TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

霧らふ旋律2

 それから、星奏学院にはほぼ毎日、通っていた。
 ここで土浦梁太郎という生徒のピアノを聴いてから、俺はヴァイオリンよりもピアノを弾くことの方が多くなった。
 同じ曲を弾いても彼と同じ旋律にはならず、違う曲を弾けば、どう弾くのだろうと考える時間が不思議と楽しかった。
 自分の音に疑問を持った今、土浦の演奏はとても新鮮だった。本音を言えば、少し感情的過ぎて好ましいとは思えない弾き方なのだが、技術は申し分なかったし、こんなにも印象に残っているということは、その演奏にそれだけの力があったということだ。
 はたして俺の演奏にはそれだけの力があるのだろうか。俺の演奏は人にどんな気持ちを抱かせているのだろうか。
 そう思うと、奏でる手は更に動かなくなった。

 講堂の舞台から客席を見渡してみる。誰もいないその席はただ広く静かで、自分は舞台の上に立っていていいのだろうかと思う。
 俺はこれまで、何を考え、何を思ってヴァイオリンを弾いていたのだろう。自分のことなのにそれがわからない。
 人前で弾くことを仕事にしながら、俺は聴く人のことを何も考えていなかったのかもしれない。そんな俺がヴァイオリンを弾くことに何の意味があるというのだろうか。
 今更過ぎるその疑問に、俺は苦笑いが込み上げてきた。だが、本当に今更過ぎて、笑えない。

 ヴァイオリンを取り出し、構える。
 この舞台に初めて立ったのは入学式のときだ。新入生代表としてここでヴァイオリンを弾いたが、何の曲を弾いたかは覚えていない。だが、あの頃から聴く人のことなど考えていなかったことは思い出せる。
 曲のことは考えていた。どう弾くべきか、どう奏でるべきか、この曲はどうあるべきかと。だが、どう聴かせようと考えたことは今まで一度もない。
 弦に弓を滑らせれば音は出る。だがそれはただの音でしかなく、ただ無意味に響き、そして消えていく。
 それは曲を奏でても同じで、俺は最後まで弾くことが出来ずに途中で弓を下した。

 そのタイミングで講堂内にチャイムの音が鳴り響き、その音はヴァイオリンの余韻を消してくれた。
 授業の終わりを告げるためのチャイムに倣い、俺は休憩をとることに決めた。ほとんど弾いていない状態で休憩も何もなかったが、今のまま弾き続けても結果は何も変わらないことは自分が一番よく知っている。それならば少しでも気分を変えたほうが得策だ。
 ヴァイオリンをケースにしまい、その場で目を閉じる。広い講堂内は無音で、空気が少し重たく感じられる。それは演奏前の緊張感にも似ているが、いうものように気分が高鳴ってくることはなかった。
 演奏前の緊張感は嫌いではない。それはそれまでの自分をすべて出しきるための瞬間だからだ。だが今、目の前に広がるのはただの暗闇で、自分のすべても進むべき道も何も見えない。
 暗闇から逃れるように目を開けても無数に並ぶ無人の客席がそこにあるだけで、やはり音も高揚感も未来も何もない。もしも今、この客席が満席だったとしても、俺の気持ちは変わらないような気がする。
 俺は一体、何のためにヴァイオリンを弾いてきたのだろうか。何度、自問自答しても、その答えが見つけられない。

 しばらく無人の客席を眺めていればまたチャイムが鳴り響き、俺はここでもその区切りに倣うことにして休憩を終わらせた。
 ケースからヴァイオリンを取り出して構え、もう一度、さっきと同じ曲を弾き始めた。
 誰も居ない講堂内に、ヴァイオリンの音が響き渡る。だがそれはチャイムの無機質な音が鳴り響いたのと変わりがなく、相変わらずただ決まりきった音が流れているだけだった。
 今は誰も聴いてはいないが、こんな音を聴いて誰が楽しいと、嬉しいと思うのだろうか。俺の音に、聴かせるだけの価値があるとは思えない。
 それならばよっぽど、土浦のピアノを大勢の人に聴かせるほうがいい。この講堂に響き渡ったあの旋律を、誰も聴いていなかったのは本当に惜しい。
 もう一度、聴きたい。そして土浦の弾くピアノに合わせてヴァイオリンを弾いてみたい。俺の弾き方とは正反対過ぎて合わなさそうだが、それでも、一緒に奏でてみたい。
 そう思った途端、耳に届く自分のヴァイオリンの音が、その響きを変えた。
 心の中に、今までに一度も感じたことのない何かがあふれてくるような気がする。それはが何なのかよくわからなかったが、俺はずっとそのあふれてくるものを感じながら、曲を最後まで弾き切った。

