スピット・ファイアのマンションに泊まるのは2度目だ。
 前回は済し崩しに釣れて来られて時間も遅かったし、そのまま寝こけてしまったのだが今回は余裕もあったしシャワーとパジャマを拝借した。
「…………」
 シンプルなデザインで部屋に溶け込むような白………なのはいいが、袖も裾もかなり折り曲げなければならなかったし、ウェストもずり落ちそうな程緩かった。
(細い細いと思ってたけど実際そんなこたねーんだよなぁ……)
 実際にはどちらかと言えばスピット・ファイアも細身な方で葛馬が細すぎるだけなのだが、それを認めるのは何だか屈辱だった。
 タオルで金色の髪から滴り落ちた水滴を拭い、ドライヤーを当てつつ、洗面台の鏡の中から見返してくる自身の姿に葛馬はふっと眉間に皺を寄せた。
(………てゆーかあれ、これって)
 彼氏……と言うことになる、一応。葛馬の方も彼氏、なのだがこの際その辺は混乱するから置いておこう……の部屋でシャワーを浴びてパジャマ借りて、って何だかソレっぽい展開ではないだろうか。
(…………やっべー、全然考えてなかった)
 さーっと血の気が引いて、葛馬は動きを止めた。
「………そう言うことになるの、か?」
 鏡の向こうの自分に向かって問い掛ける。
「……イヤマテ、落ち着け俺!!」
 今更帰ると言い出すのもおかしいだろうし、かと言ってソウイウコトになってしまうのには躊躇いがある。
 相手がオンナノコならこれほど躊躇いはしないのだが……多分、おそらく、きっと、自分が抱かれる方だろうと思われるだけに。
(…………いやでも俺だって男だし)
 しかし逆がいいのかと聞かれれば素直にYESとも言い難い。
(………やり方なんかわかんねーし、第一なんかヘンな感じだし……)
 だからと言って抱かれたいわけでもないし、今のままが一番居心地がいいと言うのが本音だ。
「……好きだけどさー、好きなんだけどさー!!」
「…………何をしてるのかな?」
「うわぁッ!?」
 突然かけられた声に葛馬は派手な声を上げて飛び退った。
 葛馬があまりに遅いので心配したのだろう、何時の間にか様子を見にきたらしいスピット・ファイアは、珍しく照れくさそうな、嬉しそうな表情で片手で口元を覆っていた。
「………きっ……いて、た?」
「……うん」
「………ぁ、えっと、その……っ!」
 かぁっと一気に頬が赤くなるのがわかって、葛馬は洗面台にしがみつくように前のめりになって顔を隠した。
(…………やべー、やべー、やべー!!)
 狭い脱衣所では逃げ場もなくて、頭の中でその単語を繰り返すことしか出来ない。
(………………赤くなったり青くなったり忙しいなぁ……)
 無論、少しだけ鏡に写っていた顔が赤かったのをスピット・ファイアが見逃すはずもなかった。
 数歩の距離を詰め、後ろから手を伸ばし、力を込めれば簡単に折れてしまいそうな細い項に触れる。
 シャワーを浴びたばかりだからか、それ以外の理由からかほんのり熱を持っている。
「……ッ!」
「期待、しているのかな?」
 作為的に指を滑らせ、耳元に唇を寄せて囁く。
「バッ、バーロ、ちげぇよッ!!」
「……………」
 思い切り腕を跳ね上げて振り向いた葛馬は恥ずかしさに今にも泣き出しそうな表情で。
「………ぷっ……くっ………あはははは……」
 堪えきれない、といった様子で噴き出した男はそのまま腹を抱えて、延々と肩を震わせ続けた……。


「……………そろそろ機嫌治った?」
「………治らねぇよ、バーカ、バーカ」
 ケッと毒づく音が聞こえる。
 いつものようにソファに並んで座っているけれど、いつもと違って葛馬はスピット・ファイアに完全に背中を向けて外方を向いているし、足も腕も組んで不機嫌顔だ。
