TeaParty ~紅茶のお茶会~

『世紀末のお茶会』

「優しい声5」15555Hit ぶりぶりさまへ♪

 誰かを呼んでいる。
 視線のその先に後姿が見える。
 呼んでも呼んでも振り返らない人影。
 近寄ろうと歩いても同じ速度で離れる人影。
 声が届いていないのか聞こえていないのか。
 それとも呼んでいる名前はその人のものではないのか。
 後姿でさえ見間違えるはずはない。
 ましてや呼び間違えるはずなんて絶対にない。
 それでもその人は振り返ってくれない。
 その顔を見せてくれない。

「――――!」
 誰かの名前を叫んだ声で、不意に目覚めは訪れた。
 何かを掴もうとするかのように伸ばされた手と部屋の天井が目に映り、高杉はそれが夢だったと気付いた。
「僕は…」
 目覚めと同時に、夢の内容もその叫んだ名前もすっかり忘れてしまっていた。けれど誰かを呼んでいたような記憶だけがある。
 そして今、自分が心から呼びたい人の名前はひとつしかないことも高杉にはわかっていた。
「緒方君」
『はいはーい』
 つぶやいた高杉の声に、脳裏に浮かぶ緒方が明るく返事を返した。
「緒方君…」
『…はい?』
 もう一度つぶやくと、一拍置いて、少し不思議そうな緒方の返事が返ってきた。それは記憶を失ってしまった緒方の返事だった。
 名前を呼んでも一瞬の間があるのは、本人がその名前であるという自覚がないからだと分かっている。けれど不思議そうに見つめるその視線が、高杉を無性に悲しくさせた。その視線に、『知らない』と言われているような気がした。
 それでも緒方は高杉に笑顔を見せてくれるし、普通に話してくれる。それが救いでもあった。
 思わずといったようにこぼれた小さなため息をついて、高杉はベッドから降り、着替えを済ませて部屋を出た。
“コンコン”
 そしてそのまま緒方の部屋へと向かい、そのドアをノックした。
『はいはーい』
 中からそんな明るい声が聞こえ、高杉の頬は自然と緩んだ。
「おはよう、緒方君」
 出てきた緒方に、高杉は微笑を向けた。
 ドアを開けた瞬間、そこには優しい笑顔の高杉が立っていて、緒方はなぜかドキドキする自分を感じていた。そして何かを思い出しかける。こんな朝のひとときを知っているような気がした。
「お、おはよう、ございます」
 焦ったように返した言葉が変なところで詰まってしまい、緒方はそれ以上に焦ってしまった。
「どうしたんだい?」
 そんな緒方の、少し違う反応を高杉が見逃すはずがない。
 覗きこむように見つめてくる高杉の視線が、今の緒方には耐えられなかった。
 昨日の夜にも感じた嬉しいような恥ずかしいようなその視線に、心の奥の奥のほうで何かが叫んでいるような気がした。高鳴る鼓動が、その気持ちを気付かせようとしている。
 この気持ちはなんだろう…。
 声には出さず、緒方は心の中で思った。それがなんとなくわかるような気がして、でもそれがあっている確信が持てなくて何も言葉が出てこなかった。
 急に黙り込んでしまった緒方に、高杉は圧し掛かるような不安感に襲われた。
 ドアの向こうから聞こえた緒方の返事は明るかったのに、自分の顔を見たとたんにその明るさが消えてしまったように思えた。
 何かを考えるような、不安そうな、そしてまるで何かを疑っているかのように見えた眼差しが辛い。
「緒方君…」
 そんな気持ちを振り払いたくて、高杉はゆっくりと緒方の名を呼んだ。
「――――」
 その声に返事を返そうと思って、緒方はハッとした。
 言おうと思った言葉が、なぜか出てこない。こう返すべき、という言葉が思い出せない。
 なくしてしまったものは記憶なんかじゃなくて、もっと大事なものだ。
 そう気付いても、やっぱり返す言葉が見つからなくて緒方は必死にそれを探した。
「緒方君?」
 何かを言うために開いたであろう緒方の口が、何の言葉も紡がないまま中途半端に閉じられていくのを見ながら、高杉はもう一度その名を呼んでいた。
 高杉も、なんと言っていいのかわからず、ただその名前を呼ぶことくらいしか思い付かなかった。
 けれどそれに対して緒方の返事はなく、何かを考えるように揺れる視線は高杉を捕らえることがない。
 そういえばそんな夢だった。
 高杉の心に、不意に忘れてしまったと思った夢が蘇ってきた。
 呼んでも呼んでも返事のないあの後姿は、緒方だったのだと気付く。今は後姿ではないけれど、どちらにしても自分を見ていない。
 こんなにも近くにいるのに、手を伸ばせば触れることができるのに、それなのに、遠い。
 緒方は思い出せない言葉を捜し、高杉はその言葉を待つ。
 ドアの前、立ったままの二人の間には沈黙だけが横たわっていた。その沈黙を破るための言葉がどちらの口から出ることもなく、ただ思考の海へと沈んでいく。
 とりあえず、と、その場からは移動をしたものの、相変わらず何かを考えるような二人には会話らしい会話がなかった。
 そんな状態のまま高杉は仕事へと出掛け、緒方はまた一人、部屋で過ごすことになった。