 弓を下し、肩からヴァイオリンを外すと、誰も居ないはずの客席の奥から拍手が聞こえてきた。
 あわてて拍手する方へと視線を向ければそこに人影が見えたが、遠くて薄暗いため顔がはっきりと見えない。
 今の俺の演奏を誰かに聴かれていたのだと思うと心臓がヒヤリとする。だが、率直な意見を聞きたい気もする。
 無言で暗闇の人物をじっと見つめていれば、その人影はゆっくりとこちらに歩いてくる。
 最初に俺の目が認識したのはスラックスの淡い色で、次第にジャケットの濃グレーが現れ、見覚えのある顔がはっきりと見えた。
「土浦君…」
 先日、ここで会ったときとまるで逆の状況に、そして俺がヴァイオリンを弾きながら思い浮かべたその人物の登場に驚きながらその名を口に出す。
「また自習になったので来てみました」
 初めて会ったその日、去り際に見せたものと同じ笑顔を土浦は俺に向けていた。
 自習などそうそうないだろうし、もう会うことはないかもしれないと思っていたのに、ただその場の口約束で終わらせずに来てくれたことを嬉しいと思う。
「ヴァイオリン、弾けるようになったんですね」
 舞台へと上がってきた土浦の言葉に、それまで感じていた嬉しさは吹き飛び、聴かれていたのだと気付いたときと同じ、ヒヤリとした感覚がよみがえってきた。
「弾けて…いただろうか…」
 それは問いかけというよりも、独り言だった。弾けてなどいない。弾く、という行為は確かに出来ていたと思う。だが、曲は奏でられていない。ただ、曲を弾いただけだ。
「曲は弾けてました。でも、そういうことじゃないってことですか?」
 返ってきたその答えに、俺はジッと土浦の顔を見つめた。彼は俺が言う”弾けない”という言葉の意味を理解しているようだ。
「もしそうなら、…俺みたいなやつが言ったら気を悪くされるかもしれないですが、弾けてなかったって、俺は思います」
 はっきりと、俺自身がわかっていて、他の誰かに言われたくないと思っていたことを、土浦は本当にはっきりと口にした。だが不思議と、嫌な気分にはならなかった。それは変に取り繕われなかったからかもしれない。
「プロとしてヴァイオリンを弾いている俺が今更何を言っているんだと思われるかもしれないが、ヴァイオリンを弾いている意味が分からなくなってしまったんだ」
 こんなことを2回しか会ったことのない、それもずいぶん年下の高校生に話すことではないとわかっているはずなのに、俺はまた正直に自分のことを話してしまっていた。
「いや、すまない。愚痴を聞かせたかったわけではないんだ。気にしないでくれ」
 急にこんな話をされても困るだろうと思い、俺はすぐに謝った。すると、さっきの言葉には表情を変えなかった土浦が、今度は驚いたような表情を見せた。
「いえ…。こちらこそ生意気なことを言ってすみません。でも俺、弾けてなかったって言いましたけど、途中から、弾き方が変わったなって思ったんです。それはちょっと、いいなって思いました」
 弾き方を変えたつもりはなかったが、途中から響きが変わったことは自覚があった。俺の気持ちが弾き方を変えたということだろうか。
「あのとき、君のピアノを思い出していたんだ」
 今でも心に残る、誰も居ない講堂に響き渡っていた、激しさと緩やかさを兼ね備えた俺とは全く異なる音色。警戒心をむき出しにしたような不機嫌な表情。そして去り際に見せた、屈託のない笑顔。
 思い出すそれらは、とても鮮やかな記憶として残っている。
「俺の、ですか?」
 さっきよりも驚いたような顔を、土浦は真っ直ぐ俺に向けてきた。その容姿と口調、そして意志の強そうな瞳のせいで高校生のわりに大人びた印象を受けていたが、素で表れたのであろうその表情は年相応に思えた。
「俺もピアノを弾くが、俺の弾き方とはまったく違う。このところ、君のピアノの音色をよく思い出す」
 ヴァイオリンを足元に置いたケースにしまい、ピアノへと歩を進める。ヴァイオリンを弾く前に弾いていたそのピアノは鍵盤蓋も大屋根も上がっているから準備はすでに整っている。
 俺が思い出すその曲を軽く弾き始めると、土浦は驚き顔のまま、ただ黙って俺の演奏を聴いていた。

