TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

混沌たる心情の果てに5 *

「殺風景な部屋だな」
 部屋の扉を開ければ、土浦は一瞬のためらいを見せた。
 だが、まるで意を決したかのような顔で部屋へと上がり、ピアノとソファ、そして必要最低限の家具しか置いていない部屋を見て苦笑いのような感想をこぼした。
「必要なものは揃っているから困ってはいない」
「まぁ、俺も人のことは言えないけどな」
 最初に見せたためらいなどなかったかのように、土浦は勧めるよりも前にソファへと腰を下ろした。
「で、買われた俺はどうすればいいんだ? 一般的に買われるって言ったら、やっぱり…」
 それはわざと俺を見上げるような位置で、妙な角度と距離から俺をじっと見つめてきた。

「何を言い出すのかと思えば…」
 さすがの俺も土浦の思惑を察しその距離を作るように視線を逸らしたが、不意に伸びてきた手にそこから動くことは止められてしまった。
 冗談なのだろうということはわかっていたが、それでも見上げてくる瞳とその距離に、俺は一瞬、何か危機感のようなものを感じてしまった。
「この部屋を見る限り、お前のプライベートって味気なさそうだしな」
 確かに、元々人付き合いは苦手で誰かと付き合うことも考えたことがないし、仕事以外のプライベートな時間でさえも何かしら音楽に関することをしていることが多い。付き合いで飲みに行くようなことはあっても、今日のように独りで飲みに行くことさえ、滅多にないことだった。
「余計なお世話だ。俺はそんなつもりで君を買うと言ったわけではない。それとも君は、そんなつもりで俺に買ってくれと言ったのか」
「さぁ、どうだろうな。でも買われる以上、何か返さないと気が済まない」
 意味ありげな視線でじっと見つめてはくるが、土浦のその瞳から本心はまったく読み取れない。
 土浦が言い出したことではあったが、買うという言葉に乗ってしまったことも間違いだったかもしれないと思った。

「それならばピアノを弾くことだけに専念してくれればそれでいい。そのために必要なことはなんでもする」
 それは俺の本心だった。土浦が音楽を続けていくために俺が出来ることがあるならば何でもしたいと思っている。
 こんな風に思うのは俺の驕りなのかもしれないが、音楽を諦めて欲しくなかったし、あんな小さなところに埋もれて欲しくなかった。
 そして純粋に、土浦の音楽をもっと聴きたいと思っていた。
「それじゃ、俺の分が良過ぎるだろう。ただより安いものはないって言うしな」
 だが、俺がなんと言おうと土浦にも引く気はないらしく、掴まれていた手が引かれて土浦へと近付かされる。
 何をそんなに拘っているのだろうと思いはするものの、見上げてくる土浦の瞳に吸い込まれそうになっている自分にも気付いて驚いた。

「出世払いで構わない」
 揺らぎそうな気持ちを留め、俺は近付く土浦から無理やり一歩、離れた。だが土浦の手は俺を放してはくれず、それどころか身を乗り出すようにして離した距離を更に縮めてきた。
「ずいぶん、お優しいことだな」
 皮肉めいた言葉を紡ぐ唇に、何故か目が惹きつけられる。見上げてくる土浦の瞳に、俺の意識が奪われていく。近付くその距離に、頭の中で警鐘が鳴り響く。
「土、浦…」
 無意識に口に出した土浦の名は渇いた喉が張り付いて綺麗な音にはならなかったが、土浦は首を傾げる仕草でそれに答えた。
 瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねたことを自覚した。
 土浦に触れたい。土浦に、触れてみたい。
 まるで何かを彷彿させるその角度に、俺は今まで誰にも感じたことのない感情を土浦へと抱いた。

 俺が触れたのが先だったのか、土浦が触れてきたのが先だったのか。覚えているのは土浦の頬へと手を伸ばしたことだけだ。
 気付いたときには唇同士が触れ合っていて、更に俺たちはまるでお互いを貪るようなキスをしていた。
 その衝動の理由は自分でもよくわからない。だが心が、身体中が、土浦のことを求めていることは確かだった。
 土浦に触れることに対しては何の嫌悪感もなく、触れるだけではないキスも、素肌が直接触れ合うことも、やわらかくもないその身体を抱き締めることも、嫌悪を抱くどころか土浦のすべてが俺を惹き付けて止まなかった。
 土浦が男だとか俺たちが犬猿の仲だったとか、そんなことが頭の中を過ぎる。続いて頭の中には何故という疑問が浮かび、答えが出ないまま次の疑問が湧いてきたが、そんなものは触れる土浦から伝わる熱の前にはあまり大きな意味を持たなかったし、それを深く考える思考はもうどこにも残っていなかった。
 今の俺には触れたいと思う気持ちがすべてで、ただただ俺は土浦へと溺れていくような錯覚を覚えた。

 誘うような態度を見せたわりに土浦に慣れた様子はなく、触れる度に返される反応が俺を堪らない気分にさせた。
 お互いへと触れ合っていたそのときには何をしても抵抗らしい態度は示さなかった土浦だったが、解放の余韻に震える身体の更に深い部分へと触れようとしたとき、初めてその身体が強張り、瞳が不安そうに揺れた。
 衝動に任せてここまできてしまったが、実際のところ、何処まで許されているのか計り兼ねていた。
 そんなときに見せられた土浦の反応は俺の手を止める格好の理由になったが、止めることは出来ても放すことは何故か出来なかった。
 何処まで触れていいのだろうか。いや、俺は何処まで触れたいのだろうか。
 その答えを知りたくて土浦を見つめれば不安そうに揺れた瞳が瞼で隠され、少しの間を置いて開いたそこから、今度は意志の強い、揺るぎない土浦の瞳が俺を見つめ返してきた。
 その瞳を見た瞬間、衝動を止める疑問も躊躇も何もかもが、俺の中からすべて消え去った。
 箍が外れるとは、たぶんこんな状態のことを言うのだろう。
 こんなにも自分を抑えられないのは初めてで、微かに残る理性が引き止めようと何かを訴えかけていることもわかっていたが、それでも今、土浦に触れることを止めることが全く出来なかった。
 もっと、もっと、もっと…。
 飢餓感にも似たその思いで、俺は更に強く土浦を抱き締めた。

 それからはもう、土浦から不安や躊躇いを示すものは一切感じられなかったが、その本意はずっとわからないままだった。
 それでも土浦は誰でもない俺の名を呼び、背に回された腕は縋るように俺のことを抱き締めていて、俺はそれを嬉しいと思った。
 だが土浦に対するその気持ちも、俺の本心なのか、それともこの状況に流されているだけなのか、俺は自分の心の中ですら結局わからないままだった。
 ただ、相手が土浦だったからこそ気になったことは確かで、久し振りに再会した相手が土浦ではなかったら、こんな気持ちにはなっていなかっただろうと思う。だから今、土浦を欲しいと思うこの気持ちはきっと本物なのだろう。
 それだけがすべてで、それだけで十分なのだと、俺はまるで自分に言い聞かせるように心の中で繰り返しつぶやいていた。

 求めて与えるような生易しいものではなく、まるで奪い合うように俺たちは抱き合った。
 だが現実には二人の想いが通じているわけでもなく、ただ一夜の夢なのだとわかっている。
 濃密な時間が過ぎれば土浦は俺の腕から離れ、俺も土浦にそれ以上、手を伸ばすことはしなかった。
 背中合わせのまま朝を迎えるまで、俺の心は千々に乱れて一睡も出来なかった。