『世紀末のお茶会』
「優しい声1」15555Hit ぶりぶりさまへ♪
―――――遠ざかる意識の中、遠くで声が聞こえた。―――――
頭の中がすっきりしている。
彼はそんな風に思った。
色で表すのなら、たぶん白。
壁に描かれた落書きをペンキで塗りつぶした後のような、そんな白さ。
何もかもが真っ白い世界。
頭の中が真っ白になっている。
彼はもう一度思った。
そのすっきりとした白い世界に何かが混ざったのを感じ、彼の意識はそちらに向けられた。
なんだろう?
誘われるままに手を伸ばし、そして…。
「緒方君!?」
ベッドに横たわる緒方が身じろぐように動いたのを見た高杉は、椅子から立ち上がってその名を呼んだ。
丸々一日、緒方はただずっと眠り続けていた。
このまま目を覚まさなかったら…。思わずそんな風に思ってしまうほど緒方は青白い顔をしている。けれどそんな緒方を見つめる高杉の顔色は、緒方よりも悪かったかもしれない。
そんな高杉が見守る中、緒方はゆっくりとまぶたを上げた。
「緒方君?」
呼びかける声が、安堵とまだ残る不安とで震える。
「・・・あ・・・」
そして目を開いた緒方の視界には白い天井と、心配そうに見つめる人の姿が入ってきた。そのまなざしが自分に向けられている事は緒方にも分かった。そしてその優しそうで格好の良い目の前の人に見つめられているだけで、なんだか嬉しく思う自分も感じていた。
「どこか痛いとか、気持ち悪いとか、何か変なところは無いかい?」
真っ直ぐに緒方を見つめたまま、高杉は緒方の具合を確かめるように尋ねた。ずっと目を覚まさなかったのだ。高杉は心配で心配で仕方がない。
「いえ…大丈夫です」
しかし緒方は不思議に思いながらそう答えていた。今の自分はすっきりし過ぎているくらいの状態で、心配されるのがどうしてか分からなかった。それよりも何よりも、いまいち状況がつかめない。何故、自分がここで寝ていたのか、どうもよく分からない。
そう思いながら緒方はゆっくりと周りに目線を向けた。真っ白い天井、真っ白い壁、真っ白い枕とシーツ、そしてカーテン。とにかく白で統一されたその部屋は、どう考えても病院の一室に思えた。
「ここ、病院ですよね?」
たぶんそうであろうと思いながら緒方は尋ねた。自分の思考回路に、いまいち自信が持てない。
「そうだよ。…と、そうだ、先生を呼ばないといけない」
緒方の問いかけに答えながら、高杉は急に思い出して枕元に置いてある小さなボタンを押した。緒方が目覚めた事に気をとられ、すっかり忘れていた。
すぐに返ってきたスピーカーを通した女の人の声と交わされる会話を、緒方はただじっと聞いていた。
短い会話の後、程なくして白衣を着た医者と看護婦がその部屋を訪れた。
「具合はどうかな?」
そんな医者の質問から診察が始まる。
「検査結果は全て良好だったから大丈夫そうなら明日には帰れるよ」
診察のその最中に医者はそう緒方に告げた。
「良かった…」
その言葉に答えたのは高杉の方が先だった。ずっと心配していた高杉には、とにかく嬉しい言葉だった。
「良かったね、緒方君」
そして、高杉はやっと緒方に笑顔を向けた。それは本当に安心した高杉が見せた、本当に優しい微笑だった。
けれど、そんな高杉とは対照的に緒方はじっと考えるような表情をしていた。いつもならすぐに返ってくるであろう緒方の笑顔が返ってこない事が高杉の心を不安にさせた。起きたばかりでまだ寝ぼけているのだろうか。しかし高杉に考えられるのはそこまでだった。あまりにも不安にさらされ続けた高杉の心は、これ以上不安な思いをしたくなくて最悪の考えを無意識に意識の外へと追い出していた。けれど迫り来る不安に、高杉はゆっくりと緒方の名前を呼んだ。
「緒方君?」
そんな風に呼ばれる声の方に視線を動かしながら、緒方はふに落ちないものを感じていた。いくら考えても良く分からない。いくら考えても、答えが出ない。緒方はじっと、目の前の三人を見つめた。
「あの…」
そしてそう言って口を開いた緒方に三人の視線が集まる。
「たぶん勘違いとかそういうのじゃないと思うんですけど、ちょっと良く分からなくて。どうも記憶がさっぱりなくなっているみたいなんですけど…」
少し不思議そうに、けれど困った様子も全くなく、緒方はあっさりとそんな台詞を口に出した。
「…え?」
思わず緒方以外の三人の声が重なった。
「だから何も憶えてないんです。自分の事も、今までの事も、何もかも」
何故自分がここに居るのかとか、優しいまなざしで見つめそして声を掛けてくれた人の事とか、それに呼ばれた自分のものであろう名前さえも緒方は何も憶えていなかった。何も、分からなかった。
「緒方、君?」
高杉はそんな緒方に恐る恐る声を掛けた。声が喉に詰まってしまい、はっきりと声が出ていないように思えた。
「えっと、はい?」
今までに数度聞いていた“緒方”というそれが自分の名前であろうと思った緒方は、どう答えたものかと考えながらそんな返事を返した。
