう……僕の一番、大切、な……』
 穏やかで優しい声に、今際の際の力無い声が重なって聞こえた気がした。
「……い、いいよ、こっちこそぼうっと立ってて、ごめん」
 ルークは気力を振り絞って何でもない風を装って頭を振った。
「ありがとうございます、それでは」
 右手がきつく握りしめられている ――――― 手にした何かを無くしてしまわないように。
(そうだ、あの時イオンはチーグルの毛を……)
 おそらくはその中に、証拠の品があるのだろう。
 騒ぎを静めるべくそれを手にローズの元に向かうところだったと言ことか。
 一礼して、急ぎ足に去っていくイオンの小さくなっていく背中にティアがぽつりと呟いた。
「今のは……まさか、導師イオン……?」
「……イオンって、ローレライ教団の最高指導者だよな?」
「えぇ……遠くからお見かけしたことがあるだけだけど、多分間違いないと思うわ。何でこんな所に……」
 確認するように返せば彼女はそちらに視線を向けたまま頷いて、そのまま難しい顔で黙り込んでしまった。
「ヴァン師匠は導師イオンは行方不明だって言ってたぜ。その捜索の任務に就く為にダアトに帰るって」
「…………」
 ティア自身の持つ情報とルークから聞かされたそれ、そしてここにイオンがいると言う事実から真実を導き出そうとしているのかも知れなかったが、ティアの持つそれも、ルークが口にしたそれも、所詮はモースやヴァンの都合の良いように捻曲げられた偽りのものに過ぎない。
 何はともあれ、これはひょっとしたらチャンスかもしれない。
「………とにかく追いかけてみよう」
 そう言って、ルークは彼女の返事を待たずに走り出した。

BACKNETXT
 

 サイトと言うか同人活動的には全く立ち止まらずにここまできたのでそんな気はしていなかったのですが、このシリーズに関しては実は前回から一年以上の間が開いてしまっていたと言う……。
 焦らずゆっくり書いていきたいとは言ってはいましたが、流石にゆっくりすぎな気がします……。
 しかも話は全然進んでないとかw
 一応草稿としてはタルタロス乗船あたりまで完成済みです。
2011.09.11

戻ル。