 誰かに呼ばれたような気がする。
 振り返るとぼんやりとした人影が見える。
 顔が分からないけれど確かにその口が動いている。
 呼ばれてるんだと思い傍に行こうとするのに体が動かない。
 人影はずっと名前を呼んでいる。
 でも傍に行かれない。
 その呼び声に答えることができたなら。
 せめて――――ができたなら…。

 緒方が目を開けると、薄ぼんやりとした視界の中に自分の手だけが見えた。
「ゅ…っ」
 何かを口に出そうとして、でもそれが言葉になる前にぐっと堪えて口を噤んだ。
 声にした途端に、消えてしまいそうな気がした。消えてしまったら取り戻せないような気がした。
 夢をみていた。
 だから緒方は心の中でそう思った。
 そして今までみていた夢をゆっくりと辿る。口に出さなかったおかげなのか、夢はちゃんと思い出すことができた。
 けれど自分を呼んでいた声が思い出せない。その声に、何をしようとしたのかが思い出せない。
「今朝と同じだ…」
 高杉とのやり取りが、今までみていた夢と同じだったように思えた。 
「たぶん簡単なことなんだよなぁ…」
 そう思うのに、思い出せない。一日中、ずっと考えていたのに見つけられない。
 考えなくても出てくるはずの言葉が、どうしても出てこない。

 部屋の中は薄暗く、窓から差し込んでいたと思った日差しはすでになく、隣家の灯りがうっすらと部屋を照らしていた。
 いつの間にか寝てしまったことに気付いた緒方は、起き上がって電気を付けた。暗闇に慣れていた目にその灯りは眩し過ぎて、一瞬、目の前が真っ白になった。
 まるでペンキで塗りつぶしたような白さ。その白さには見覚えがあった。
「こんな風に、消えてしまったんだ…」
 自分の記憶も、大事なものも、何もかも。
 そう思って、沈んでいきそうになる気持ちを遮るように、玄関から鍵の開く音が聞こえた。
 昨日は出迎えられなかったと思い、緒方へ玄関へと向かった。
「ただいま」
 ドアを開けた瞬間、そこに緒方の姿を見つけて高杉はほっとしたような気がした。
 昨日のように、まるで誰もいないかのような部屋に帰るのは正直、辛いと思っていた。だから、緒方が出迎えてくれたことが、たったそれだけのことが嬉しかった。
「おかえりなさい、――っ」
 高杉の、その笑顔に釣られるように笑顔で出迎えた緒方の表情が、言葉を発した途端、急に変わった。
 何かを思い出したような、驚いたような、そんな表情で高杉を見つめている。
「緒方君?」
 それはまるで今朝のやり取りの繰り返しのようで、高杉の表情からも笑顔が消えていく。
 どうすこともできない自分がもどかしくて、けれど今朝のように何もできないまま緒方の傍から離れてしまうことはしたくなくて。
「緒方君…」
 忘れてしまった緒方の記憶に、もう一度自分を刻み付けたくて。
「緒方君…」
 もう一度、自分のことを思い出してほしくて。
「耕作…!」
 高杉は手を伸ばし、その腕の中に緒方をしっかりと抱きしめた。



2008.10.8
そして1年ぶりの更新です。
やっと、とうとう、ここまできました!!