TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

霧らふ旋律1

扉を開けた瞬間に聴こえたその音色に、たぶん俺の心は奪われていた。


 高校の卒業を待たずにウィーンへ留学し、それからずっと俺の活動拠点はウィーンが中心だった。
 コンクールでの優勝、各国での演奏会、CDの発売、エトセトラ。たぶん、俺の音楽活動はそれなりに順調だった。
 一日のほとんどを、ヴァイオリンを弾いて過ごすことが当たり前の音楽漬けの日常。それを疑問に思うことなどない毎日。
 そんな俺がある日、自分のヴァイオリンに疑問を持った。俺のヴァイオリンは、誰かの心を揺さぶっているのだろうかと。

 音楽一家に生まれたその家庭環境故に、音楽は物心が付く前からいつでも身近にあった。
 音楽の世界にいることが当たり前で、音楽を奏でることが出来て当たり前。周囲の期待と羨望の眼差しは、今でも変わらず俺へと向けられる。
 その期待に応えるために、その羨望を乗り越えるために、俺は真っ直ぐ音楽の道を進んでいた。進んでいると、そう思っていた。

 正確無二過ぎる楽譜通りの演奏、無機質過ぎて感情が伝わってこない冷たい演奏、そんな批評は今に始まったことではなく、向けられる称賛も批判も気にしたことはなかった。
 それならば何故俺はヴァイオリンを弾いているのだろうと、ふと疑問に思った途端、俺の右手も左手も、ピタリと止まって動かなくなってしまった。

 その日から俺は身の回りの整理を始め、そして一ヵ月後には日本に帰国した。
 幸い、ソロで活動していたため行動に制限はなく、演奏会の予定もCDの発売も予定には入っていなかったため、俺の帰国には何の問題もなかった。
 音楽を、ヴァイオリンを辞めるという考えは一切なかったが、このままヴァイオリンを弾いても何も意味を見出せないことは、自分が一番よくわかっていることだった。
 環境を変えたところでその意味は見つけられないかもしれない。だからただの逃げなのかもしれない。
 それでも俺は何かを変えたくて、それを生まれ育った日本に求めた。

 帰国して最初に向かったのは、星奏学院だった。
 学内コンクールやアンサンブルでの演奏会を通じ、俺は色々な仲間と出会い、色々な音楽に触れた。今思えばあの頃の経験が、目の前に既に出来つつあった音楽への道を、自らの意志で歩き始めたきっかけだったように思う。
 あの頃は必要なものとは認識していなかったが、俺はこの学院での生活で大切なものを手にし、それが今に繋がっている。
 だから今、もう一度この学院に来てみたかった。明確な答えではなくても、ここには何かヒントがあるような気がした。

 正門を潜ると妖精像が迎えてくれる。
 キラキラとした光がそこかしこで瞬いたような気がするが、小さなファータたちの姿はもう見えない。
 そのまま真っ直ぐ歩いていくと、あちらこちらから楽器の音が聴こえてくる。こんな風に音楽があふれた場所だったのだと、離れてみて初めて気付くこともある。
 その音を聴きながらエントランスを通り、職員室へと向かう。
 記憶にある校内が現実と重なり懐かしく思うが、でもどこか違って見えるのは視線の高さが違う所為だろうか。

 ほぼ10年振りに懐かしい人たちと再会し、俺は講堂の使用許可を取り付けた。
 ヴァイオリンを弾く場所が他にない訳ではもちろんない。ただ狭い練習室にこもっていても状況はウィーンにいた頃と何も変わらず、どこか違う場所と考えてふと思い出したのがこの講堂だった。
 音楽を奏でること、聴かせることを目的に設計されたその場所は、今の俺にはもしかしたら相応しくないのかもしれない。それでも、何のために弾いているのかわからなくても、音を響かせたいという思いはある。

 生徒の出入りが自由なこの場所も、授業中となれば流石に誰もいない。だから余計に自分の気配が目立つような気がしてゆっくり扉を開けると、無音だと思った講堂からピアノの音が聴こえてきた。
 瞬間、音しか存在しない世界に突き落とされたような錯覚を覚える。
 激しい旋律を一気に駆け抜け、まるでその激しさが夢か幻のように凪いだ音色へと変わり、そして余韻を残して世界から音が消えた。

