TeaParty ~紅茶のお茶会~

『世紀末のお茶会』

「優しい声2」15555Hit ぶりぶりさまへ♪

 そして次の日。目を覚ました緒方にやっぱり記憶は戻っていなかった。起こすために部屋に出向いた高杉は緒方に気付かれないよう、小さくため息を落としてしまった。
 緒方が目を覚ましたのは一昨日。検査をして帰ってきたのは昨日。今日で3日目。もう3日であり、まだ3日でもあった。
 心の中に物足りなさを抱えたまま、それでも新しい一日は始まるのだった。

 記憶のない緒方を一人にするのも気が引けたのだが、だからといって何日も休みを取ることができずに、高杉はその日、会社へと出掛けて行った。
「早めに帰ってくるから」
 高杉に言えたのはその言葉だけ。その言葉すら休んでいた間に溜まった仕事を考えると容易ではない。
「大丈夫ですよ」
 少し心細く思いながらも、引き止めることはできずに緒方は高杉のことを見送った。
 心配を掛けまいとするかのような緒方の言葉とその表情はいつもと変わりなくて、高杉は改めて緒方の優しさを感じていた。こんな風に記憶をなくしていたって変わっていない。何もかも。
 抱きしめたい衝動を、とりあえず今は抑え、高杉は見送る緒方に笑顔を向けた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 緒方は高杉の後姿を見えなくなるまでずっと見つめていた。なぜかは緒方には分からなかったけれど、とにかく見つめていたいと思っていた。

 今までどおりの日常を過ごすために退院してきたとはいえ、仕事復帰はさすがにできない緒方は日がな一日、家の中を探検する事で過ごしていた。今は覚えていないその家の細かな事を覚えるためと、少しでも何か気付く事を探し出すためだった。
 玄関、リビング、キッチン、自分の部屋、トイレもお風呂場もくまなく歩き回って、くまなく見つめて、一生懸命に何かないかと探していた。
 本当なら毎日をなんでもなく過ごしていたはずの家。どこに何があって、自分のお気に入りの場所はどこで、そんな生活があったことを緒方は全然覚えていない。どんなに歩き回っても、見つめても、思い出せない。
 けれど緒方は不思議な事に気が付いた。当たり前のようにも思えて、だけど何かが気になって緒方の心に残ったのだ。
 それはおそろいのものが多いという事。どう考えても趣味が違うようなものがそこかしこに点在している部屋の中で、それでも肝心なところで綺麗に同じものがふたつ並んでいたりする。それが緒方になんとなく不思議な印象を与えたのだった。
 そしてその全く趣味が違うものでさえも、とても自然に配置されているように思えて、緒方の不思議に思う気持ちは更に増した。
「でも…なんだか落ち着くかもしれない」
 記憶では覚えていなくてもきっと心が覚えているだ。緒方はそう思いながら色違いでおそろいのカップのひとつに手を伸ばした。

 仕事は忙しかったけれど高杉の頭の中を占めていたのは、家に一人残してきてしまった緒方の事ばかりだった。
 緒方から受ける印象はあまり変わらず、言葉を交わせば同じような返事や反応が返ってくる事が多い。それでもやっぱり足りないものを感じてしまうのは仕方のない事だった。
 物足りなさと淋しさと、抱きしめたくても叶わない切なさと、そんな自分勝手に近い感情に襲われる。
 そしてまだ二人が出逢ったばかりの頃の感情がふとよみがえる。今は傍に居るはずなのに、それなのに緒方を見ているだけで何もできない自分がいる。
 あんな思いなんてもうする事がないだろうと思っていた。あの時のもどかしさはもうすっかり取り戻したはずだった。
「僕には何ができる?」
 なくなってしまった緒方の記憶が少しでも早く戻って欲しいと願うのは簡単だけれど、叶うのは簡単なことではない。
 願う事なら誰にだって出来る。だから自分にしかできない事を高杉は探していた。自分には何ができるだろうか、自分は何をするべきなのだろうか。
 高杉は自問自答を繰り返しながらこなさなければならない仕事を進めていく。少しでも早く緒方の元に帰るために、緒方を不安の中で一人にしないために、今できる最初の事だった。

 自分の部屋だと教えてもらったその部屋に居るよりもリビングに居る方がなんとなく落ち着けるような気がして、緒方はカップを握りしめたままソファの上で少しだけまどろんでいた。
 考えなければいけないことが多過ぎて精神的に疲れていたのかもしれない。
 気持ちにあせりはあまり感じられなかったけれど、だけど思い出したいと思う。何をしていても物足りなくて、なんだか満たされない思いだけが残る。
 何が足りないのだろうと緒方はずっと考えていた。
 考えてみれば自分は記憶の全てが足りないのだけれど、それ以外に、それ以上に足りないものがあるように思えた。大切な大切な、決して忘れてはいけなかった何かを自分はすっかり忘れてしまったような気がする。
 何よりも一番な、何かを。そう思うとなんだか心が痛かった。
 そしてそんな自分を少し淋しそうに見つめる高杉のまなざしを思い出して、緒方はその痛みが増したように思えた。
 この家に帰ってきてから高杉は緒方にずっと笑顔を向けていた。緒方にとってそれはすごく安心する事に思えた。優しくて、本当に優しくてすごく嬉しかった。だからこそ、そんな笑顔の中に時折見せる淋しそうな表情は、忘れてしまった自分よりも少し辛そうに見えた。
 緒方は高杉の表情の一つ一つを見逃さないように見つめていた。その表情の中に、なくしてしまった何かを探し出そうとしていた。足りない何かの手ががりに、緒方は無意識に高杉の表情を選んでいたのだ。
 その高杉はまだ帰ってこない。
 一人で待つこの時間を、以前の自分はどんな風に過ごしていたのだろうか。
 緒方は高杉の帰りを待ちわびながら、疲れに任せて眠ってしまった。

