あれから、どうやって家に戻ったのか覚えていない。
 気がついたら一人で家に帰って来ていた。
 玄関で倒れ込むように壁をずってずるずるしゃがみ込む。
(………安達はどうしたろ……)
 忘れていた。
(……女なのに)
 一人で、あれからどうしただろう。
 あんなところに置いてきてしまった。
 名前を、呼んでいた様な気がする。
 けれど葛馬は振り向かなかった。
(………アイオーンが送ってったかな……随分とアイツのこと買ってたみてーだし)
 いつもの癖でニット帽を握り締めようとして、違和感を感じる。
 途中でどこかに落としたのだとぼんやりと思い出した。
 今更探しにいく気にもならなかった。
(……………実際スゲェよな。俺なんかより、ずっと)
 アイオーンの言う通り、エミリの方がよっぽど戦力になる。
 肝心なところで足が竦んで動かない自分より、ずっと。
(………何も出来なかった)
 仰のいて瞼を閉じる。
 見慣れたはずの自宅の玄関の天井が、妙に遠く感じた。
「………違う」
 ぽつり、と溜息のような声が漏れる。
「……………何も、しなかったんだ」
 出来なかったのではない。
 何かしようとすることさえ出来なかったのだ、自分は。
(………何か、出来たかもしれないのに)
「………ぅ……ッ……」
 そう思ったら急に吐き気が込み上げてきて、這うようにトイレに向かった。
「……っぅ、げほ、ぐッ……っ……」
 胃の中のものを全部ぶちまけて、嘔吐く。
 吐くものなんか何もがなくなって、饐えた様な匂いの胃液を吐いて、それでも止まらなくて生理的な涙が滲んで視界が霞んだ。
「……っは……」
 苦しくて、イキが出来なくて。
 胸の奥の手の届かないところがムカムカして、けれどそれを静める術がわからなくて苛立ちが募る。
「……………」
 少し吐き気が治まると口の中に残る粘つくような気持ち悪さが気になって、葛馬は震える膝を押えて立ち上がると灯りの落ちたキッチンに向かった。
「……………」
 冷蔵庫の中からミネラルウォーラーのペットボトルを取り出し、直接口をつける。
 ゴクゴクと喉の鳴る音が冷蔵庫の中から漏れる薄い光に照らされたキッチンに響いた。
 飲み込み切れず溢れたそれが顎を伝っていくのを乱暴に手の甲で口元を拭う。
 冷たい水が食道を通ってからっぽの内臓へ流れ込んでいくのを実感する。
「……うぐ……」
 その冷たさに、ゾッとした。
 胃のせり上がってくるような感覚に堪らず膝を付く。
「………っは、っは………クソッ……」
 喉を、口元を押えて込み上げてくるものを堪える。
 何度か胃の痙攣するような感覚があって、次第にそれが小さくなっていくのをどこか遠くに感じていた。
(…………姉ちゃんが居なくて良かった……)
 ゴツリと冷蔵庫の扉に額を押し付ける。
 モーターの稼動音が低く響いているのがやけに大きく聞こえた。
「………ふっ……ッ……」
 今は誰にも会いたくなかった。


