TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

混沌たる心情の果てに2

 その歩みを止めたのは地下へと続く階段の前だった。
 何故立ち止まったのか自覚しないまま階下を見つめれば、店への入り口らしき扉と、そこから出てくる人影が見えた。
 扉の向こうに見えていた明かりは扉が閉まって薄闇に戻り、そこから人影が上ってくる。その人影が立ち尽くす俺など気に留めずに脇を通り過ぎても、俺はまだ階下を見つめていた。
 何故ここで立ち止まったのかなどわからない。見つめていたところで何がわかるわけでもない。
 時間の無駄だと歩みを再開するために視線を上げれば、ついさっきまで見ていたはずの扉はもう思い出せない。なのに何かが引っ掛かってそこを動くことも出来ない。
 あの扉の向こうに何かがあるのか?
 そう思ったときにはもう、階下へと続く階段を無意識に下りていた。

 掲げてあった店名入りの看板も見ずに扉を開けて最初に飛び込んできたのはピアノの音色だった。
 歩く自分の靴音も、開けた扉の音でさえも遮断していた俺の耳に、その音色は自然に響いてきた。
 思わず立ち止まって聴き入ってしまうほど、その音色は心の奥深くに沁み込んでくる。
 こんなにも真っ直ぐに音楽を聴いたのは、久し振りかもしれない。

 カウンターの隅に座ると、曲は新しいものへと変わった。
 聞き覚えがあるような気もするが曲名は出てこない。たぶん、クラシックではない曲のピアノアレンジなのだろう。
 店内はそれほど広くなく、客も疎らだった。背後にいくつか並ぶ客席の向こう、薄暗い店の一番奥にピアノは置かれていた。
 グランドピアノが置いてあるわりにどうもピアノを聴かせることを主としているわけではないらしいが、流れるピアノの音色は悪くなかった。建物自体が音響を考えた造りをしていないことがとてももったいない。
 自分にはあまりなじみのない曲なのに、何故かその音色は心地いい。
 曲と曲の間に拍手はないが、次の曲へと変わるその間と選曲は絶妙だった。いや、俺の感覚からすればそれはありえないものだったが、それがかえって新鮮だったのかもしれない。
 いい意味で、俺を裏切ってくれる。
 型にはまっていない自由な音色でありながら、その中心にある芯はしっかりとしている。それは聴いていてとても安心できる音色だった。

 数曲目で、初めて知っているクラシックの曲が流れた。
 あまりにも有名過ぎるその曲はもう何度も聴いているが、その演奏は今まで聴いた誰のものとも違う。
 悲しくも切なくもあり、そして何よりも繊細なピアノの調べに、心が揺さぶられる。まるで飲み込まれてしまうのではないかと思うほどの感情の波が、音色となってピアノから伝わってきた。
 誰のものとも違うと思いながら、けれどその演奏は俺に何か懐かしさのようなものを思い出させた。
 俺はこんな風にピアノを弾く人を一人だけ知っている。

 土浦梁太郎

 俺は高校生のときに出会ったその名前を不意に思い出した。
 学院で開催されたコンクールがきっかけで知り合い、何度か一緒に演奏したこともある。だが俺とは全く正反対の音楽性を持っていて、お互いの意見がぶつかることで言い争いは絶えなかった。
 同級生の枠を超えた付き合いをしていたわけではなく、だから俺が高校の卒業を待たずにウィーンへと留学してからは一度も会っていない。
 土浦がどんな進路を取ったのか俺は知らないが、ピアノを続けていくようなことは留学前に聞いていた。
 そういえばこの業界で土浦の名前を聞いたことがなかったのだと今更ながらに気付き、俺にはそれが不思議だった。

 それが最後の曲だったらしく、店内からは控えめな拍手が上がった。
 すんなりと心に響く演奏を聴いたのは本当に久し振りで、店に入る前に感じていた物足りなさが少し埋められていることに気が付いた。
 もう少し聴いていたかったような気がしてピアノへと視線を向ければ、大屋根の向こうに演奏者の姿が見え、そのままフロアを横切りカウンターへと近付いてきた。
 グラスの中で溶けた氷がカラリと音を立て、まだ口をつけていなかったのだと思い出して視線をテーブルへと動かしたのと同じタイミングで、そのピアニストはカウンター内へと入っていった。
 視界を掠めたその人物に何か引っ掛かるものを感じ、それを確かめようと顔を上げた俺の視界に入ってきたのは、ついさっき思い出したばかりの土浦の横顔だった。

 少し前までピアノを弾いていたはずの手が、今は何故かグラスを拭いている。
 注文を受ければ酒も料理も作るし、それを席へと運ぶこともしている。カウンターへと戻ってくれば、狭いそのスペースで黙々と仕事をこなしている。
 カウンターの向こうに立つその男は俺を見ても特に表情を変えることはなく、社交的な笑みを向けられただけで重なったはずの視線は逸らされた。
 目の前の男は一体、誰なのだろうと思う。
 会わなくなってからもう何年も経っているから記憶にある面影とは微かに異なっているものの、どこからどう見ても土浦としか俺には思えない。聴いたピアノの音色も、確かに土浦のものとよく似ている。
 けれど、相手はまるで俺など知らないといった態度で、俺の目の前にグラスを置いていく。

 結局、店員と客の間で交わされるやり取り以上の言葉は一言も交わされることなく俺は店を出た。
 声を掛けようと思ったがうまくかわされ、取り付く島のない、まるで無視するかのような態度が気に食わなかった。
 別に土浦に会いたいと思っていたわけではなかった。土浦だって、俺に会いたいと思っているわけなどないこともわかっていた。だからといって、無視されるのは心外だ。
 土浦によく似た顔で、土浦によく似た演奏をする人物に出会ったのだと思うことにしてしまえば、こんなにもイライラする必要などないのかもしれない。
 けれどどう考えても土浦本人だとしか思えず、俺はそれを確かめるまでは帰れないと思った。



2012.7.7up