 無音の空間に戻ってきた音は、椅子が床を蹴るようなガタリという音と、俺の名前を紡いだ声だった。
「月森…蓮…?」
 その声の主に視線を向ければ、驚き顔で相手も俺のことを見ていた。視線だけではなく、顔を上げないとその顔を見ることは出来ず、俺はいつの間にか講堂の中へとだいぶ足を踏み入れていたらしかった。
「君は?」
 問いながら、その距離を意識的に縮めるように歩き出す。話をするにはまだ少し遠過ぎる。
「土浦、梁太郎です。授業が自習になったから…」
 名乗った後にはまるで何か言い訳をするような言葉が続いた。だがその声は高校生にしては落ち着いていて、焦っているようには感じなかった。
 授業中なのだとわかっていて扉を開けたはずなのに、ピアノの音色を聴いた瞬間にその事実を忘れていた。
 ピアノのある舞台へと近付けば、今度はその高さで距離が出来る。だから俺は迷わず舞台への階段を昇った。
「君は普通科の生徒なのか?」
 土浦と名乗った生徒の傍まで歩み寄り、その制服が自分が着ていた音楽科のものではないことに初めて気付く。
「普通科の生徒がピアノを弾いてはいけませんか?」
 不意に、その表情があからさまに不機嫌そうなものに変わり、声音もワントーン下がる。
 言葉を思ったまま声に出してしまうと相手を不快にさせるのだと自覚していても、それに代わる言葉を俺は持っていないし口に出した時点でもうなかったことには出来なくなってしまう。
「いや…、ただ、もったいないと思っただけだ」
 どう言ったらいいのかわからず、俺はやっぱり思ったままを言葉にした。本当にもったいないと思った。在学中にもピアノの上手い生徒はいたが、彼の演奏はそれに劣らない、むしろ更に実力は上なのではないだろうか。
 そして俺は高校のときに開催された学内コンクールを思い出す。普通科から唯一選ばれた彼女に対し、俺はどんな態度で接していただろうか。周りの態度はどうだっただろうか。俺が偽りだと思っていた彼女の音楽を認めたのは、いつだっただろうか。
「誰もいない講堂で弾いているのはもったいない」
 プロの演奏を何度となく聴いているが、それとはまた別の意味で彼の演奏をすごいと思った。少し感情的過ぎる気もするが、それもまた彼の個性なのだろう。
 その演奏が誰に聴かれることもなく響き渡っていることをもったいないと思う。ただの趣味とは思えないその演奏技術を、こんなところで埋もれさせてしまうのは本当にもったいない。
 いや、それとも何か事情があるのだろうか。ただ普通科に在籍しているだけで、本当はきちんと音楽への道を目指しているのだろうか。
「月森さんだって、誰もいない講堂に弾きに来たんじゃないですか?」
 そんな風に考えていると、彼の視線は俺の右手に握り締められたヴァイオリンケースに目を向けられた。
「それとも、ここで演奏会を開くんですか?」
 途端、そのケースがやけに重く感じた。
「いや…」
 その言葉に対して、俺は短い一言しか返せなかった。
 確かに俺はここで弾いてみようと思って訪れた。だからヴァイオリンも持ってきた。だが今、誰かに聴かせるような演奏など俺には出来ない。
「俺は、ヴァイオリンを弾けないんだ」
 ゆっくり、持っていたヴァイオリンケースを床に置いた。離してもまだのし掛かるような重みを感じ、それを紛らわせたくて左手で右腕をぎゅっと握り締めた。
「それって……、っ…」
 どういうことかと続く予定だったのであろう言葉が不意に途切れ、何かを思い付いたようにまた俺の右腕に視線が送られる。だが、それを声に出すことは出来なかったらしく、動揺を表すように瞳が揺れていた。
「別に怪我をした訳ではない。ただ、弾けなくなっただけだ」
 きっとそんな誤解をしたのであろうと思い、俺はあっさり本当の理由を口にした。
 怪我という、そんな理由であったなら少しは楽だったかもしれない。だが、そんな理由では全くない。
 初対面の、まだ名前しか知らない相手に対して、正直に本当のことを話す必要はどこにもない。だが、ヴァイオリンを弾けない自分を言い訳で通したくなかった。この講堂いっぱいに響いた音色に対し、嘘はつきたくなかった。
「弾けない…ですか?」
 たぶん興味や好奇心というより、純粋に疑問を口にしたのであろう口調で尋ねられ、だからこそ俺はそれを不快に思うことはなかった。
 ただその疑問にどう答えたらいいのだろうと思ったタイミングで、講堂に授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「あ…」
 土浦の視線が音の出所であるスピーカーへと向けられ、焦ったように腕時計へと移動した。
「時間内に教室に戻らなくて大丈夫だったか?」
 彼の時間を邪魔してしまっただろうかと声をかければ、その視線は真っ直ぐ俺へと向けられた。
「たぶん大丈夫です。でも次の授業は自習ではないので戻ります。失礼します」
 小さくお辞儀をして、小走りに舞台を降りて行く。
「しばらく、午前中は講堂を借りているから…」
 その後ろ姿を見送りながら、俺は思わずそう叫んでいた。
 借りているから、だから何だというんだと心の中で思う。たぶん同じことを思ったのであろう彼は驚いたように振り返った。
 また来てほしい、またピアノを聴かせてほしい。そんな言葉が心を過ったが、それを声に出すことは出来なかった。
「また、自習の日があったら来ます」
 そんな俺の代わりに、笑顔で真っ直ぐな言葉を残して、彼は講堂を去っていった。

 扉が閉まれば、途端に空間は無音になった。
「土浦、梁太郎…」
 その静けさの中に覚えたばかりの名前が小さく響いて、俺は無意識にその名前をつぶやいたのだと気付いた。
 初めて口にした名前なのに、何故かよく知っている名前のように感じた自分を不思議に思った。そして、その名前がピアノの音色とともに心に刻まれたことを知った。
 もう一度、土浦のピアノを聴きたい。
 さっき声にならなかった気持ちが、より明確な望みとなって心に湧き上がった。
「土浦梁太郎」
 俺は無意識にではなく、その名前を講堂に響かせた。



2014.4.1up
勝手にエイプリルフール企画第2弾で
社会人なLと高校生なRの歳の差設定です。
1年前から書いているのに、出会いまでしか書けてません^^;;;