『音色のお茶会』
緑の森に捉われて3
それから家路へとつく間も夕食の時間も、月森の思考からその人が離れることはなかった。部屋へと戻り、いつものようにヴァイオリンの準備をしたものの、掻き乱されたような思考のままヴァイオリンを弾くことは躊躇われるのか、楽譜を開いたところでその行動は止まっていた。
視線は開かれた楽譜へと向けられているのに、その目には音符の並びが全く入ってこず、メロディでさえ頭の中を流れてこなかった。
思い出せるのは向けられた笑顔と揺れる髪、そして心配そうな声とからかうような明るい声。
たったそれだけのことが今、月森の頭の中を占めていた。
「一体、なんなのだろうか…」
無意識につぶやきながら、置きっぱなしになっていたヴァイオリンへと手を伸ばした。
頭で考えるよりも身体が覚えているその姿勢を作り、ゆっくりとヴァイオリンを構え、そして弓をそっと弦に当てる。
次の瞬間、それまで静かだった部屋中にヴァイオリンの音色が響き渡った。
これは…!
月森は一瞬、驚いたように目を開いた。
思考は音楽よりも思い出すその人のほうが圧倒的に占めているというのにもかかわらず、今までで一番きれいな音色を奏でている。
それは何度弾いてもうまく弾けなかった曲のはずなのに、思い描く通りの音色で弾いている。
その音色に彼の人の笑顔と声が重なれば重なるほど、ヴァイオリンは更に思い通りの音色を奏で出した。
部屋の中はどこか物悲しく、けれど全てを許すかのような優しささえ感じる音色に包まれた。
その音色はどこまでも広がり、弾いている月森の心にもそっと溶け込んでいく。
そして最後の一音が、余韻だけを残して静かに消えていく。
部屋に静寂が戻ってもまだ、月森はヴァイオリンを構えたままその余韻に浸っていた。
望んでも望んでも手の届かなかった音色が今、自分のものになって、今まで納得ができなかったことが嘘のように思い通りの演奏ができた。
そう思うと月森の心の中は溢れてくるような満足感で満たされた。
けれど、その満足感を侵食するかのように困惑めいた感情も同時に湧き上がってきた。
それまで、何かを思って、何かを考えて弾いたことなどなかったから、それを手放しで喜ぶこともできない。
まるで自分の演奏ではないようで、まるで誰かに弾かせてもらったかのようで戸惑う。それもたった一度だけ、ほんの少し話をしただけの相手なのだから更に当惑してしまう。
その出会いも、演奏の出来も、ただの偶然だと片付けるには間が合い過ぎている。
だからもしも出会わなければ永遠に弾けなかったのかとも考えてしまう。
月森のヴァイオリンを持つ手が微かに震えた。
「違う、ただの偶然だ…」
まるで言い聞かせるかのように口を付いて出た言葉は、けれど強く言い切ることが出来なかった。
もう一度、弾いてみようとヴァイオリンを構えてみるものの、弓を持つ手が震えて弾くことができない。
頭の中から離れない笑顔と声を思って弾いたからなのか、それともただの偶然なのか、それを確かめようと思うのに身体が動かない。
確かめて、偶然ではないとわかってしまったら、その存在なしには演奏ができなくなってしまいそうで怖い。
そう思うことがすでに偶然ではないと認めているのだと、気付きながら気付かないふりをする。
そんな気持ちを振り払うように首を振ってみても、気付いてしまったその考えは消えてはくれない。
揺れた自分の髪が頬へと触れ、その感触が揺れた緑の髪を思い出させてしまう。
その深い緑色が、月森の心をざわつかせた。
あの髪に、触れてみたい。
「この気持ち、は…」
それが何を意味するのか、わからないほど月森も鈍くはない。けれど、続く言葉を口に出すことは出来なかった。
ざわついた心の反対側で、煩いくらいに警鐘が鳴り響く。
心が捉われ、そして気付いてしまった自分の気持ちと、それに対する警鐘が意味するところを、月森はぎゅっと目をつぶって考えないようにした。
それからの月森は、森の広場とグラウンドへはあまり行かなくなった。
それはこれ以上心を乱されることを本能的に避けたのか、ただの逃げだったのか。
どちらにしても、会わないほうがいいと思っていた。
幸い、音楽科の生徒ではなかったらしく、普段の学校生活の中で二人が顔を合わせることもなかった。
それでも月森の視線は無意識にその人を探してしまう。そんな自分に気付くと、どうしようもなく気持ちが沈んでいった。
だから気付いた気持ちに鍵をかけ、今まで以上に心を閉ざした。
練習に練習を積み重ね、ヴァイオリンの技術を磨き、楽譜に書かれた音符のひとつひとつを追い、その曲を奏でる。
他人の目は気にしない。他人のことも気にしない。自分を貫き通せば、自分の音が誰かに影響されることはない。
月森のヴァイオリンはそれまで以上の演奏技術で奏でられ、その音色は異彩を放つ。
賞賛と嫉妬の入り混じった噂が、月森自身とは関係ないところで広がっていく。
その噂は、普通科の生徒にも徐々に広まりつつあった。