『音色のお茶会』
黒猫の魔法19
「お邪魔、します」小さくそう言った土浦の肩が、扉を閉めて鍵を掛けたと同時に震えたように見えたが、それに気付かない振りで土浦を家へと招き入れた。
一方的な約束にも拘らず先に待っていてくれた土浦に対し、沈黙と突然の告白という、どう考えても有り得ない対応をしてしまった。
土浦と歩くその空気感は何故か心地よく、ただ好きだと思う気持ちが心を占め、それ以外の言葉が何も出てこなかった。
土浦は驚きと困惑の表情を見せたが不思議と嫌悪を見せられることはなく、この気持ちをもう一度きちんと伝えたくて家へと誘えば、頷くだけの返事が返ってきた。
それからの沈黙はどこか気まずくもあったが、それでも土浦が嫌悪の表情を見せることは一度もなかった。いや、嫌悪だけではなく驚きも困惑も全てその表情から消えていて、何を考えているのか全くわからなかった。
「何か飲み物でも…。土浦?」
部屋へと案内し、ヴァイオリンケースを置いてから一度、部屋を出ようとすれば腕を掴まれて止められた。
「いや、いい。話の続き、聞きに来ただけだから」
そう言って真っ直ぐにこちらを見た土浦の表情から、前置きなど何もいらないのだとそう言われているような気がした。
土浦の表情に感情が戻ってきたことにほっとする。無表情の土浦は、土浦らしくないような気がして落ち着かない。
真正面に向き直れば掴まれていた腕が離されたが、視線はそのまま真っ直ぐに向けられていた。気持ちを誤魔化す気など最初からなかったが、この瞳に対し誤魔化しは効かないだろうと思った。
「さっきも伝えたが、俺は土浦が好きだ。君の音色に惹かれ、君自身にも惹かれているのだと気が付いた」
だから真っ直ぐに想いを言葉にすれば、その瞳がどこか不安そうに揺れた。
「それは俺じゃなく、音に惹かれたってだけじゃないのか。だって、おかしいだろう」
何かを確かめるような土浦の言葉が続き、だがまるで結論というよりは終わりを急いでいるように感じられるその言葉にどうすればこの気持ちが伝わるのだろうと思う。
「それは違う。前にも言ったが、土浦の音色は俺の心に響く。一緒に奏でてみたいと思わせるのは、それは君が奏でる音色だからこそだ」
想いを言葉にしようと思えば思うほど、うまく伝える言葉がみつからない。まるで空気を吸うのと同じように自然と心へと落ちてきた好きだと思う気持ちを、どう表現したらいいのだろうと言葉を探す。
「だが…」
なおも言い募ろうとする土浦の手をそっと握り締めれば、困惑の表情で腕を引かれてしまう。それを追いかけてもう一度触れれば今度は逃げられることはなく、熱くさえ思えるその体温が心地よく感じられた。
「君のこの手が奏でる演奏に惹かれた。感情豊かな、俺とは全く正反対な音色に惹かれた。だが、惹かれたのは音色だけではない。だから今日の演奏は君への想いのままに弾いたと言ったら、君は信じてくれるだろうか」
握った手を引き寄せ、その指へと唇を寄せればピクリと跳ねるような反応が返ってきた。微かに力が込められたのはわかったが、唇が触れても逃げられることはなかった。
「俺は土浦が好きだ」
土浦の指に唇を寄せたまま3度目となるその言葉を告げれば、何かに耐えるような顔で俯かれてしまった。
「俺は…」
小さくつぶやかれたその声に、自分の気持ちばかりで土浦の気持ちを何も考えていなかったのだと今更ながらに気付かされた。だが自分からはこの手を離すことが出来ない。
土浦から振り解かれるのを覚悟しながらも握る手に力を込めれば、逆に同じ強さでぎゅっと握り返された。
「俺も…。俺も、今日の演奏が蓮の心に届けばいいとずっと思っていた…」
俯いたまま告げられたその言葉に驚き、そしてそれ以上に嬉しくて、気付けば土浦を腕の中へと抱き締めていた。