 結局髪は乾かさないままで少し水気を含んでいるが滴る程ではないので良しとする。
 乾かしてあげようか、といつもの柔らかな笑みで手が差し伸べられたがそんな気分にはなれなくて断った。
(………別に触られたのが嫌だったわけじゃないんだけどさ)
 あんなに笑うことはないと、思う。
「…………ほら、温くなっちゃうよ?」
 温くなる、と言われてちらりと視線を向けると、ワイングラスに柔らかみのある綺麗なピンク色のロゼワインが注がれるところだった。
 テーブルにはワイングラスと簡単なつまみ類が並べられている。
 とぷん、と音を立ててボトルの口から桜の花が零れるのに葛馬は思わずそちらを向いてしまった。
 アルコール漬けの桜は仄かな甘さと酸味の混ざった、甘酸っぱい春の香りを漂わせてふわりとグラスの底に沈んでゆく。
「……桜のワインだよ、可愛かったからつい、ね。でも自分じゃ飲まなくて」
 葛馬の視線に答えて微笑む男がどうぞ、とグラスを寄せて来て。
「………」
 葛馬は無言のまま手を伸ばして、それを口に運んだ。
「…………甘い。でもあんま、ワインって感じしねーな」
 ビールや缶チューハイは良く飲むのだが、ワインはあまり飲んだことがないのでよくわからない。
 感想としてはどちらかと言うとカクテル系の甘い酒の炭酸抜きのような味だ。
 勿論いつもの缶チューハイとかとは段違いの美味しさなのだが、酒と言う感覚が弱くて少し物足りない。
「ロゼだしアルコール分も控え目のだからね」
 そう言いながら彼が自分用にだろう、独特の紫がかった深みある色合いの赤ワインをグラスに注ぐのを見やり、葛馬は眉を顰めた。
「………なんで、違うのなんだよ」
「ん? あぁ、こっちは少し強いからね。カズ君には向かないと思うよ」
 コドモ用、と言われたようで、むかついた。
「俺もそっちがいい」
「ダーメ」
 手を伸ばすとそれを予測していたかのような動きでするりとグラスが持ち上げられた。
「ガキ扱いすンなよっ」
「ちょっ、危ないよ、カズ君!」
 ムキになって手を伸ばしたらバランスが崩れて、グラスを取り落としかけたスピット・ファイアが珍しく焦ったような声を上げる。
 その隙を付いてグラスを奪い、葛馬はしてやったりとニッと笑った。
「へへ、いっただきー」
「ぁっ……」
 静止の手が伸びてくるより一瞬早く、グラスを口元に運ぶ。
「……………う……」
 一口、含んで。
 葛馬は眉を顰めた。
「渋っ! てゆーか不味ッ! 何だコレ!」
 慌てて自分のグラスを手に取り、甘いワインで口治しをする葛馬にスピット・ファイアは思わず苦笑いを浮かべた。
「………シャトー・ペスキエ。赤ワインだよ」
 葛馬が放り出すように置いたグラスを手に取り、慣れた仕草で口に運ぶ。
 一口含めば口の中に芳醇な香りと深くまろやかなコクのある風味が広がった。
 艶のある深い赤のそれは色の深い分コクも深く、同時に渋味や苦味、酸味と言ったあまり子供向けではない味わいも強い。
「フルボディだからコクがあるんだけどね、癖が強いから慣れてないと……」
「つーかよくこんな不味ぃーの飲めんな」
 まだ舌に違和感が残っているのか嫌そうな顔で舌を出す様子を見やり、スピット・ファイアは僅かに細い柳眉を持ち上げた。
「………不味い、ね」
「苦いのは別に平気なんだけどさぁ、渋いのはどーにかなんねーの?」
「…………」
 こちらに背を向けたままぶちぶちと文句を重ねている葛馬の背中を眺めていたスピット・ファイアはふっと何かを思いついた様子で目を細め、緩く口元に笑みを刻んだ。
「俺ワインってもっと美味いもんかと思っ!?」
