「……ぶぇっくしゅッ」
 鼻がむずむずする、と思った次の瞬間にはもうくしゃみが飛び出していた。
「う゛ぇー……」
 慌ててポケットティッシュを取り出して鼻を押さえれば奇妙に潰れた声が漏れる。
「カズ様風邪ですかぁ?」
「ぁ、や、昨日ちょっと湯冷めしちまって……っくしゅッ」
 耳聡くその音を聞きつけて駆け寄ってくるエミリに何でもないと手を振ろうとしたら、またくしゃみに遮られて。
「……ホントに風邪でもひいたかい?」
「んとに何でもねーよ、ちょっと鼻の調子が悪いだけだって」
 立て続けのそれにブッチャまで心配そうな視線を寄越してきて、内心複雑な心境で葛馬は苦笑を浮かべて見せた。
(…………ったく、子供かっつーの)
 風呂で遊んでて湯冷めしました、なんて言える訳がない。
 一人で風呂遊びなんて変だし、じゃあ誰とと聞かれればますます不味いことになる。
 昨日はあの後、子供みたいに風呂場で遊んでしまった二人だった。
 背中の流しっこに始まって、頭を洗ってもらったり、湯の中で悲鳴を上げながらマッサージされたり、挙句の果てには風呂場で遊んだことなどないというスピット・ファイアにタオルで水風船を作るやり方だったり、指で水鉄砲を作るやり方だったりを教えたり……。
 年上で、オトナで、ATだって特Aクラスなスピット・ファイアに何か教えるなんて機会滅多にある訳でもなく、何だか妙に嬉しくなってしまってテンション上がり気味で……騒いだのも不味かったのかも知れない。
 もうすぐ初夏で、昼間はそうでもないが夜はまだそれなりに冷える。
 朝起きたら鼻の調子が少し……否、相当悪くて若干風邪気味だ。
(ハナミズが……)
 ぐすっと鼻を鳴らして、今朝マンションを出る時小さなくしゃみをしていた男のことを思った。
(……アイツ、大丈夫かな……)
 オトナな彼は当然の如く今日も仕事のはずだ。
 葛馬の様に派手なくしゃみを撒き散らすところは想像できないが……何と言っても客商売だ。
 完璧主義の彼がハサミを持ったままくしゃみ、なんてヘマをする訳がないし自分が心配することではないとは思うけれど。
 でも彼の体調不良は自分の所為でもあるから考えずには居られないわけで……。
「誰かが噂してるんじゃないの〜? 例えばぁ〜……」
 唐突に耳に飛び込んできた少女めいた高い声に沈みかけていた思考を引き戻されて、葛馬ははっと顔を上げた。
「……ちょ、黙れ亜紀人!」
 彼が誰のことを言いたいのか、何となくわかってしまって慌てて声を荒げる。
「ふ〜ん。そんな態度とっていいのかな〜?」
 ――――――― けれど。
 にやにやとしたり顔で笑う亜紀人に、悲しいかな葛馬は有効な反撃の術を持たなかった。
(くそー、いつか覚えてろよ……)
 何ができるわけでもなく、するつもりもないのだが、思うぐらいは許されると思う。
(……多分)
 それさえも察して報復してきそうなのが見た目だけなら美少女の小鮫の怖いところなのだが。
「どこのどいつがアタシの許可なく!!」
「あ、安達?」
「……って、あぁ、いえいえその、仕方ないですよねー、カズ様最近ますますそのっ……あのっ」
 肉食獣にも似た太い声は一瞬で乙女のそれに変わり……ブッチャがもの言いた気な、複雑な視線を送る。
「何をくだらないことをやってるんですか、時間は有限なのです。まだ予定の半分も進んでませんよ」
 それにいつまで騒いでいるのかとアイオーンが不機嫌そうな声を上げる。
 ……平和な、いつもの練習風景だった。