 緒方が自分なりの手探りを始めた頃、高杉は高杉なりに色々と考え、そしてひとつだけ結論を出していた。
 特別な事は何もしない、と高杉は決めた。軽く考えて出した答えではない。諦めから出した結論でもない。もどかしい思いの中、だけど今、自分が緒方に対して変に意識して接するよりも何もしない方がいいと思ったのだ。
 今までと同じように変わりなく、緒方を想う気持ちのまま話し、笑顔を向け、たわいのない会話、穏やかな日常、そんな些細な事を続けようと思った。
 なんで自分を忘れてしまったのかなんて責める気は全くない。忘れたのならば一からまた始めようと、そんな風には考えられなかったけれど、だから同じように緒方に接しようと高杉は決めたのだ。一からではなく、今までのところから。
 けれど高杉は緒方に二人の関係を話してはいなかった。
 二人の出逢いも、ずっと抱えてきたお互いへの想いも、同居に至った経緯も、何もかもを今の緒方はまだ知らない。
 高杉は一番に話そうとも思った。一番に、本当は知っていて欲しかった。二人が過ごしてきた日々を、今の緒方にはないその記憶を、いつだって二人で持っていたかった。
 けれど高杉はあえてその事を告げなかった。その事で緒方に焦りを感じて欲しくなかったし、ましてや負い目なんかは絶対に感じて欲しくなかった。二人が一緒に暮らしている事に何の疑問も持たず、当たり前のように受け入れていた緒方が、いつか気になって尋ねた時に話そうと、高杉はそう思った。
「記憶をなくしていたって緒方君が緒方君であることには何の変わりもないからね」
 それは高杉が今の緒方に告げたい本心からの言葉だった。

 その日、高杉が会社を後にしたのは定時の1時間後だった。いつも以上に速いペースで仕事を進め、残業を最小限に留めた。何となく仕事を頼みたげな上司をうまく振り切って高杉は足早に会社を後にした。
 高杉は何よりも今、緒方の元へと急いで帰りたいと思った。一人で残してきてしまった不安と後悔に似た感情、そして本心を言ってしまえば自分が緒方に逢いたくて仕方なかった。
 記憶を失った緒方を目の当たりにしてから、高杉は一時も安心して過ごせなかった。いや、それは緒方が高杉の腕の中に倒れこんできたあの瞬間からずっと続いている。
 緒方の記憶喪失の直接原因と思われる出来事。けれどまさか、記憶を失うほどだったとは思ってもいなかった。
「どうしてこんな事に…」
 思わず口を突いて出てしまう言葉は、だけど誰も答えなんか出せやしない。
 それよりも他にやるべき事があるだろうと、高杉は自分に言い聞かせた。考えたって解決するわけじゃない、悔やんだって取り戻せるわけじゃない。
 けれど心で分かっていても、はい、そうですかと簡単に納得できないのも心だ。それは好きな人だから尚更。誰よりも大切な人だから、失えない人だから…。だから高杉は緒方に一刻も早く逢いたいと思った。ただ無性に、緒方の顔を見たいと思った。それだけで救われるような気がした。そして救って欲しかった。
 早く早く、早く。高杉の足はいつも以上の速さで家へと向かっていた。

 その頃の緒方は、まだリビングのソファで眠ったままだった。
 その疲れはその時、ピークに達していたのかもしれない。記憶がない事、初めてのような生活、覚えなければいけないことの多さと、思い出したい気持ちと、その何もかもが緒方にいっぺんにのしかかっていた。
 夜もなんとなく寝付かれなかった。何か足りないような心細いような、そんなよく分からない気持ちがいっぱいで、だけどそれを誰にも言えなくて、ずっと一人で考えてしまい眠れなかった。結局そのうち寝てしまったけれど、けれど深い眠りは訪れなかった。
 病院で目覚めた時に感じた頭のすっきりとした白さは、今では霧か靄がかかったかのような変な不透明さに変わっていた。真っ白な世界が更に白く染められては何もかもが見えやしない。
 そんな状態の緒方は、高杉が帰って来るまで、そして帰って来てもまだ、眠り続けていた。



2001.11.23
また続いちゃいました^^;
それより何より話が進んでないし。
また別行動させてるし。また緒方君寝てるし…。
次回こそ…急展開?