TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

黒猫の魔法21

「ただいま、エーデルシュタイン」
 それぞれの想いを告白しあったあの日から、毎日繰り返されるこの挨拶の意味が少しだけ変わった。
 こうやって名前を呼ぶことが土浦を猫へと変えていたのだと教えてもらったが、土浦にかけられていたというその魔法はあの日を境に解け、今はもう猫へと意識が変わることはないのだという。
 名前を呼ぶことが、土浦との距離を少しずつ縮めるきっかけになっていた。名前を呼ばなければ、土浦が傍にいることはなかったはずだ。
 そう思えば、もう土浦の意識がエーデルシュタインに変わることがないのだとわかっていても、どうしてもその名前を呼びたくなってしまう。
「エーデルシュタイン」
 名前を呼びながら抱え上げて部屋へと向かうと、その小さな身体は腕の中に納まりおとなしくしている。そっと撫でれば目を細め、強請るような仕草で見上げられた。
『蓮…』
 そして、聞こえるはずもない土浦の声が頭に響く。
 けれどそれは土浦から呼ばれるはずのない呼称で、でもその響きは何故か心に残っていた。
(俺はいつ、そう呼ばれたのだろうか…)
 記憶を手繰り土浦との会話を思い出してみても、呼ばれるのは月森という苗字ばかりで蓮という響きに辿り着かない。でもやはり呼ばれた記憶は心にあるらしく、思い出そうとすれば胸の辺りがあたたかくなったような気がした。
 考え事に意識を向けていれば、エーデルシュタインは腕をすり抜け、いつものようにピアノの椅子へと飛び乗ってしまった。足を揃えた綺麗な姿勢でそこへと座り、さっきと同じように見上げられて不意に記憶がよみがえった。
 好きだと、そう告白してくれた土浦が呼んだのは、『蓮』という名前だった。
 そういえば、あの日の会話で何度か蓮と呼ばれているような気がする。そのときは一瞬、違和感を覚えたものの、それ以上に気持ちが焦っていてあまり深く考えずに聞き流してしまっていた。
 あのとき、土浦が名前で呼んできたその理由を考え、もしかすると土浦は、月森という名前よりも先に蓮という名前を知っていたのかもしれないと思った。
 月森という名前に少なからずネームバリューがあることを自覚しているが故に、蓮という一個人としての名前を呼んでもらえたならばそれは嬉しいことだが、それが土浦だったことが嬉しい気持ちを倍増させた。名前を呼ばれることが、たったそれだけのことがこんなにも胸をあたたかくすることなど知らなかった。
 椅子の上でじっと見つめてくるエーデルシュタインの瞳を見返せば、初めて出会い、エーデルシュタインという名前を付けた日のことを思い出す。
 この瞳がまるで宝石のように思えて、エーデルシュタインという名前を付けた。そしてよく似た瞳を土浦から向けられ、心から離れなくなった。
 土浦はエーデルシュタインと呼ばれたことをどう思ったのだろう。どう考えても好印象を与えなかった初対面での態度を、どんな風に受け止めていたのだろうか。
(土浦の瞳に、俺は一体どんな風に映ったのだろう…)
 それを聞いてみたくて、だが少し怖い気もしてしまう。
(梁太郎…)
 今まで呼んだことのない、その名前を心の中でそっとつぶやく。
 声に出してももう、エーデルシュタインを通して土浦に伝わることはない。いや、もし伝わるとしても声に出すことはしなかっただろう。
 土浦がエーデルシュタインなのだとしても、それでも気持ちを伝えるのならば土浦本人に直接伝えたい。
 他の誰でもない土浦に、この想いを今すぐ伝えたいと思った。



『やっぱりおまえのことを選んだのは間違いではなかったな』
 交差点を渡るときから見えていた塀の上に座る黒猫は、傍を通りかかると楽しそうにそう話しかけてきた。
「これって、魔法が解けたってことなのか?」
 視線はそちらへ向けず、まるで独り言のように返事を返した。
 あの日、蓮に告白され、そしてかけられた魔法と自分の気持ちを蓮に告げてから、意識が猫へと変わることがなくなった。
『名前を付けてくれた人に愛されれば解ける魔法だからな。愛されているのだろう』
 なんでもなく言われたその言葉に、顔へと熱が上がっていくのを止められない。黒猫のほうを見ていたわけではなかったが、赤い瞳がじっとこちらを覗き込むように見ていることは、その視線の強さで感じられた。
 塀の上の黒猫を睨み上げれば、そんな視線など気にする風でもなく、チリチリと鈴を鳴らしながら並ぶように着いて来た。
 解けたとも解いたともはっきりとした言葉で言われたわけではなかったが、その言葉の意味と状況を考えればどうやら魔法は解けたらしい。
 自分たちは男同士という障害があり簡単に解けたわけでもなかったが、今まで誰も解いたことがないというのも少し不思議で腑に落ちない。何か裏があるのではと疑ってしまうのは、散々、そういう体験をしてきているからなのかもしれない。
「本当に、魔法は解けたんだな?」
 解けたのだと思わせて、実は解けていませんでした、などというオチが待っているような気がして確かめるように黒猫を真っ直ぐに見つめれば、楽しそうな歩行をピタリと止め、黒猫も真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
『おまえは愛を疑うのか? 愛した者を疑うのか?』
 真っ直ぐに向けられる赤い目がいつになく真剣で、その言葉はまるで心臓に突き刺さるかのようだった。
「そうじゃない。そうじゃないが、誰も解けなかったのになんでって、そう考えるのは仕方ないだろう」
 蓮の言葉も気持ちも疑ってなんかいない。自分の気持ちだって嘘偽りなどではない。
『この魔法が解けなかった理由は大きく分けて二つある。一つ目は単純に愛されなかった場合。二つ目は、選ばれなかった場合だな』
「選ばれない?」
 黒猫はそう教えてくれたが、二つ目の理由がよくわからない。選ばれないとはどういうことだろうか。
『唯一人を選ばないとこの魔法は解けない。この先、少しでも気持ちが揺れ動く可能性があれば、解けることは絶対にない』
 疑問に対する答えは続く言葉で理解したが、それはつまり、一番であり唯一であり、そして一生でなければいけないということだ。
(蓮にとっての一番も唯一も、俺ってこと、なのか…?)
 それに気付いた途端、一気に体温が上がり、これ以上ないってくらいに顔が熱くなった。
 それは嬉しい気持ちと、一瞬でも蓮の気持ちを疑って信じることが出来なかった自分を恥ずかしく思う気持ちからだった。
『おまえは本当に愛されているんだな』
 更に付け加えられたその一言に、顔へと上がった熱は更に下がらなくなる。
 そして、自分の中にも同じ想いがあることを改めて自覚する。
(俺も、俺も蓮が好きだ)
 あの日、蓮へと告げた言葉が、更に強い気持ちとなって心に浮かぶ。
(俺にとっての一番も唯一も、蓮しかいない。この気持ちは一生、変わらない)
 この想いを、今すぐ蓮に伝えたいと思った。



2011.11.23up