TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

勿忘草6

 事故から一週間が過ぎても、土浦の記憶が戻る気配はなかった。
 完全に忘れられているわけではないが、覚えているのが仲の悪かった頃というのは想像以上に辛く、だが恋人同士であるという真実を土浦に告げることも出来なかった。
 ただ、土浦は何かを察しているようで、何かを言いたそうな顔で俺を見る。それもそうだ。犬猿の仲だった俺たちが一緒に住んでいるというだけでも衝撃的なのだろうし、なにより二人で住むこの部屋にはただの同居では済まされない状況も点在している。
 部屋を案内したとき、二人の関係を聞かれたらどう答えようかと悩んだが、結局、土浦は何も聞いてこなかった。それは、聞いたところで俺の言葉を信じられないからだったのかもしれない。もしも逆の立場だったとしたら、俺は土浦から事実を聞かされても信じられないし、信じたくないと思うはずだ。そう予想が出来てしまうほど、あの頃の俺たちは本当に仲が悪かった。
 お互いが相手のことを理解しようだなんて考えていなかったし、自分のことしか考えていなかった。そこから少しずつ歩み寄り、時間をかけて築き上げた二人の関係を、言葉だけで説明されても到底信じられないだろう。
 だから俺は土浦に何も伝えていない。好きだと思う気持ちも、顔や態度に出さないようにしている。
 本当は思い出してほしいと思う。二人の関係を知っていてほしいとも思う。だが土浦が記憶を取り戻す保証はどこにもなく、別の記憶の中で過ごしている土浦が俺のことを好きになる保証もない。すがれるものがあるとすれば、二年前は土浦から先に俺のことを好きになってくれたことくらいだ。
 言い合いはしていない。話をしないわけではないわけではないが、おだやかな雑談のようなたわいもない会話はしていない。朝と晩の数時間を一緒に過ごすだけで、一緒に演奏することもない。
 つい数日前まで、それぞれが別々のことをしていても何の不安も淋しさもなかった。でも今は、傍にいても会話をしていても表現しがたい不安がつきまとい、ただ淋しくて仕方がない。

 一番、淋しいと思うのは朝と夜だった。少し手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに、それは決して叶わない。
 土浦の退院が決まったとき、ベッドを離しておくことはもちろん考えた。だが結局、俺はそれをしなかった。最終的に、重たいものを自分で動かすことが無理だから、という理由で離さなかったのだが、それがただの建前であることは自分のことだからよくわかっている。
 恋人同士であることを口にすることは出来なかったが、状況はそのまま残しておきたかった。その状況が気になって、俺のことも気になって、そしてまた土浦が俺のことを好きになってくれたら、そんな打算的な考えがあった。そして、一度離してしまったら土浦の気持ちまで離れてしまいそうで、もう二度と戻ってはこないような気がして、怖くて離すことが出来なかった。
 結局、それが良かったのか悪かったのかはわからない。意識してなのか無意識なのか、土浦は真ん中よりも更に俺から離れて寝るようになったし、俺は手を伸ばしてしまいたくなる衝動を抑えるために、土浦に背を向けて寝るようになった。朝だって、それぞれが目覚ましをかけ、お互いを起こすこともしていない。朝の弱い俺を起こしてくれていた土浦の声やぬくもりを知ってしまった今、機械的な電子音で目を覚まさなければいけない毎日は、一年間の遠距離恋愛のとき以上に辛かった。
 そして実際は電子音ではなく、あの日と同じ焦燥感で目を覚ます。
 衝動のままに抱き締めて、それでも笑顔を向けてくれた土浦は、今、ここにはいない。だから俺は湧き上がる衝動を必死に抑えなくてはいけない。
 触れたい、抱き締めたい、キスしたい。
 だが、土浦から拒否されるのであろう現実を思い出せば決して手は伸ばせない。焦燥感は恐怖へと変わり、胸がつぶれそうなほどの痛みに襲われる。
 なぜ、どうして、なんで……。
 考えても仕方ないことが頭の中をぐるぐると駆け巡り、土浦を責めてしまいそうな自分に気付いて自己嫌悪に陥る。土浦を責めたところで記憶が戻ってくるわけではない。思い出してくれと懇願しても、無理なことはわかっている。
 どうにもならないのだとわかっていて、それでも何かにすがりたくて、でもすがれるものなど何もない現実は思った以上に重くのしかかっていた。



2020.5.10up