TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

黒猫の魔法17

「ここは不思議なところだな」
 舞台から聴こえてくる、圧倒的な技術でありながらも痛いほどに胸を震わせる蓮の演奏から逃げるように舞台袖から廊下へと出れば、まるで待っていたかのように立っていた生徒に声を掛けられた。
 見上げてきた大きな目は少し釣り目だがキツイ印象はなく、軽く首をかしげたときに揺れた髪は真っ黒で、スカートの丈と競るほどに長い。
 やけに友好的な笑みを向けられたが、会った記憶も話をした記憶もない。その、どこか独特の雰囲気を醸し出す容貌は一度でも見ていれば忘れられないだろうと思うし、制服は普通科のもので学年を表すカラーは同学年の赤だが見覚えがない。
 初対面で記憶にもないはずなのに何かが心に引っ掛かり、ふと目に入った制服の赤い色と漆黒の髪が何かを連想させるような気がして、嫌な予感が心を過ぎった。
「学校中に音楽が溢れている」
 そう言って見上げてくる瞳は髪と同じく黒い。だが、どこか楽しそうに見つめてくるその表情には見覚えがあるような気がした。
「黒猫…」
 思い当たる正体を口に出せば笑みが深くなり、同時に聞き覚えのある鈴の音が聞こえてきた。
「楽しそうなことが起こっているようだから遊びに来てみた」
 その声は黒猫の声と少し違う。だが、否定されることなく会話が成り立っているということは、つまりこの生徒は黒猫だということだろう。
 まさか人間の姿になれるとは思っていなかったし、いつも同じ場所でしか姿を現さなかったから学院にまで来られるとは思ってもみなかった。
 そしてその姿が女だったことにも驚いた。黒猫の性別など考えたこともなかったが、そういえば小柄だったかもしれないとふと思った。
「遊びにって、演奏を聴きに来たんなら、こっちじゃなくて客席のほうに行けばいいだろう」
 人間になったこの姿が誰にでも見えるものなのかはわからなかったが、例え見えたとしても制服姿ならば客席に混ざって座っていても不審に思う人はいないだろう。
「ここでも充分に聴こえる。それにこっちのほうが面白い」
 客席や舞台袖ほどではないが、廊下に出ても蓮の演奏は聴こえてくる。背後から聴こえてくるその音色を意識してしまえば何故か胸を締め付けられるような痛みを感じ、それを抑えるように胸の辺りをぎゅっと掴んだ。
 控え室で久し振りに蓮と顔を合わせたが、挨拶以上の会話は交わさなかった。話すことがあるわけでもないし、話をすればどうせまた言い合いになってしまうであろうことは予想がついていた。
 言い合って、そんな関係でしかないのだという事実を突付けられることを心のどこかで怖れている。現実をわかっているからこそ、余計に辛い。
「いいものを聴かせてもらった。やはり遊びに来たのは正解だった」
 そんな心境など微塵も気付いていないであろう黒猫の表情はとても楽しそうだ。その姿が人間だからこそ、その表情も猫に比べてより豊かに表れていた。
 黒猫の目は、音のするほうを楽しそうに見つめている。釣られるように視線をそちらへ動かせばちょうど大きな拍手が聞こえてきて、ヴァイオリンを弾く蓮の真剣な横顔が脳裏に浮かんだ。
(蓮は、どんな思いでこの曲を弾いたのだろう。俺は、どんな思いで曲を弾いていたんだろう)
 蓮と一緒に奏でた音色が忘れられなくて、演奏中もずっとその音色を思い浮かべていた。意識してもしなくても蓮の音色を思い出してしまうなら、その音色に合わせて弾いてみようと思った。
 弾き終えたときの気分はよかったし、舞台袖へと戻ったときみんなに掛けられた言葉も嬉しかった。
 ただ、少し離れたところに立っていた蓮のことが気になった。だからといってどう感じたかなどと聞けるわけもなく、あえて見ないようにしていたからどんな表情をしていたかわからない。
(でも蓮は、たぶん俺のことを見ていた)
 その理由が知りたくて振り返ったときにはもう、蓮は舞台へと踏み出すために脇を通り過ぎるところだった。
 すれ違い様、偶然触れた指はやけに冷たく感じた。猫のときに何度も撫でられたそれとは全然違う体温の伝わり方に身体が震えそうになった。そしてその指が生み出す音色を聴かされれば、胸の鼓動は激しくなる一方だった。
 聴いているだけなのに、何故か切なくて胸が痛い。切なくなれば切なくなるほど、蓮への想いが溢れてきて更に自覚させられる。
(俺はやっぱり、蓮の音色に、蓮自身に惹かれている)
 蓮の家で毎日のようにその演奏を聴いていたが、今日の演奏はそれとはまた違う響きで聴こえてくるような気がした。深い深い音色は、まるで誰かに何かを伝えるかのような響きを持っていた。
 その、見えない誰かに嫉妬した。今まで傍で聴いてきて一度も感じたことのなかったその存在に、もしかしたら今日この会場で聴いているのかもしれないその誰かに、どうしようもなく嫉妬した。
(だから俺は、あの音色から逃げてきた)
 これはたぶん、嫉妬という名の独占欲だ。
 胸が痛くて、たまらなく痛くて、握り締めた手に力を込めても痛みは治まらない。
「今日は思わぬ収穫だった。これからもっと楽しませてくれるのだろう」
 蓮へと奪われていた思考が、聞こえてきた声で黒猫へと戻った。
 じっと見つめてくる大きな目が、楽しそうに笑うその表情が、妙に心を苛つかせる。
 黒猫は楽しんでいる。魔法を解くことの出来る人間を探していると言いながら、人に期待していると言いながら、今、魔法など解くことは無理であろうこの状況を楽しんでいる。
 最初から解けるはずのない魔法だったのだ。出会いからして最悪で、競い合う関係で、そもそも男同士という決定的な障害が最初からあった。
「悪いが、期待には添ってやるつもりも、楽しませるつもりもないぜ」
 イライラした気持ちのままそう言い放てば黒猫は不思議そうに見つめてきたが、なぜかその表情を笑顔へと変えた。
「大丈夫だ。おまえたちを信じているからな」
 そして何かを捉えたらしい視線を追うように振り返れば、まるで表情の読めない蓮がそこに立っていた。



2011.7.15up