「……くしゅっ」
「あれぇ、スピ君風邪?」
「ちょっと湯冷めしちゃったかなぁ……」
 砂糖菓子を思わせる甘い声に問われて、スピット・ファイアは自身の鼻を押さえてうーんと小さく思案するような唸り声を上げた。
「珍しいね〜」
 昨日は少し、はしゃぎすぎたかもしれない。
 クスクスと笑う妹分にそうだねと緩い笑みを返し、そう言えばと口を開きかけたところで。
「……いい気なものですね」
 嘲る様な独特の色合いを含んだ冷えた声が振ってきた。
「………やぁ、左君。久し振りだね」
 意図せずとも口元に笑みが上った……懐かしさと、堪え切れない苦笑の入り混じった複雑な笑みが。
 それを常の穏やかなものへと掏り変えて、声の方を見上げる。
 彼は病院の屋上の、高いフェンスの上に佇んでいた。
 白い独特の形をしたジャケットの裾が夜風にはためいて、ふとまだ彼の髪が長かった頃のことを思い出した。
(やっぱり邪魔だったのかなぁ……綺麗な髪だったのに)
 嘗ての彼は髪を長く伸ばしていて、それは女の子が羨むぐらいの見事なストレートだった。
(そう言えば女の子に間違われてぶち切れたこともあったっけ……)
 あの頃はまだどこもかしこも細くて、後から見れば女の子に見えなくもなくて。
 早まった少々軽率な男達が痛い目を見ることもあった。
(ホントに毛を逆立てた猫みたいだったよねぇ……)
 けれど本質的なところはあまり変わっていないのだろうなと思う。
 己の不機嫌さを隠すしたたかさのない子供のままで……或いはそれを隠さぬことで、唯々諾々と従っている訳ではないと主張しているのかもしれないが……けれど、慇懃さでそれを粉飾する術を身に着けた。
(こなれはしたかな……)
 その幼さを好ましく思う程度には、年を食っている。
 ………言葉に表すことのないあからさまな主張に気付かぬ振りの出来る程度にも。
(僕はズルい大人だから……気付いてなんかあげないよ)
 自嘲にも似た笑みを刷いて、スピット・ファイアは視線を落とした。
「お望み通り、左くんも呼んでおいたけど……」
 これで良かったのかと視線で問うシムカに、こちらは掛け値なしの本物の笑みを向ける。
「うん、ありがとう。そろそろ子烏丸の仕上がりの進行状況を聞いておきたいと思ってね。黒炎君やベンケイからも報告は受けてるけど……左君が一番知ってると思って」
「直接見に行ったらええやんけ」
 続いて現れたらしいヨシツネの声に振り向いてヨシツネを、ついでに反対側のフェンスの上に鵺とベンケイの姿を見つける。
 どうやら予定していたメンバーが揃ったようだ。
「まぁ、時々遠くから見たりはしてるんだけどね。やっぱり子供だからムラがあるし……毎日見てる左君とベンケイに話を聞いておきたくて」
 スピット・ファイアはそう言ってにこりと微笑んだ。
 シムカやヨシツネに向けた言葉は嘘ではない。
 ついでに左に少々接触しようと思っただけのことだ。
「黄色いヒヨコについてのことなら、私より貴方の方が詳しいのではありませんか?」
「…………誰に聞いたのかな」
 ジャッと小さな音を立てて降りてきた左の冷ややかな声音に、苦笑交じりの嘆息を落とす。
「……否定なさらないんですね」
 光を反射して向こうの見えない硝子の奥で、薄い色の瞳が鋭さを増したように見えた。
「シムカ達は知ってるしね、今更隠そうとしても……無駄なんだろう?」
 はっきりと言葉にすることはせずに、けれど否定することもない。
 それが真実である以上……そして彼がそれを確信している以上、否定したところで意味はないと思ったし、何より否定したくはなかった。
「では、私がここに来たことは無駄では?」
「……カズ君のことならね、多少見ているつもりではいるけど。他の子達についてはあまり知らないからね」
 わざと弱った様に笑って見せれば……ずるい大人の自覚はあったけれど……左は嫌そうに眉を顰めて。
 けれど納得したのかそれ以上不満を口にすることはなく、指先で眼鏡を押し上げてそれきり表情を消してしまった。
(………ポーカーフェイスは上手くなった、かな)
 そんな風に言えば、きっと嫌がるのだろうけれど。


 多少の思惑を含んで、けれど会合は滞りなく進んで行った。
 これからの方向性、子烏丸のガード状況と今後のスケジュール、確認することは幾つもある。
 最後に今後の彼らの育成方法について多少の意見を交わし……会合は終わった。
「左君」
「……なんですか?」
 さっさと退散を決め込もうとする左の背中に声をかければ、嫌そうな顔をして。
 けれど律儀に足を止めるところが彼らしいと思う。
(さて、どう切り出したものかな……)
 葛馬と自分がそれなりの関係にあるということは既に知っているようだが、もう一つの方はどうなのか。
 悟られずに確認したいところだが、左はスピット・ファイアとの付き合いも長いし勘もいい。
 下手なことを言えば藪を突いて蛇を出すことになりかねない。
「……用がないなら帰ります。私は貴方ほど暇ではないので」
 どうしたものかと思案していたら、厭味を含んだ台詞が帰ってきて。
「僕だって暇って訳じゃ……っ、くしゅっ」
 思わず苦笑を浮かべたところで、気が抜けたのか会合中はどうにか収まっていてくれたくしゃみが漏れた。
「と、ごめんね。昨日ちょっと湯冷めしちゃったみたいで……」
 止まり切らずに何度か立て続けにくしゃみを重ねて、頭を掻きながら誤魔化すように笑ってみせる。
「……大方可愛いヒヨコと風呂場でちちくりあってたんでしょう」
 呆れたような顔をするだろうと想像してはいたけれど。
 薄い唇から漏れたのは予想外の台詞で。
「…………左君、超能力者?」
 思わずそんな間の抜けた台詞が口を突いて出た。
「……随分と仲のいいことですね。貴方の大事なヒヨコも同じ様に鼻を啜っていましたよ」
 大事な、のところに微妙なアクセントを置いて。
 眼鏡のブリッジを指先で押し上げて、左は冷ややかに口端を持ち上げた。
「少し頭を働かせればわかることですよ」
 幾つかの符号を組み合わせれば、簡単に浮き出る答えだと。
「……言っておくけど、やましいことはしてないよ?」
 黒炎によくするように、ほんの少し作為を……甘えた音を混ぜて小首を傾げる。
 何だかんだで自分に甘い腹心は、誤魔化されていることがわかっていながらも『仕方がないですね』と諦めてくれるのだけれど。
「どうだか」
 嘗ては溜息を吐きながらも同じように許容してくれていた彼は、今度はそう言って見下すように鼻を鳴らした。

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 また一ヶ月以上開いてしまいました……orz。
 せめて月一で進めたいなと思う今日この頃です。
 あまり書いたことのない、対カズ君以外のスピとアイオーンメインだったので試行錯誤しながらの進みとなりました(苦笑。
 スピくしゃみしすぎかな……(笑。

2008.7.20

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