 弾き終わっても土浦はまだ驚き顔でさっきのように拍手をしてはくれなかったが、軽く弾いただけだし別に気にはならなかった。
「君はなぜ、ここでピアノを?」
 だからずっと気になっていて聞けなかった質問を投げかけた。
「この間も言ったが、 俺はもったいないと思う」
 好き嫌いはあるのだと思うが、人を惹きつけるような演奏だった。それは俺の演奏にはないものだ。
「君の演奏にはちゃんとピアノへの思いが込められていた。それに、毎日ちゃんとピアノを弾いていないとあの演奏は出来ないだろう」
 でも彼は、この星奏学院に通いながらも、音楽科ではなく普通科に在籍している。何か事情があるのかもしれないが、 それでも俺には彼が本格的に音楽をやらないことが不思議でならない。
「ピアノは好きです。でも、音楽は競争するものではないですから」
 俺の投げかけた疑問に、土浦は前と同じように不機嫌そうな表情で、少し冷めたような言葉を返してきた。
「評価なんて、誰かの思惑で直ぐに正当性が失われる。それなら、誰とも比べられることなく一人で弾いていたほうがいい」
 まるで吐き捨てるようなその言葉に、こんなにも上手いからこそ、過去に何かがあったのだろうと思った。
「月森さんは、コンクールで数々の優勝を手にしてますよね。そうやって今の地位を確立して、でも今は弾く意味がわからないなんて言ってる。コンクールに出ていたときは優勝っていう明確な理由があったのに、今はそれがないから意味がわからなくなってるんじゃないですか」
 それはとても辛辣な言葉だった。そしてそれは真実なのだと気付かされた。
 音楽一家に生まれ、弾けるのが当たり前、コンクールに出れば入賞するのが当たり前と言われていた俺は、それらの言葉を現実にしてきた。いや、俺はそれを現実にしなければいけなかった。弾けない自分など、優勝できない自分など、一切の価値がないからだ。
「簡単に優勝出来るほどの才能を最初から持ってるから、弾くことの意味なんて考えなくても弾けるから、大切なことに気付かないんだ。そんな奴が人を評価するから、音楽が一部の人間だけのものになって、その価値観が違えば簡単に外される」
 土浦の顔はもう、不機嫌を通り越して怒りをあらわにしていた。そんな土浦の言葉に、やはり俺はヴァイオリンを弾けなくなったら価値のない人間なのだなと改めて思った。
 物心がついたころにはもうヴァイオリンを弾いていた俺は、確かに音楽を始める環境には恵まれていた。ゼロから始めた人と比べればその差は歴然としていて、最初から持っているものが違うと言われることは仕方ないことかもしれない。だが、ヴァイオリンの練習は欠かさなかったし、コンクールに出場するための努力を惜しんだこともない。それでも言われるのだ、最初から才能があるのだから簡単に弾けるのが当たり前だと。だから俺は更に努力した。弾けることが当たり前になるように、ヴァイオリニストの月森蓮を作り上げてきた。
「君には何かしら、正当な評価を受けなかった過去があるんだろう。どんな過去があったのか俺は知らない。だが、それを覆さないのはただの逃げで、ただの言い訳だ」
 大した努力もしていないのに、才能がないから弾けない、才能のあるやつにはわからないと言う人たちを、出来ないことを、自分の非を認めない人たちをたくさん見てきた。土浦は、彼らと一緒だ。ピアノを弾けるのに、弾くための努力をしていない。
 いや、もしかしたらそうではないのかもしれない。努力をしても、ダメだったのかもしれない。諦めざるを得ない、何か重大なことがあるのかもしれない。だが、俺にはどうしても土浦がピアノに対して後ろ向きな姿勢をとっていることが許せなかった。
「俺は逃げてない。俺は、逃げたんじゃ、ない…」
 土浦はそう言うと、ぎゅっと唇を噛み締めて俯いた。それは、言葉では否定しても本当は逃げているのだと、まるでそう言っているような、わかっているけれど認められないような、図星をさされて悔しそうな、そんな態度だった。
「戻ります」
 しばらくそうして俯いていた土浦は、キッと顔を上げ俺を睨むと、短い一言を残して舞台から飛び降り、そのまま講堂の闇の中へと走って行った。俺は重い扉の向こう、明るい外へと飛び出していくまで、ただ黙ってその後ろ姿を見つめていた。

 扉が閉まり、講堂内に静寂が戻ってすぐ、俺はケースからヴァイオリンを取り出した。感情が高ぶっていて、冷静にヴァイオリンを弾ける気分ではなかったが、今、ここで弾かなくてはいけない衝動にかられ、その衝動のまま、弓を絃に滑らせる。
 技巧的な、難度の高い曲をわざと選ぶ。その演奏が、いいとか悪いとか、俺にはまったくわからない。だが、今まで幾度となく弾いてきたそれらと、まったく違うことだけはわかる。
 弾き終わっても衝動は治まらず、別の曲を弾き始めても気分が高ぶったままで気持ちが治まらない。次は何を弾こうかと考え、今度はあえて静かな曲を選んで弾いてみればそれはひどく、聴けたものではなかった。
 俺はこんなにも弱かっただろうか。どんなに感情的になったとしても、俺は俺の演奏をしてこられたはずだ。なぜ俺は、自分の演奏に疑問を持ったのだろう。ヴァイオリンを弾けない俺など、何の価値もないというのに。
 あぁ、図星をさされ、悔しかったのは俺だ。だから土浦を、才能がある土浦がうらやましくて、それなのにピアノと向き合っていない土浦に、八つ当たりをした。
 俺も、努力をしないで文句を言っている人たちと同じだったのだと気付き、土浦に申し訳ないことをしたと思った。自分がされて嫌だと思ったことを、ただの八つ当たりで土浦にしてしまった。
 きっともう、土浦は講堂には現れない。だからもう、土浦のピアノを聞くことは出来ないだろう。それをひどく、淋しいと思った。



2016.4.3up
勝手にエイプリルフール企画第2弾の
社会人なLと高校生なRの歳の差設定の続きです。
そしてまだ続いてしまいます^^;;;;;