TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

緑の森に捉われて1

その森に足を踏み入れてはいけないよ

緑の森に捉われたら出て来られないよ



 新緑のまぶしい5月。
 その日も星奏学院の練習室にヴァイオリンの音色が響き渡っていた。
 音楽科1年の月森蓮。
 まだ学院に入学したばかりだというのに、彼の噂はその実力とともに音楽科の生徒の間で急速に広まっている。
 コンクールへの出場経験に比例するような受賞の数々という輝かしい経歴と実力、音楽一家に生まれ、有名なピアニストの息子という家庭環境がその噂にいい意味でも悪い意味でも拍車をかけていた。
 近寄りがたい雰囲気を纏わせたその立ち姿で奏でるヴァイオリンの音色は、その噂を裏切ることなく練習室中の空気を震わせている。
 防音の効果で部屋から音が漏れることはないが、ドアのガラス窓から見える姿に通る人は皆、羨望とも嫉妬とも取れる眼差しを送っていた。
 ある者は素晴らしい音色だと賞賛し、またある者は冷たい音色だと批判する。
 当の本人は向けられるどんな視線も感情も気にすることなく、ただ一心に練習を続けていた。

 練習室に響き渡るヴァイオリンの音色が、何の前触れもなく、曲の途中で不意にその響きを止めた。
 ため息交じりにヴァイオリンの弦から弓を離した月森の表情は苦々しく、眉間には皺が刻まれている。
 納得のいく演奏ができない。
 ヴァイオリンを見つめたまま、月森はもう一度ため息をついた。
 繰り返し繰り返し何度も弾いていたその曲は、弾き方を変えても、解釈を考え直しても、何度も何度も練習しても納得のいくものにならない。
 それはあともう少しで掴めそうなのに掴めない距離にあって、見えているのに辿り着けないゴールの様で、何かが足りていないような気がした。
 そのまましばらくヴァイオリンをじっと見つめ、もう一度ため息を落とすとそれを机の上にそっと置き、ゆっくりと窓際へと向かう。
 そのガラス越しに見える木々は風に吹かれ、その葉は枝ごとゆらゆらと揺れていた。
 小さな窓を隔てた外の世界では新緑の淡い緑が揺れているというのに、こちらの世界の空気は重く、まるでどんよりと滞っているようだった。
 その差が居たたまれなくなって窓ガラスを開けると、爽やかな春の風が練習室中を包み込んだ。
 その風を受けながら目を瞑り、ゆっくりと息を吐くと少し気持ちが落ち着いたような気がした。
 頭の中に今まで弾いていた曲を思い浮かべた。技術的というよりは情緒的なその曲をとても気に入っていて、いつか弾いてみたいと思いながらもなんとなく弾く機会がなく、ずっと楽譜だけが本棚にしまわれていた。それをつい最近見付け、どうしても弾きたい気持ちが止められずに練習を始めた。
 けれどその弾きたい気持ちとは逆になかなか自分の思い通りの音が出せず、ここ何日も同じところで躓いている。
 小さくため息を落とすと、その気持ちを切り替えるように深く息を吸い込んだ。
 ザワザワと、木々が風に揺らされて音を立てる。葉の揺れる音に様々な楽器の音や人の声が混ざる。
 ゆっくりと目を開け、窓を少しだけ閉めてヴァイオリンの元へ戻り、ゆっくりと構えて練習を再開させる。
 それまで練習室にだけ響いていた柔らかな音色が、外へと流れ出した。
 弾き始めの音は悪くない、月森はそう思った。今まで一番、綺麗な音が出たような気がした。
 けれど、そう思ったのは本当に最初だけで、途中から心のどこかに納得できない、満足できない思いが溢れていった。それは曲が進むにつれ益々増えて月森の心を占めてく。ついにはそのまま弾いていることができなくなり、また曲の途中で弓が止まってしまう。
 ヴァイオリンを構えたままの姿勢で、弓は弦の上に乗せられたままだったけれど、これ以上その弓を動かすことができなかった。
 こんな風に弾けなくなることなど、今まであまりなかったと思う。練習が何よりも全てで、その練習を重ねていけばいつかは自分なりに納得できる音を、音色を出すことができた。それなのに、今はどうしても思い通りの音が出せない。
 ここまで弾けなくなると何をどう弾いても巧くいかないと諦め、ヴァイオリンの手入れをし、そのままケースにしまった。
 予約時間より少し早めに練習室を後にすると、気分を変えたくて森の広場へと足を向けた。


