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  福岡県のあゆみ  
 
 

本日は、わが福岡県の歩んできた道を県知事や県議会のプロフィールなどを中心にお話をしたいと思います。

お手元の資料の「歴代福岡県知事」と「歴代福岡県議会議長」をご覧ください。
みなさんご承知のように、現職の県知事は麻生渡(あそうわたる)さん、現在三期目です。
 県議会の議長は、大野城市選出の井本宗司(いもとむねじ)さんです。知事は、初代から数えて五十四代目、議長は、初代から数えて五十六代目となっております。
 
 ちなみに、人数で見ますと、知事は初代の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)から現在の麻生知事まで四十三人、そのうち戦後の公選知事になってからは、六人。一番長く在任された方は亀井光(かめいひかる)知事の四期十六年、次は、前知事の奥田八二(おくだはちじ)さんで三期十二年で、麻生知事も三期目となりました。 戦後の公選知事に比べると戦前の官選知事は中央の意向で簡単に替えられていましたので、みなさん一様に任期が短い。
 中には、三十六代の曾我(そが)知事のように昭和二十年十月から翌年の一月までわずか三ヶ月という方もおられます。この頃は戦争直後の混乱期でいろいろ特殊な事情があったのかもしれません。
県議会議長につきましては、初代の中村耕介(なかむらこうすけ)議長から現在の井本宗司議長まで五十三人、こちらは知事とは逆に、戦後になってからは三十七人。戦前の方が就任期間は長いようです。

 明治以降の福岡県政の歩みを振り返ってみますと、 みなさんご存じのように、一八六八年に明治維新が起こり、それまで三百年続いた徳川時代が幕を閉じました。
 そして明治二年の版籍(はんせき)(領地と領民)奉還(ほうかん)で、一応封建的な組織はなくなったのですが、旧藩主がそのまま藩知事に横滑りをしており、形式的には政府任命の役人でありながら、昔ながらの殿様と領民の関係はそのままでした。
 これが明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)で、従来の殿様知事は全員東京に移住させられ、それぞれの土地に縁のない役人が県令(けんれい)として任命派遣されたことにより、それまで各地方に根を張っていた封建時代の人間関係もやっと断ち切られるようになりました。
 そして、中央政府の命令が全国隅々まで届くようになり、強力な中央集権体制の基礎ができあがったわけです。
 一般的には、廃藩置県によって任命された知事を初代として数えるのですが、福岡県だけは事情が違いました。
 廃藩置県の前年の明治三年に、福岡藩がにせ札づくりで摘発されるという事件が起こりました。そのころの福岡藩の財政は、幕末からの悪化に加えて、戊辰(ぼしん)戦争の戦費がかさみ、債務が巨額に達していました。その打開のために会計担当の役人が考えついたのがにせ札づくりです。このことが弾正台(だんじょうだい)(今の検察庁)の知るところとなり、当時の藩知事であった黒田長知(くろだながとも)は罷免され、藩知事に有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が任命されました。
 このため、廃藩置県になっても全国で唯一藩知事が留任するという特例が生まれたわけです。
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という方は宮様でありまして、明治初年に維新の夜明けを迎えたばかりの多事多難な新政府の中で、最高責任者の「総裁」の職につかれ、右大臣(うだいじん)(後の太政大臣(だじょうだいじん))の三条実美(さんじょうさねとみ)卿と共に十代の幼い天皇を助けられ、新時代建設に貢献された方です。
 また、維新の戦争では、東征大総督(とうせいだいそうとく)として官軍の指揮を執られた朝廷第一の実力者でした。
 新政府がこのような維新第一の大物の宮様を特に福岡県知事に任命されたのは、福岡の地を重視されたこともあると思いますが、当時、鹿児島を中心にわき起こっていた不平士族の動きをけん制する意味もあったのではないかという人もおります。
 県知事はその後県令(けんれい)と名前を変え、明治五年四月に、有栖川宮がやめた後、一時県令は空白になっておりましたが、翌年七月に立木兼善(たちきかねよし)が県令に任命され、八代目の安場保和(やすばやすかず)の頃に県知事の官職名が復活しております。
 ちなみに、有栖川宮(ありすがわみや)知事の頃の県庁は福岡城内に置かれていましたが、明治九年に福岡天神町に庁舎を新築し、さらに大正四年に天神に新庁舎が建設され、昭和五十六年に現在の新庁舎へと至っております。
 廃藩置県当時の福岡県は、筑前が福岡、秋月の二藩、筑後は柳川、三池、久留米の三藩、豊前は中津、豊津、千束(ちづか)の三藩、計八藩に分かれておりました。
 廃藩置県の号令で、筑前二藩は福岡県、筑後三藩は三潴(みずま)県、豊前は小倉県になり、しばらくは三県体制が続きました。その後、県の合併が進められ、明治九年に小倉県と三潴県が福岡県に吸収され、今の福岡県の姿ができあがりました。
 以後、長い間官選知事の時代が続きますが、終戦後は、明治以来長年にわたった中央集権的体制と官僚の支配を脱却する動きが地方自治にも及び、新しい地方自治法が公布された昭和二十二年四月には、第一回の統一地方選挙が行われました。 
 福岡県知事選に立候補したのは三人、有権者は一六三万人余り、投票率は六六%、敗戦直後としてはまずまずの率だと思います。
 初の公選知事に当選したのは、社会党の杉本勝次(すぎもとかつじ)さん。その後、知事は土屋香鹿(つちやかろく)さん、鵜崎多一(うざきたいち)さん、亀井光(かめいひかる)さん 、奥田八二(おくだはちじ)さん、そして現在の麻生渡(あそうわたる)さんへと引き継がれております。