「…………」
 グラスを煽ると、葛馬が自身のグラスを置いたタイミングを見計らって細い腰に腕を回し、引き寄せる。
 驚いた顔で振り仰いでくる顎を軽く引き上げて、覗き込むように真上から口付けた。
「……へっ? ちょっ……」
 舌で唇を辿れば何か言いかけた口がぎゅっと閉じられて、予想通りの動きにスピット・ファイアは口端を引き上げそっと上を向いた鼻を摘んだ。
「ぅ!? んー!! ………っ…ぷはッ!!」
 腕の中でじたばたともがいているが大した抵抗でもない。
 暴れた所為もあってすぐに苦しくなったようで酸素を求めて口が開いて、其のタイミングを狙って口に含んでいたワインを流し込んだ。
「……ん…ぅ…」
 流れ込んできた液体に目を瞬いた葛馬が、けれど唇を塞がれている所為で吐き出すことも出来ずにごくりと喉を鳴らすのを見て、北叟笑む。
 そうして今度は打って変わって柔らかくその濡れた唇を吸った。
「…………ワインの味がする」
「……ッ、てめー、何しやがんだっ!」
「………美味しかった?」
 顔を真っ赤にして口元を拭う葛馬を気にする様子もなく、耳元に囁いてくる男。
「あっ、味なんかわかるかッ!」
 さっきは苦いと思ったけれど、今度はびっくりしすぎてさっぱり味がわからなかった。
 顔を真っ赤にして抗議する葛馬にスピット・ファイアは挑発的な笑みを浮かべる。
「………こっちが良かったんだろう? 飲みたければ幾らでも飲ませてあげるよ?」
「い、や、やっぱいりませッ……」
 男がひょいとグラスを取り上げ、再度ワインを口に運ぶのを見て葛馬は慌てて後退った。
 けれど簡単に捕らえられて今度は正面から唇が重ねられる。
 少し強引に唇を割られて、流し込まれた酒はいつも飲んでる安物より全然重くて、濃い。
「………奥より舌先が甘く感じるんだよ。わかる?」
 舌を絡め取られて、ちゅくっとヘンな音が聞こえた。
「……ン、んぅっ……」
 飲み込むのを躊躇っていたら指先が喉を擦るように動いて、その刺激に温い液体を嚥下する。
 苦味と渋みの中にほんのり葡萄の甘味が感じられた。
「…………言うこと聞かない悪い子にはお仕置きです」
「………っ、てっめー……」
 くっくっと楽しそうに笑う音が聞こえた。
 唇を濡らしたワインを舌で嘗め取る仕草が妙に色っぽくてドキっとする。
「……こっちでいいね?」
「…………」
 桜色の液体が満たされたグラスを持ち上げる男に結局何も言い返せず、葛馬は悔しそうに、けれどコクリと小さく頷いた。
「ぇ……」
 グラスを渡されるのかと思ったが、けれど予想外に男はそれを自分の口に運ぶ。
 そのままもう一度唇が重なって恐ろしく手際よく唇を抉じ開けられて、甘く冷たい液体が流れ込まれてきた。
「……ンむっ……」
 先程のワインと違って優しい味のそれは抵抗なく喉を滑り落ちて、思わず目を閉じてしまう。
(……んか、やっべー……)
 そのまま頬を包み込む様に掌で顎を固定され、舌を誘い出されて甘くねっとりとねぶられた。
 擽ったいようなゾクゾクするような感覚に背中が震える。
「んぅっ……ふッ…」
(…………ウソ、何今の音!?)
 息を詰めた拍子にヘンな音が漏れて狼狽える。
「………やっぱり温いと甘味が強すぎるかな。冷たい方が美味しいね」
「……っは……」
 長い時間をかけて唇が離れて、葛馬は平然とそんなことを言う男を僅かに潤んだ眼で睨み上げた。
「………にも、しないんじゃなかったのかよっ!」
「……キスだけだよ」
 大丈夫、と言うようにいつもと同じ緩く優しい腕で抱きこまれて、けれど、焦る。
(…………つーかそれだけじゃすまなくなりそーなんスけどッ!!)