 森の広場には多くの生徒が思い思いのことをしていた。
 ベンチで友達と談笑する者、数人で集まって合奏をしている者、春の日差しを受けてうたた寝する者、体力を持て余すようにふざけあう者…。
 そんな生徒たちをなんとなく見ながら、月森は人混みを避けるように木々が集まる広場の隅の方へと向かった。
 まだ春らしい柔らかな色の葉が茂った木々は、夕日と呼ぶにはまだ早い太陽の光を眩しくない程度に遮ってくれている。
 風が吹くたびに、葉の隙間からまるでこぼれくるかのような光がゆらゆらと地面を照らしていた。
 その穏やかな光の下で月森は足を止め、握られたヴァイオリンケースを見つめた。
 気分転換にと訪れていても、やはり考えるのは曲のことになってしまう。
 この曲をコンクールなどで弾こうと考えているわけではないため、仕上げるのに時間的な制限はなかった。けれど、いつまで経っても思い通りに仕上がらないことが月森の気持ちを焦らせていた。
 焦れば焦るほど弾けなくて、考えれば考えるほど更に弾けなくなる。
 今日、何度目かになる小さなため息を落したそのとき、
「危ないっ!」
 ザワザワとした木々や人の声に混ざって、月森の耳に真っ直ぐな声が飛び込んできた。
「え…」
 その声に惹かれるように顔を上げると、その視界が急に何かに遮られた。
 目の前で、まるで木々の葉のような緑の髪がふわりと揺れたその瞬間、その身体が軽くぶつかって、月森はよろけるように後ろへ一歩下がった。
「すいませーん」
 遠くからそんな声が聞こえ、走っているのであろう足音が聞こえる。
「ったく、気を付けろよ」
 目の前に立ちふさがった人物は、そう言いながらすっと右手を上げた。
 月森は遮られた視界の向こうで何が行われているのか分からないまま、その右手が投げた白いボールが飛んでいくのをぼんやりと見つめていた。
「悪ぃ、ぶつかった。大丈夫か?」
 放たれた白いボールと振り返って言われた台詞で、自分に向かってボールが飛んできていたのだと理解した。
「…。あぁ…すまない」
 突然のことで、一瞬、何を言うべきなのか思い付かなかった月森は、そう一言だけ返した。
「手、怪我してないか?」
 真剣な顔で言われ、ヴァイオリンケースを握り締めていた手へと視線を落とした。
「ヴァイオリンだよな…マジで手、大丈夫だったか。ボールにはぶつからなくてすんだけど、俺がぶつかっちまったら意味ないよな…」
 相手の視線も自分の手に注がれているのを感じながら、もしも気付かずボールがそのまま当たっていたらと、そう思ってヒヤリとした。
「あぁ、大丈夫だ」
 なんでもないことを確認するように握り締めた手を開き、その視線を目の前の人物に向けた。
「よかった。でも、ぼんやりしてんなよ、危ないぜ」
 少しからかうような言葉に腹を立てかけ、けれど向けられた笑顔にそんな気持ちは一瞬にしてかき消されていた。
「じゃあな」
 無事を確認して安心したようにもう一度笑顔を向けてからその場を後にしたその後姿を、印象的な夏を思わせる深い緑の髪を、見えなくなるまで見つめ続けていた。
 少し強めの風が吹き、短いはずの緑の髪がふわりと、やわらかく揺れたように月森には見えた。