数年も経つと手足が伸びて、筋肉もついて随分と動けるようになった。 監視の兵士やメイド達の隙を見て裏の林に逃げ込んでは超振動の扱いや基本的な譜術の訓練もやった。 属性自体は適正があることがわかっていたし ――――― 技としては使うことができたからだ ――――― アッシュが使えたのだから自分にもできるかもしれないと思ったのだ。 初めはルークの姿が見えなくなる度に慌てて探しに来ていた屋敷の者達もやがて慣れて、勉強がイヤで逃げ出す困ったお坊ちゃんという認識を持ってくれるようになった。 月に数回稽古をつけに来てくれる師匠には右利きのフリをしている。 貴族社会では右利きであることが美徳だ。アッシュがそうされたように右利きに矯正されたように振る舞い、ガイにはみっともないから知られたくないと口止めをしておいた。 師匠は一向に腕の上がらない、困った弟子だと思っているようだった。 ――――― 稽古の最中、不意をついて彼を殺すことも考えた。 今ならきっと、不可能ではない。相手はルークが自分を傷付けることなど想像もしていないのだから。 木刀を左手持ち替えて打ち込み、驚いた拍子に隠しておいたナイフで喉を狙う ――――― けれど、そうして、その後どうなる? 気が違ったのだと思われ、監視の目が一層強くなるのがオチだ。 そうして17の年にアクゼリュスに送られて ――――― 結局未来はスコア通りに進んでしまう。 それに例えルークがあの悲劇を起こさなかったとしても、パッセージリングの耐久年数が限界を迎えつつある事実は変えられない。 崩落前にアクゼリュスの住民を逃がす必要がある。 その為にはマルクト軍の協力が必要だ。 だが今のルークにマルクト軍と秘密裏に連絡を取る手段などあるはずもなく、例えあったとしても大地が崩落するなど世迷言と一蹴されてしまうだろうことは目に見えている。 出来ることと言えば考えることと、力を蓄えることだけだとわかってはいても ――――― 身を焦がすような焦燥と不安に、迷う。 ――――― 今、こうしていることは無駄ではないのか? そもそもあれは本当に現実だったのか? 記憶の混濁と長い幽閉生活によるストレスから頭がおかしくなった自分が見た夢ではないのか? 或いは今ここに居ること自体が、乖離して消えかけている自分の見ている長い走馬灯のような夢なのではないか? 自身の存在さえ曖昧な、夢とも現実ともつかぬ長い年月に苛まれるルークを支えてくれたのは、今ここに居ない ――――― 本当に存在しているのかどうかさえわからない彼女の歌だった。 『………トゥエ レイ ズェ ――――― ………』 包み込むように柔らかな彼女の声。 どこまでも透き通って、それでいて温かい旋律を思い出して目を閉じる。 死に迫った人間の五感で、最期まで残るのは聴覚なのだと聞いたことがある。 ルークの、生きていく上での最低限のこと以外の知識は、その殆どがあの旅の中で培われたものだから、内容から考えてジェイドが口にしていた言葉だったのかもしれない。 自分は消える間際までこの歌を聞いていたのだろうか。 それとも今、消えていく自分の中にこの歌だけが残っているのだろうか。 「………違う ――――― 俺はここに居る………ちゃんとここに……」 自分自身に言い聞かせるように、呟いて頭を振る。 とりとめもない思考に押し潰されそうになりながら、忘れてしまわないように、遠ざかってしまわないようにその歌を唇に乗せた。 「……トゥエ レイ ズェ……」 決して上手くはない、彼女のそれには遠く及ばない。けれど口ずさめば泣きたくなるような想いが溢れて、手の届かないような胸の深いところが痛んで ――――― その痛みに縋り付くように何度も、歌った。 ――――― ガイがそれを耳にしたのは偶然だった。 ルークが陽の高いうちに姿を消すことは最早珍しくはなくて、けれど夕食時には何時の間にか戻ってきているのは常だったから今更誰も探そうとはしないのだが ――――― どうせこの屋敷から出ることはできないのだ ――――― その日は珍しく寝る前に覗いた彼の部屋にその姿がなくて、流石に不安になったのだ。 誘拐されて、記憶を失って帰ってきてからのルークは明らかにそれまでのルークと違っていた。 幼いながらに誇り高く、子供とは思えぬ賢さと傲慢さをひけらかしていた生まれながらの小さな王様はもうどこにも居ない。 帰って来たのは怯えたような目をした無力な ――――― 奇妙な、子供。 彼は誰にも気付かれていないと思っているようだが、ガイは知ってる。 