 初めての官能的なキスに何だか落ち着かなくて、あちこちもぞもぞする。
「っも、いつもと違っ……」
「………そろそろこのぐらいは、ね」
 ちゅ、と音を立てて唇が離れてこめかみに、目尻に柔らかな唇が落ちる。
 すぐにもう一度唇が重ねられて、口腔に熱く滑ったものが滑り込んできた。
「んぅッ……」
 隙間がないぐらい、ぴったりと唇が塞がれて息が苦しい。
 熱くて少しざらっとしたモノが上顎や舌の付け根を確かめるようになぞって行く。
「…………鼻で息、するんだよ」
「………ふっ、ぅん」
 重ね直す合間に囁かれて、けれど焦れば焦るほど上手く酸素が吸えない。
 頬が、耳が熱くて頭がぐらぐら揺れて、かくんと後ろに仰け反りかけたところを掌で後頭部を支えられた。
「……大丈夫?」
「…………っ、ぁ……うん……」
(………ぁれ……何だコレ、回るの早くね?)
 缶チューハイなら平気で2、3本はいける。
 量的にはまだ精々グラス半分程度の量しか飲んでいないはずだ。
(……………酔う量じゃねーだろ、オイ……)
 スピット・ファイアの口にしていたワインはビールや缶チューハイの2倍、下手をすると3倍近いアルコール度数を誇る重めのもので。
 それもあって、向かないと言ったのだが葛馬はそんなことを知るよしもない。
 酔ったのはおそらくその所為だけという訳でもないのだろうけれど、それを認めるのは悔しかった。
「………はぁッ……ぁ……!?」
 どこか甘く掠れた様な吐息が漏れて、目を瞬く。
(……ヤッべ、なんだこれっ! つーか今の俺の声か!?)
「………熱い?」
 頬を包み込む掌が、いつもは温かく感じるのに今は少し冷たく感じて心地いい。
「……ぅん……何かすげー、ッちぃー……」
 酔った、カモ、と頼りな気な口調で呟き、借り物の所為でただでさえ大き目の襟ぐりに指を入れてぱたぱたと扇ぐ仕草にスピット・ファイアは苦笑いを浮かべた。
(……………何もしないとはいったけどね)
 無意識なのだろう、扇情的といってもいい仕草だ。
 反面、その幼さに少し複雑な気分にもなる。
 無駄な脂肪のない薄い喉元には鎖骨がくっきり浮いていて、無造作に捲くられたパジャマの袖や裾から覗く細い手足はいかにも成長途中であまりに細く頼りない。
(…………軽く犯罪者の気分だな)
 一応、十三以下でなければ真剣な付き合いを重ねて同意の上での行為であれば犯罪ではないらしい、が。
「………っと……」
「……んー……」
 ことんと前のめりになって倒れ込んでくるのを支えて顔を覗き込む。
「………少し酔っちゃったかな?」
「……って、ねーよ」
 手を伸ばしてくしゃりと柔らかな髪を後ろに髪を掻き上げてやると口では不満気な声を上げながらも擽ったそうに眼を細める仕草が可愛かった。
 言葉とは裏腹に酔いが回ってきているのだろう、常よりも幼く無防備に見える。
(……………やべ、眠い……)
 とろりと瞼が重たくて、開けていられなくて、葛馬はそれを閉じかけては慌てて開くどこか子供じみた仕草を繰り返す。
「…………っ……」
「………眠っていいよ、運んで上げるから」
 それに気付いたのだろう、ふわりと背中腕が回されて、低く甘い声が耳元に落ちた。
 柔らかな仕草に身体の力が抜けて、引き寄せられるままに相手の肩に額を寄せ、葛馬は重力に逆らわずにゆっくりと瞼を閉じる。
(……………甘い、匂いがする……)
 視界が閉ざされると途端に違う感覚が鮮明になって、ふっと鼻先に甘く濃厚なワインの香りが香った。
(………この匂いは、好き、カモ……)
 ぼんやりとそんなことを考えながら、葛馬は浮遊感にも似た酩酊にゆっくりと意識を手放していった。
「…………ちょっと苛めすぎたかな」
 きっともう、聞こえてはいないだろう。
 腕の中で目を閉じて、少しずつ温かく重くなっていく身体を見下ろして苦笑交じりに呟く。
 さらさらの髪を緩く指で梳くその口元は、けれど幸せそうに弛んでいた。

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 この男は多分ムッツリです(ぇ。
 不思議ですネ、こう言うのをじっくり書くと長くなっちゃいますヨ(帰れ)。

2007.05.16

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