真っ直ぐに見つめる高杉の視線と、それを受けて真っ直ぐに見つめ返す緒方の視線には何も変わりがない。高杉にはいつもと変わらない緒方だというのに。
「僕の事も…?」
高杉のつぶやくような言葉はそこで切れた。続く言葉を、一体どうして言う事が出来るだろうか。
検査をしてもこれといって異常はなく、外傷もほとんどない。けれどなくてはならない記憶もないのだ。
事故を起こした時の記憶を脳が意識的に失うという症例はある。だからすぐに解決というわけには行かなさそうだった。
とりあえず家に帰って様子を見る、という事になったのは医者の判断とそして緒方の意思でもあった。
知識的なものは全て残っていた。だから緒方が無くしてしまったものは『緒方耕作』としての記憶という事になる。それならば『緒方耕作』としての日常に戻った方が良いと、考え方はとっても単純なものなのかもしれないけれど。けれど今はその単純な方法に頼るのが最善の方法だった。
緒方は病院から高杉が運転する車に乗って家へと向かった。その道すがら、緒方は車外の景色をじっと見つめていた。
見たことがあるはずのその景色も、乗った事があるはずのその車も、何よりもきっと親しかったであろう隣りに居るその人物の事でさえ緒方は何も憶えていていない。
緒方はその事に対してあせりは感じていなかった。けれど、何か淋しいものはずっと感じていた。それがどういう理由で来るのかは分からなかった。本当に、今の緒方には何も分からない事だった。
緒方はその不思議な気持ちのまま、流れてゆく景色を見つめていた。
高杉はといえば、そんな緒方にどんな言葉をかけるべきか少し悩んでいた。どんな言葉を選んでも、返ってくる答えが怖くもあり、不安でもあった。
そんな自分の事よりも緒方の事の方が大事だと思う気持ちの方が勝っているのに、それなのに、それだからこそ、今の緒方にかけるべき言葉がうまく出てこない。
どんな事実も今の緒方にとっては初めて聞く話になるだろう。それを緒方はどのように受け止めるのだろうか。
そして、言葉は交わされる事なく、車はずっと走り続けていた。
促されて車を降り、そして見上げた建物もやっぱり緒方の記憶にはないものだった。乗り込んだエレベーターも、部屋までのその道も、見覚えがない。
高杉の一歩後ろを着いて行くように歩きながら、緒方は見えるもの全てを憶えようとするかのように見つめていた。それは無意識に、新しく憶えようとしていたのかもしれない。思い出せない代わりに。
そんな緒方の目が捕らえて離せなくなったのは高杉の背中だった。
目が覚めた後は見守るように、そして記憶がないと知ってからは少し淋しそうに、それでも優しいまなざしを向けてくれた人の背中を、緒方はずっと見つめていた。向けられたまなざしに、何か心が動くのを感じた。そのまなざしが今は自分の方を向いていない事に、緒方はなんとなく淋しく感じていた。
その視線を受け止めていた高杉もまた、なんともいえないもどかしさのようなものを感じていた。
いつもなら隣を歩いているはずの緒方が後ろに居るというただそれだけで、変な感じがする。いつだって自分の隣に居て、そして笑顔で会話を交わす事がすでに当たり前になり過ぎていた。そしてそれはずっと続くはずだった。こんな事になるなんて、考えた事もなかった。
それでも今、それは現実に起こってしまった事なのだ。
この先どうしようか。この先、どうなるのだろうか。二人の心はそれぞれに、同じ悩みでいっぱいだった。
「ただいま」
高杉が開けたドアから一歩その部屋に足を踏み入れた時、緒方の口からそんな言葉が自然に出てきた。
今の緒方にとってそこは全く見た事がない部屋だったけれど、そんな事に気付くよりも先に選び出した言葉はそれだった。
「あれ?」
けれど緒方は自分の言葉に一瞬戸惑い、そして驚いていた。
「ここが緒方君と僕の家だよ」
そんな緒方に高杉は振り返って優しく微笑みかけた。
一瞬、緒方が記憶を取り戻したのかとも思った。いつもと変わりない事だったから。それは緒方の日常だったから。でもそれは違うとすぐに分かってしまったけれど、それでも嬉しいと思う気持ちが高杉にはあった。
「おかえり、緒方君」
高杉はいつものように、今までとなんの変わりもなく緒方の事を笑顔で迎えた。
思い出した訳ではないけれど、まだ何も分からない事だらけだけど、自分に向かってかけられたその言葉に緒方は安心していた。その声だけで、本当に心から安心する。
「ただいま」
改めて、緒方は笑顔で高杉の言葉に答えた。
2001.10.13
もしかして長編??
この先どうなる緒方君!この先どうする高杉さん!!
そして記憶喪失になった原因は?
ちょっぴりミステリアスに展開…するのでしょうか?
もしかして長編??
この先どうなる緒方君!この先どうする高杉さん!!
そして記憶喪失になった原因は?
ちょっぴりミステリアスに展開…するのでしょうか?