TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

勿忘草2

 その日、普段は朝が弱くてなかなか起きられない俺が朝の5時にはっきりと目覚めた。
 何かものすごい焦燥感に襲われ、隣で眠る土浦に手を伸ばした。俺と違い朝に強い土浦は急に俺が強く抱き締めたことで目を覚まし、それでもあまりに急なことに覚醒しきれていないような、まだ眠そうな顔で俺を見上げていた。
「おはよ…。まだ暗いよな…」
 無意識に時計を見ようとしたのだろう。土浦の視線が俺から離れると焦燥感は更に増し、頬を挟むようにして土浦の顔を俺へと戻し、それに対して文句を言おうとしたのであろう口をキスで塞いだ。
 土浦が、俺以外に目を向けることを無性に怖いと思った。
 土浦と付き合い始めて約1年半、ウィーンと日本の遠距離恋愛を経て、やっとウィーンで一緒に暮らし始めてからはまだ数ヶ月しか経っていないとは言え、こんなにも衝動的に土浦を求めるのは久し振りだった。初めてのときよりも、久し振りに逢ったときよりもずっと土浦を求める気持ちが強く、その衝動が理性を上回ったことなど今までなかったと思う。
 土浦の腕には一瞬、俺を押し返すように力が込められたが、昨夜の名残もあるのだろう、すぐに土浦の身体から力が抜け、徐々に甘い反応を返してくれるようになった。
「朝っぱらから…」
 ゆっくりとキスを解けば土浦はまるで文句のような言葉を発したが、その言い方もどこか甘く、そして俺を見つめる瞳はとろりと溶けてしまいそうなほどに潤んでいた。
「君が欲しいんだ」
 切実に、そう思った。起きたときに感じた焦燥感が、土浦に触れていてもキスをしても、こんな風に見つめられても心からなくなってはくれない。
「じゃあ、仕方ないな…」
 土浦はおかしそうに笑って、俺を甘やかす言葉をくれた。それが嬉しくて抱き締めれば、それに応えるように背中へと腕が回され、その包まれるようなあたたかさが本当に幸せだと思うのに、焦燥感はまだ、俺の心にあり続けた。

 朝とは思えないほどの濃密で濃厚な時間を過ごしても焦燥感は消えてくれず、俺は許される時間のギリギリまで土浦を抱き締めていた。
「じゃ、また後でな。演奏会、楽しみにしてる」
 出かける間際、まだけだるそうな土浦は、それでも笑顔でそう言ってくれた。
 ウィーンでヴァイオリニストとして活動するようになってから幾度となく演奏会に出てきたが、土浦が聴きに来てくれる日はいつもよりも演奏に熱がこもる。
「あぁ、また後で…」
 無理をさせた自覚があるからまだゆっくりしていていいと言ったのは自分だったが、土浦を置いて部屋を出なければいけないことが無性に辛く感じた。焦燥感は更に強くなっているようで、離れ難くて仕方ない。
「月森?」
 土浦を見つめたまま動かない俺を訝しむように土浦が首を傾げ、俺は衝動に抗えずにもう一度、土浦に手を伸ばした。指先で頬を撫で、そっと抱き締めた。本当はキスをしたかったが、触れたらまた離せなくなりそうな気がして我慢をした。
「なんだよ、今日は。早く行かないと遅れるぜ」
 文句ではない、呆れられているわけでもない、甘やかす口調と表情で、それでも土浦は俺をちゃんとたしなめてきた。
「そうだな…。いってきます」
 そうは言ったもののまだ名残惜しくてもう一度、抱き締めて手を離せば、途端にまるで引き裂かれたような痛みが心臓に伝わった。
 まるでその名残惜しさが伝わったかのように、土浦の傍でわだかまっていた俺の指に土浦の指が絡み、ぬくもりを残して解かれた。
「また後でな」
 俺は土浦のその一言に背中を押されるようにドアノブへと手をかけた。
「いってきます」
 俺の言葉に、土浦は笑って手を振ってくれた。

 舞台へと足を踏み出した瞬間、客席に土浦がいないことを感じた。渡したチケットに指定された席へと視線を向ければ、そこには案の定、誰も座っていない。
 無理をさせ過ぎただろうかと思う。昨夜と今朝とを振り返れば、土浦への負担は相当だったはずで、申し訳ないことをしたと反省の気持ちはあるが、今朝は本当に衝動を止められなかった。
 席に土浦はいなかったが、俺の演奏を楽しみにしていると言ってくれたその言葉に恥じない演奏をしようと思った。そうすれば土浦が遅れて来てもちゃんと俺の想いが届くような気がして演奏を続けたが、アンコールの最後の曲を弾き終わっても、その席に土浦の姿が現れることはなかった。
 演奏中にだけは抑えることの出来た焦燥感が、終わった途端にひどくなって戻ってきた。土浦の姿を会場で見なかったことがそれに拍車をかけたのかもしれない。
 疲れが溜まっていてうっかり二度寝してしまったとか、会場を間違えて全然違う場所に行ってしまったとか、そんな理由ならそれでいい。そんなことで土浦を責める気なんてこれっぽっちもない。だが、そんな理由であることは考えられず、どうにも落ち着かない。
 足早に控室に戻り、ヴァイオリンをしまうよりも先にカバンへと手を伸ばす。中から取り出した携帯電話には電話もメールも、着信を示す通知は出ていない。急いで土浦の携帯電話にかけてみたが、出られないことを告げる感情のない形式的なメッセージが流れるだけで土浦の声には繋がらない。
 無機質なメッセージを遮るように終了ボタンを押せば、まるでそれを待っていたかのように着信を知らせる振動が携帯電話から伝わってくる。俺は誰からの電話か確かめもせず急いで通話ボタンを押して土浦の名前を口にしたが、電話の主は土浦ではなかった。
 そして俺の焦燥は、この電話から思いがけない形となって伝えられた。

 急いで駆け付けた病院のベッドで、土浦は静かに眠っていた。
 頭に巻かれた包帯、右腕へと繋がる点滴の管、少し青ざめたような顔色、そんないつもと違う土浦を目の当たりにして、俺は身体の震えを止めることが出来なかった。
 土浦はバスで演奏会の会場へと向かう途中、交通事故に巻き込まれたのだという。数台の絡んだ事故だったらしいのだが、幸いなことに負傷者のみで済んだと、後から見たニュースでは言っていた。
 病院に運ばれたときから、土浦の意識はなかったらしい。頭の怪我は出血があったもののひどいものではなく、検査結果にも異状はなかったと言われたが、土浦はなかなか目を覚まさない。
 ずっと傍にいることは許されず、俺は一度、家へ帰った。入院に必要な手続きをしなくてはいけなかったし、日本の土浦のご両親にも連絡をしなければいけない。
 現実的な忙しさに俺の感情はまるで凍り付いたようで、淡々とやるべきことをこなしていく間に朝からずっと感じていたはずの焦燥感も感じなくなっていた。冷たい奴だな、と文句を言う土浦の顔が浮かび、そのときだけは心が少しあたたかくなったような気がした。

 事故の次の日も土浦は目を覚まさず、更に次の日の朝、俺はまた焦燥感に襲われて目を覚ました。
 土浦に何かがあったのかもしれないと、居ても立っても居られなくて病院へと急いだ俺は、事故の知らせを聞かされたときよりも、もっとずっとひどい現実を突きつけられることとなった。



2020.3.14up