TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

緑の森に捉われて2

 それからというもの、月森は森の広場へ足を運ぶことが多くなった。
 森の広場で過ごす時間は練習の息抜きにもなると同時に、いろいろな音に触れる機会にもなった。
 木々が葉を揺らす音、小鳥のさえずりとはばたき、人々のざわめき、様々な楽器の音色、風に運ばれてくるグラウンドからの歓声、それらが混ざり合って作られる独特の音が広場全体に溢れている。
 それまではあまり気に留めておらず、逆に雑音とさえ思っていたそれらの音が、そんなに悪いものでもないのだと初めて気が付いた。
 木陰の空いたベンチに腰を下ろし鞄の中から楽譜を出す。しばらくその表紙を見つめてから広げると、風に煽られてバサバサと紙特有の音を立てた。それを飛ばないように軽く押さえながら、何度も何度も弾いているその楽譜を更に見つめる。
 いくつもの書き込みがされているのは、それだけその曲を何度も何度も弾いた証だった。
 様々な演奏家のCDを聴き、自分なりの解釈と弾き方は見えてきているのに、実際に演奏すると思ったように弾けず、まだ納得のいく仕上がりにはなっていなかった。
 一通り楽譜を読みながら頭の中でその曲を演奏していく。思い描く音色はやわらかく、けれど今までの練習で奏でてきた音はそれには程遠いものだった。
 納得がいかないならば練習するまで。そう思った月森はそっと楽譜を閉じ、もう一度鞄にしまった。
 思ったよりも風が強く、室内に戻ろうと歩みを進めたとき、グラウンドの歓声が風に乗って一際大きく聞こえた。
 その歓声に思わず足を止め、振り返ってもグラウンドが見えるわけではない。だからもう一度その歩みを再開させたものの、何か後ろ髪を引かれる思いがするのか歩みの速度は上がらない。
 小さい頃から音楽一筋で来たため、運動部への興味は特段なかった。それでも、今までなら気にも止めなかったようなその歓声がなぜか気になって、月森はその気持ちを確かめるべく逆にグラウンドへと方向を変えて歩き出した。


 グラウンドではサッカーの試合が行われていた。
 月森は開いた席へと座り、周りへと目を向けた。
 授業以外であまり赴くことないその場所は、何かとても新鮮な感じがした。
 試合でコートを駆け回る生徒、観客席から応援を送る生徒、それは授業中とは違う真剣さと活気に溢れている。
 今まであまり馴染みのなかったその光景と雰囲気は少し不思議な感じがした。
 試合に目を向けると、その視界をサッカーボールが横切り、無意識にそのまま目で追ったそのボールは、真っ直ぐにゴールへと吸い込まれていく。
 瞬間、空気の震えが伝わるほどの歓声が上がった。
 ゴールを決めたであろう生徒へと視線を動かすと、見覚えのある緑の髪が月森の目に飛び込んできた。
 それなりに離れた距離の中、それも何人もの生徒がいる中で、一人だけがまるで目の前にいるかのように鮮明に見える。
 この前の…。そう思った瞬間、目の前で揺れた髪が、真っ直ぐに向けられた笑顔が、ただほんの少し話しただけのその声が、月森の脳裏に蘇ってくる。
 思わず立ち上がり、走り回るその姿を無意識に追いかけながら、出会ったその日のことを思い出していた。他人に対してそれほど興味を持つことは少ないのに、やけに印象に残っていることが不思議に思われた。
 助けてもらったという、その状況の所為もあるのかもしれない。けれどそれだけではない、何かがあるように思えてならない。
 それが何かを確かめるようにその姿だけを目で追いながら、ふとどうしても思い出せないことに気付いた。
 その表情や声は思い出せるのに、その人を表現するためのそれ以外のことを全く憶えていない。
 その会話の中で敬語を使った記憶はなく、それならば少なくとも先輩ではないと認識していたのだと思っても、何をもってそう認識したかが分からない。それは見てすぐ分かる制服のタイの色だったのかもしれないが、もしそうだとしてもそれが音楽科だったのか普通科だったのかそれすら思い出せない。それより前に制服だったのか、今みたいにジャージだったのかも覚えていないことに気付いた。
 けれどその笑顔と声ははっきりと覚えている。そして何よりも、揺れる緑の髪がまるで脳裏に焼きついているかのように鮮明に思い出された。
 はっきりと思い出せる部分と、まるで靄にでも包まれたかのように思い出せない部分とが混ざり、月森の記憶を混乱させる。
 そして思い出せないことがすごく気になって、悔しくて、なぜか変な痛みを感じて胸の辺りをぎゅっと握り締めた。
 その握り締めた手を解くこともなく、長いホイッスルが試合の終了を告げてもまだ、月森の視線はグラウンドを見つめ続けていた。


 下校のチャイムが学校中に響き渡り、月森はやっとその視線をグラウンドから外した。
 辺りを見回せば、さっきまで大勢の生徒がいたと思っていた観客席にも、数人の生徒しか残っていない。
 整備も終わり誰も居ないグラウンドには、夕日が作る長い影だけが静かに横たわっていた。
 月森はずっと追っていたと思った生徒の姿がそこにないことに気付き、けれどいつ自分の視界からいなくなったのかも思い出せなくて困惑した。
 その視線で追いかけるより、いつの間にか考え事に耽ってしまっていたらしい。
 物にしても人にしても、それほど執着がないという自覚はあった。だから音楽以外のことでこんなにも何かを深く考えることなど、今までほとんどないに等しかった。
 何が気になったのか、何がそんなにも自分の中に印象付けられたのか、わからない。
 別に特別な出会いをしたわけでもなく、時間にしてほんの数分、交わした言葉もたった二言三言でしかなかったはずだ。
 名前も知らない、学年もわからない、音楽科なのか普通科なのかすらわからない。それなのに心から離れていかないのは何故なのだろうか。
「君は一体…」
 無意識につぶやいた言葉は風にまぎれて誰にも届かない。
 誰もいないグラウンドから風が吹いて、月森の髪を揺らした。