 次に、県議会の方に目を向けてみますと、第一回の県議会選挙が行われたのは、明治十一年。自由民権運動の高まりの中に、明治十一年七月、地方新三法といわれる、府県会規則、地方税規則、郡区町村編成法(ぐんくちょうそんへんせいほう)が施行され、十月には初の県議会選挙が郡区を単位に十九選挙区で行われました。
 議員総数五十六人、議員任期は四年でそのうち半数を二年ごとに改選することになっていました。
 被選挙権は、二十五歳以上の男子で三年以上県内に居住、地租(ちそ)十円以上の納入者、選挙権のある者は二十歳以上の男子で地租(ちそ)五円以上の納入者でした。
 選ばれた議員は各地方のお歴々ばかりで、議員の手当は今のような歳費ではなく日当制で六十銭、旅館一泊が二十五銭の時代ですから、今より値打ちがあったかもしれません。
 こうして、明治十二年三月、第一回福岡県会が開かれました。初代議長には福岡市鳥飼(とりかい)出身の中村耕介(なかむらこうすけ)さんが選ばれました。
 その当時の記録を見ますと、「議場には、初の選挙で選ばれた八の字ひげの議員さんが正装して着席、各課長は礼服で雛壇(ひなだん)に並ぶ。傍聴席も記念すべきこの一瞬を見ようと満員。やがて金ぴかの大礼服(たいれいふく)に身を包んだ県令(けんれい)渡辺清(わたなべきよし)が書記官を従えて入場。一同起立、敬礼して迎える。
 中央壇上に進んだ県令は、重々しい口調で県会開設の意義を一席。議員諸氏は謹んで県令閣下の演説をうけたまわる。」
 このような光景だったそうです。
 政府任命の知事や県令が旧幕府時代の殿様に変わり独裁者として君臨(くんりん)していた時代から、まがりなりにも公選の議員が県民を代表して県政に参画(さんかく)することになったのですから、大きな変わり様です。
 このように初県会は、形の上では輝かしい地方自治の幕開けでありましたが、内容は極めて権限の弱いものでした。
 府県会規則によれば、府県会の権限は地方税で支弁(しべん)する経費及び徴税方法の議決に限られ、議案は全て知事が提出し、知事は会議の中止権を持ち、内務卿(ないむきょう)は府県会の解散権を持つ。県会がどんな議決をしても、県令が必要と認めれば、これと関係なく執行部案を通せるという、審議権無視の権限をもっていました。 初県会で成立した予算は四十万円弱、福岡県の平成十五年の予算一兆五千億円に比べるとまさに隔世(かくせい)の感があります。
 福岡県は今でこそ、九州を代表する雄県(ゆうけん)ですが、当時の予算規模や県勢は大分、佐賀と変わりなく、熊本や長崎からは後進県扱いをされていたようです。

 その後、議会制度も徐々に改められ、明治三十二年には、議員の半数改選を廃止し、議会の権限は拡充され、議決機関としての整備も進められました。
 大正十五年には、普通選挙実施のための選挙権、被選挙権の制限撤廃が行われ、昭和二年には、最初の普通選挙による県会議員選挙が行われました。
 その後、日本が戦争への道へ突入していくようになると、県会の政党は解消し、議会の権限は制限されましたが、戦後、昭和二十二年四月に地方自治法が施行され、住民自治に立った地方議会は議決権や調査権が大幅に拡充されるようになりました。
 戦後、新しい地方自治制度のもとで初めての県議会議員選挙が行われて以降、今日(こんにち)まで十五回の選挙が行われております。
 県議会議員の数も、昭和二十二年の七十三人から、人口の増加などと相まって九十一人まで増員されましたが、現在は四十七の選挙区から八十八人の議員が選出されております。
 この五十年余りの間に選出された議員数は、延べ千二百九十八人にのぼりますが、その中には何期も当選されている方も多く、実際の人数では四百五十一人になります。
 現職の県議会議員さんの中には、十一期四十年以上の長きにわたり活躍してこられた方もおられますし、五期以上の方も二十人おられます。

 我が国も平成七年に地方分権法(ちほうぶんけんほう)が施行され、本格的な「地方の時代」が実行段階を迎えております。従来は、地方は国に「頭と金」を握られておりましたが、これからは、それぞれの自治体が知恵を絞って、その地域に最もふさわしい施策を進めていくことになります。
 明治以降の強大な中央集権体制に比べると、地方の自治権は飛躍的に拡大してまいりましたが、そのことは、一方で、地方自治体や地方議会の責任も、また大きくなるということであります。
近年(きんねん)は、人口の少子高齢化や情報化など社会の変化が激しくなるなかで、県民のみなさんのニーズも多様化しており、県や市町村の果たすべき役割はますます大きく、複雑なものになっております。
 私も、早いもので四期十二年近く、県議会議員として県政に参画させていただいておりますが、県民に推挙(すいきょ)していただいた議員の一人として、その職責の重さを十分に認識して、戦後の福岡県の発展に貢献されてこられた四百人近くの諸先輩の功績を汚すことのないように、県民のみなさんの負託(ふたく)に応えてまいりたいと考えております。

 本日は、県及び県議会を中心に、明治以降の福岡県の歩みをお話しさせていただきました。
 とりとめのない話で恐縮ですが、これを機会に、皆様方がより一層福岡県や福岡県議会に関心を持っていただければ幸いです。

 ご清聴ありがとうございます。

 



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