TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

勿忘草4

 俺は、交通事故が原因で二年間の記憶を失くしているらしい。
 高校二年生だと思っていた俺はもう高校を卒業していて、ウィーンに留学中だというから驚きだ。おまけに高三のときに普通科から音楽科に転科していて、ピアノ専攻かと思いきや、目指す道を指揮者と定めて目下勉強中というのだから更に驚かされた。
 その話を月森から聞いたときには、冗談を言うようなやつじゃないとわかっていても半信半疑で、だが、日本から駆け付けた両親からも全く同じ話を聞かされて信じざるを得なくなった。
 俺が事故で入院したことを両親に知らせてくれたのも月森で、そういえば最初に駆け付けてくれたのも月森だったことが不思議で尋ねれば、俺たちが同居しているからだと答えられた。その事実は聞かされたどの未来よりもずば抜けて驚きで、でもこれもやっぱり嘘でも冗談でもないらしかった。

 病院で色々と検査を受けたがどこにも異常はなく、頭を打ったことによる記憶退行、という診断結果となった。それ以上の結果は何も得られなかったが、重大な症状が見つからなかったことには少しほっとした。
 身体の打撲も頭の傷も大したことはなく、入院している理由のなくなった俺は退院することとなった。留学中だというのに今の記憶がない俺はどこに帰ればいいのか悩んだが、色々と話し合った結果、このままウィーンに残り、月森と住んでいるという家へと帰ることにした。
 今は語学留学という形になっていて、本格的に音楽学校に通い始めるのは秋からの予定となっているため、俺の記憶次第では音楽学校への留学そのものをもう一度考え直さなければいけなくなるかもしれない。それならば今ここで下手に環境を変えるよりもこのままウィーンにいたほうがいいような気がした。
 今の俺がどんな風に考えて月森と同居をしていたのかなんてわからないし、月森と同居なんてどう考えてもあり得ないものだったが、今の自分が目指しているものを感情的な理由で台無しにはしたくなかったから、両親とともに一時的に日本に帰るという選択肢を、最終的に俺は選ばなかった。
「ここだ。何か思い出したりしないか?」
 病院からの帰り道、ほとんどしゃべらなかった月森が、タクシーを降りてから少し歩いたところにある建物の前で声をかけてきた。そこはレンガ色をしたそれほど大きくも高くもない少しレトロな感じのする建物で、まるでテレビで見る異国の風景の一部のようだと思ったが記憶には全くない。
「いや…」
 見上げる格好のまま短く答えれば、そうかと月森も短く答えただけでそのまま先に歩き始めてしまう。だから、俺はそれに着いて行くことしか出来なかった。

「お、ピアノだ」
 部屋に入ってすぐ、小振りだが立派なグランドピアノが目に入った。入院生活でピアノを弾けない日々を過ごしていたせいか、ものすごくピアノを弾きたくてたまらない。
「君のピアノだ。弾きたければ弾くといい」
 まるで俺の気持ちを見抜いたように月森にそう言われてなんだか恥ずかしくなったが弾きたい衝動は止められず、俺は荷物を傍の机に置いてピアノへと向かった。
 俺の、と言われたがやっぱり記憶にはない。日本の自分の部屋にあったピアノとも違う。だが蓋を開け、鍵盤に触れるとなんだかほっとする。しばらく弾いていなかったから指が動くか心配だったが、弾き始めてしまえばそんな心配などすぐに消え去った。
「幻想即興曲か…。第3セレクションで弾いた曲だな」
 弾き終えれば、拍手とともに月森の声が聞こえてきた。つい、練習中の曲を弾いてしまったが、月森はもうそれを知っているのだと思えば気分は複雑だった。
 お前は何を弾いたんだと、聞こうと思ってやめた。知ったところで、今の俺には意味がない。
「部屋を案内するが、まだ弾くか?」
 飲み込んだ言葉の代わりを探していれば会話を別な方向に進められ、ほっとするような、まだ何か心に引っかかっているような気持ちのまま、首を振って椅子から立ち上がった。

 ピアノに気を取られてまったく目に入っていなかった部屋は横長の、いわゆる1LDKの造りだった。
 玄関の正面、本来ならばリビングにあたるのであろうスペースには先程のピアノが置かれ、玄関から見て左奥には扉で仕切られた部屋、ダイニングキッチン、玄関からの壁沿いに少し広めのユニットバス、という配置になっている。棚にはどこも二人分のものが並べられ、テーブルもやっぱり二人掛け、そしてキッチンの向こうにある大きな窓から繋がるベランダに干された洗濯物も二人分と思われ、見慣れない異国の風景の中で、妙な生活感を醸し出していた。
 すごく広いというわけでもないが、仕切られている箇所が少ないせいか、ピアノがそれなりに場所を占めていても狭くは感じない。窓から見える街並みが、日本とは違ってどこかゆったりとしていることも要因かもしれない。
 知っているはずなのに初めて見るその景色と、ガラスに映るこちらも知っているはずなのにちっとも見慣れない自分の顔を不思議な思いで見ていれば、ピアノの奥にあった部屋の扉を開けた月森が俺を呼んだ。
「ここが、……寝室だ」
 それまで簡潔に説明を続けていた月森だったが、このときだけほんの少し妙な間があった。それを疑問に思いながらもあまり深く考えずに月森の後を追い、そして目の前に現れた大きなベッドにぎょっとして足が止まった。
「ベッドは手前が君のもので、クローゼットはこっち。他はほぼ共用で、個別の持ち物はあるが、基本的には何を使ってもらっても構わない。何か質問は?」
 手前、と言われてよく見れば二つ並んでいるだけで一つのベッドというわけではない。とはいうものの、どう見ても隙間なくぴったりくっついているし、その配置はおかしいだろうという疑問がわいてくるのは当然で、けれどさっきの妙な間など忘れたかのように続いた淀みない月森の説明で、疑問の言葉は遮られてしまった。
 部屋の中に点在する二人分のものを見たときは、一緒に住んでいるのは本当だったんだと素直に実感していただけだったが、このベッドに対する感想はまた別ものだ。同居とかシェアと呼ぶには、そんなに広くはないスペースだとしても、どう考えても違和感があり過ぎる。
「……今の、ところは…」
 だが、俺はやっぱりその違和感を口にすることが出来なかった。
 俺が疑問に思うことは月森にもわかっていたはずで、それでも月森がそこに触れなかったということは、月森からは話す気がないということなのだろう。
 細かい説明をしない月森の物言いは知っている。だが、そこをあえて突っ込む勇気が、今の俺にはない。
「そうか。困ったことやわからないことがあれば遠慮なく聞いてくれ」
 そう言った月森の口調から明確な気持ちは読み取れなかったが、でもどこか淋しそうな、そんな感じの印象を受けた。



2020.4.12up