 翌日、エミリと、スピット・ファイアからメールが入っていた。
 エミリからは昨日結局はアイオーンに家まで送ってもらったこと、あの後の葛馬を心配する言葉、そうして『ありがとう』の5文字が綴られていたけれど、どこか嘘寒く感じてしまった。
 彼女はきっと本当にそう思っているのだろう。
 けれど今はそれが逆に苛立ちを誘った。
(………つーか結局俺、何にもしてねえし)
 礼を言われる筋合いはない。
 あれは葛馬の手の届かないところで行われていたバトルだ。
 ……スピット・ファイアからは『大丈夫?』と、一言だけ。
 エミリには適当な相槌と、暫く雨が降り続くらしいことと夜に出歩くことの危険性を口実に、当分自主練を中止させてくれと言う内容を綴ったメールを返して。
 でも結局、スピット・ファイアには返信を返さなかった。
 …………心配しているだろうとは思わなかった。
 あの場にはアイオーンがいたのだから葛馬が無傷だと言うことはきっと知っているはずだ。
(…………わざわざ俺に聞く必要、ねぇじゃん)
 蛾媚刺を捕らえたことで、創世神ジェネシスの内部が慌しくなっているらしいと言うのは聞いた。
 その所為なのだろう、最近ベンケイの姿を見かけない。
 あれからずっと、しとしとと鬱陶しい雨が降り続いて。
 けれど今はそれが少し、ありがたくもあった。
(………口実になる)
 ATを履かない、口実に。
「…………つーかなんか色々、どうでもよくなってきたな……」
 机に突っ伏して二の腕に顔を埋めるようにして自身の頭を抱える。
 ぐしゃりと無造作に髪を掻き混ぜるように腕を動かして。
(………そういや長いこと、美容院にも行ってねェな)
 瞬間ふっと思い出したけれど、けれどとても彼と顔を会わせる気にはならなかった。
「……向こうも忙しそうだしなー……」
 連絡を取ってもいないくせに勝手に決め付けて、いい訳じみた台詞を口の中で転がす。
 ツマラナイ授業、クダラナイ日常、それが葛馬達の現実だ。
(…………急に現実に引き戻されたみてェ……)
 いつもの日常と違うのは、ずっと一緒にいたはずの幼馴染が一人、減っていることぐらいだ。
(………そういやあいつがAT始めたばっかの頃もこんな感じだったよな……)
 でも結局イッキは子供の頃から飛び抜けた存在で、ガキ大将で、人気者だった。
 葛馬とオニギリはいつもそのオマケのようなものだった。
 ……オマケは所詮、オマケでしかなかったらしい。
「…………帰ろ」
 無造作に肩に鞄を引っ掛けて、葛馬は教室を出た。
 折り畳みの傘をこちらも適当に首に引っ掛けるようにして、両手を学ランのポケットに突っ込んで雨の中に足を踏み出す。
 濡れてぬかるんだグランドの土がピチャピチャと音を立てるのをぼんやりと聞きながら俯き気味に歩いていた葛馬は、視界の隅に見覚えのある車を見つけて足を止めた。
「……………」
 校門の脇に、この辺ではあまり見かけない派手な外車が止まっている。
 すぐに誰の車か思い至って、葛馬は僅かに苛立ちめいた感情を覚えて眉を顰めた。
「カズ君」
 そのまま踵を返して裏門の方へ向かおうかと思ったが、向こうは既にこちらに気付いていたらしく、車の窓が開いて声がかけられて。
 無視することも出来ずに葛馬はそちらに足を向けた。
 他の生徒達の視線が集まってくるのがわかる。
 アイオーンだのベンケイだの、イッキの周りを派手な連中がうろついているのは周知の事実だが葛馬に声がかけられるのは珍しいし、それに何よりスピット・ファイアは存在がそのものが派手だ。
 派手な外車と甘い顔立ちが相俟って、強烈に視線をひきつけている。
 女子の好奇心と興味の視線が一層葛馬の中のわけのわからない苛立ちを誘った。
「………何しに来たんだよ。つーかメチャクチャ目立ってんスけど」
「……乗って」
「…………」
 変わらぬ穏やかな声で、けれど有無を言わさぬ強さを持った口調で促されて、葛馬は暫く逡巡した後、黙って助手席側へと回った。
 本当はこのまま帰ってしまいたかったけれど、流石にそういうわけにもいかないだろうし、かと言ってこの場で話し込むのは如何にも目立つ。
(……………変な噂になっても困るし……)
 これだけ目立っていれば今更かもしれないと思いつつも、葛馬は後部座席に鞄を投げ込んで、助手席に身体を押し込んだ。

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 蛾媚刺のビは本当は月に眉らしいのですが、パソコンの常用漢字ではないのでこの字にしてしまいました。
 3〜4の流れがちょっとわかりにくいかなと思いつつも原作がある部分なのでその辺りはあまり描写したくなかったのでこのような形にさせていただきました。

2007.05.20

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