他人と居る時はいつもにこにこと笑っている彼が、一人きりの時は思い詰めたような目で遠くを見てばかりいること。 時折、自身の掌を見詰めてぶつぶつと何事か呟いていること、夜中に酷く魘されていること。 (………だからと言って俺には関係ないと言えばないんだが……) もともとガイは、彼を殺すつもりでこの屋敷に来た。 あの誘拐事件がなければとっくに実行していたはずだ。 シュザンヌ様があんな風に悲しむことまでは想像したことがなかったし、ひょっとしたらそのことに少しだけ胸が痛んだかもしれないけれど。そんなことなど知る由もなく、感情のままに復讐を果たして ――――― 果たしてその後、自分はどうするつもりだったのだろう。 「 ――――― ………トゥエ レイ……ズェ……」 がさりと草むらを掻き分けた時、微かな歌声が耳について、ガイは足を止めた。 辺りを見回して、音の方向を定めて改めて歩き出すと少しづつ声が近くなってくる。 同時に歌もはっきりとそれと受け取れるようになってきて、ガイは密かに眉を潜めた。 「……………クロア リュオ ズェ トゥエ………」 (何の歌だ……?) 今使われている言葉の様式には当てはまらない、美しい音の羅列のようでさえあるそれに。 古い歌なのかもしれないと思うと同時に奇妙な違和感を覚える。 ――――― ルークは誘拐される前の記憶を持たない。 だからルークが知っていてガイが知らないことなどないはずなのに、それはガイの知らない歌だった。 (………否、どこかで聞いたことがある………?) 遠い昔、誰かが歌っていたような気がする。 それが誰だったのか思い出せないほどに遠い、昔。 (…………そんなわけはない、か) 口の中だけで小さく呟いて頭を振る。 それほど昔のことなら、尚更ルークが知っているわけがない ――――― ガイはマルクトの出身なのだから。 やがて草むらを掻き分けた先、少し開けた場所に座り込んだ少年が丸い見上げて歌っているのを見つけて、ガイは知らず安堵の息を吐いていた。 「ルーク!」 「………っ……ガイ?」 名前を呼ばれてはっとしたように振り向いた少年が、ガイの姿を認めて驚いたように目を瞬く。 「遅くに抜け出すと、奥様が心配するだろう?」 罰の悪い表情で俯くのに苦笑めいた笑みを浮かべ、ガイは彼に歩み寄ると手を伸ばしてくしゃりとその頭を撫でた。 もう慣れた ――――― 何時の間にか慣れてしまった、仕草。 こんな風に馴れ合うつもりなどなかったはずなのに。 「今なんか歌ってたろ? 何の歌だったんだ?」 壊れかけて動きの鈍った音機関仕掛けの人形のようにぎこちなく笑い返してくるのを受けて、なんとはなしに問えば、ルークは目に見えて表情を硬くした。 笑い損ねて中途半端に歪んだ唇がまるで泣いているようにさえ見えて、何か不味いことを聞いただろうかと僅かに眉を潜める。 それに気付いているのか居ないのか、ルークはのろのろと空を見上げて雲一つ、陰り一つない星空に浮かぶ見事なまでに丸い月を振り仰いだ。 「…………夢の」 やがてその唇から漏れた音の意味を正しく拾い損ねて、ガイは目を瞬く。 「………夢がどうしたって?」 普段は他者がいるところではこんな風に支離滅裂な言動をすることはないのだが、今日のルークは何時もに増しておかしい。 (…………まさか寝ぼけているわけじゃないだろうな) 覗き込んだ翠の瞳は、はっきりと月を捕らえている様で居て ――――― ここではない、どこか遠くを見ているようでもある。 「 ――――― ………夢の中で逢った、大事な女が歌ってた歌、なんだ」 酷く、大切な何かを ――――― 愛しい誰かを見つめるような眼差しに、その危うさに。 まるで夢と現実の区別がついていないような ――――― 狂人のそれを思わせる口振りに、ぞっと背中を冷たいものが伝ったような気がした。 咄嗟に目を覚ませ、とその肩を揺さぶろうとして ――――― 動きを止める。 彼の命を奪うことは、難しくはない。今、ここで。後ろから思い切り背中を押してやるだけでいい。 林を転がり落ちて、岩棚を越えてしまえば後はまっ逆さまに。最下層まで落ちて熟れすぎたトマトのようにぐしゃりと潰れておしまい、だ。 それは酷く簡単なようでいて ――――― 酷く難しい、ことだった。 自分が、この危うい眼をした子供のことを案じていることに気づいてしまった今では。 「…………戻ろう」 ――――― 長い長い沈黙を置いて。 結局ガイが口にすることができたのは、それだけだった。 |
WRB上ではシリアス、オフで行こうかなーと言う感じになりました。 ガイ様華麗に(違う方向に)絆され中です。 |