TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

勿忘草7

 語学学校の授業を終えて部屋に帰ると、月森はピアノの椅子に座り、真剣な顔で楽譜を見ていた。
 ただいまと声を掛けても返事はなく、完全に音楽の世界へと入っているらしい月森の邪魔をしないようにとキッチンへ移動し、テーブルに荷物を置いてそっと腰を下ろした。
 ほんの少し近寄りがたい雰囲気を醸し出す真剣な後ろ姿に自然と目が吸い寄せられてしまう。二年という月日は短いようで長いらしく、月森の顔は俺の記憶にあるそれよりもずっと大人びて見える。とはいうものの実際はまじまじと見たことはなく、いつだって不機嫌そうな表情しか思い浮かばなかったりするのだが。
 ページをめくる音がたまに聞こえてくるだけで、 部屋の中は静寂に包まれている。あまりにも静か過ぎて、息を吸う音さえ聞こえてしまうような気がして思わず息をひそめながら、俺はずっと月森を見続けていた。

「土浦」
 どのくらい経ったのか、不意に月森は立ち上がり、俺の名を呼んだ。帰ってきたことにさえ気付かれていないと思っていたから驚いたままに慌てて立ち上がり、そしてずっと月森を見ていたことに気付かれたのだと思ってとっさに目を逸らして俯いた。
 だが、妙な違和感におそわれて顔を上げると、違和感を通り越したありえないことが目の前で起きていた。
 月森は俺の名を呼んだのに、俺の方を向いていない。楽譜を持ったまま足を向けたのは、俺がいるキッチンではなく、寝室だ。
「君の意見を聞きたい。君ならどう解釈するだろうか」
 壁を挟んだ向こう側から、月森の声が聞こえてくる。そして、答える声も聞こえたような気がするが、その声も言葉も俺の耳はうまく拾えない。
 月森が見ていた曲は何だったんだろう。それがわかれば俺が答えるのに。月森は俺を呼んだんだから。俺に、聞いたんだから。
 そう思って急いで寝室に向かうが月森はこっちを見ていないし、楽譜も月森の手にはないから曲名を確認することも出来ない。
 音を立てて来たはずなのに月森は俺に気付きもしない。 月森、と、声を出して呼んだはずの、俺の喉は全く震えていない。
 月森の前に誰かがいるのはわかる。だが、それが誰だかわからない。月森は俺の名前を呼んだのに、俺じゃない誰と話しているというんだ。

 月森、と、もう一度呼んでみたがやっぱり声は音にならない。そして掴もうと伸ばした手は、月森に触れることすら出来なかった。



2020.6.13up