「土浦…」
不意に抱き締められ、それまでとはどこか違う声音で名前を呼ばれた。
猫のときとはまた違う体温の伝わり方が心地よくて身を委ねそうになったが、ハッとして蓮のことを押し戻した。
好きだと、そう言われて嬉しかった。だがそれをすぐには信じられず黒猫が何かしたのではないかと疑いもしたが、不器用ながらも気持ちを伝えてくれたその真剣な目には嘘も偽りも一切感じられなかった。
だから伝えるつもりなどなかった本心を言葉にしてしまったが、想いを伝えるよりも前に話さなければいけないことがあったのだと思い出す。
(俺が、エーデルシュタインだということを…)
蓮の家へと入ってすぐに猫の気配を見付けたとき、蓮が名前を呼んだらどうしようと思い焦ったが、蓮に姿を見られる前に物陰へとその身を隠すのだろうという確信めいた予感も同時に浮かんでいた。実際その通りになり、蓮は猫の名を呼ぶことなく、そのままこの部屋と案内された。
鏡で見たことのある猫の姿を自分の目で見ることになるとは思わなかったが、それ以上に猫の目線で人間の姿を見たのだと思えば少し変な感じがした。
だが、猫の姿を目の当たりにすれば余計に自分へとかけられた魔法を意識せざるを得なくなり、この事実を蓮に伝えない限り、自分の気持ちを伝えてはいけないような気がした。
それでもやっぱり蓮にこの事実を知られたくないという思いもあり、決心がつかなくて視線がどんどん下がっていった。
「土浦…?」
困惑気味に呼ばれるその声に、けれど顔を上げられなくて更に俯いてしまう。
真実を告げて、蓮にどう思われるかを考えると続く言葉がうまく出てこない。だからといってこのまま胸に秘めておけば、ずっと後ろめたい気持ちが残ってしまうだろう。
「土浦を想って弾いたのは、今日だけではないんだ」
どう切り出そうかと言葉を探していれば、蓮は突然、話し始めた。
「第1セレクションの後で土浦と一緒に演奏をして、俺は自分の気持ちを自覚した。ヴァイオリンを弾けば、いつでも君の音色を思い出す。一緒に奏でたいと思い、それが出来ないことを淋しく思った」
蓮の言葉にゆっくりと顔を上げれば、どこか悲しげな表情で見つめられていた。もしかすると蓮は、抱き締めてきた腕を押し返した行動を拒否だと受け取ってしまったのかもしれない。
「だから毎日この部屋で、土浦を想って弾いていた」
今まで一度も見たことのないやわらかな微笑みを見せ、ふと、蓮の視線がピアノの椅子へと移った。
まるでそこに座る誰かを想うようなその表情に困惑する。そこを指定席にして蓮の演奏を毎日聴いていたのはエーデルシュタインだ。
「君がいるわけでもないのに、君に想いが届けばいいと思っていた」
やわらかく、そして優しい音色へと変わっていった蓮の演奏を、毎日ずっと聴いていたのもエーデルシュタインだ。
(あの演奏は、俺へと向けられたものだった、のか…)
驚きに思わず蓮の顔を見れば、椅子を見つめる蓮の顔に淋しげな表情が浮かんだ。そしてその表情のまま戻ってきた視線に真っ直ぐ見つめられた。
(この表情を、俺は知っている)
それは演奏後、蓮がたまに見せる表情と同じだった。弾いた後に見せるのは満足そうな表情か淋しげな表情のどちらかで、蓮は何を思っているのだろうかとずっと不思議に思っていた。
だが今、蓮の気持ちが心に伝わってくる。そこに自分が関わっているのだと、真っ直ぐな視線がそう教えてくれる。
毎日、聴いていた蓮の音色を思い出す。蓮の音色で、心がいっぱいになる。
蓮の視線を受け止めながらゆっくりとピアノへと向かい、そのまま椅子へと座った。そこから見上げる蓮の顔は、エーデルシュタインのときもよりもずっと近くにある。
(あの音色が本当に俺へと向けられていたものなら、俺は事実を蓮に伝えるべきだ)
2011.9.15up