TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

黒猫の魔法16

「土浦先輩の音、第1セレクションよりやわらかくなった気がします」
 第2セレクション当日。控え室での調整を終えて舞台袖へと向かえば、その演奏を聴きながら交わされる出演者たちの会話が耳に入ってきた。
 聴こえてくる土浦の演奏は、確かに第1セレクションの頃とだいぶ印象が違う。こんな弾き方も出来たのかと、そんな風に思ってしまうほどだ。
 曲も曲調も違うのだから印象が変わるのは当然だが、そんな簡単な要因だけではないような気がする。
(あの日、聴きたいと願った演奏よりももっと、俺の心に響く)
 それは切ないほどに心を震わせ、真っ直ぐに響いてくるような音色だった。
「選曲も少し意外な感じがします」
 その曲が土浦らしいかどうかと判断するほど土浦のことを知っているわけではないが、それでもらしくない選曲に思えた。だが土浦はその曲のイメージを壊すことなく、かといって型にはまるわけでもなく、そして変わらぬ感情豊かな演奏で自分のものにしていた。
「何か思うところがあったのかもしれないね。練習中は少し調子を落としていたみたいだし」
 あの日以来、土浦の演奏をきちんとは聴いていない。だが、調子を落としているらしいことは噂で聞いていて、所詮、普通科の生徒なのだと、そんな風に囁かれていた。
「でも、本番までにちゃんと調整してくるからすごいよね」
 だが今、土浦の演奏を聴いただけならば調子を落としていたようには全く思えない。むしろ着実にその技術を上げている。
(それに比べて俺は…)
 自分も調子を落としているという自覚はあった。
 いつでも共に合わせた土浦の音色が頭の中にあって、気付けばその音色に合わせて弾いていた。だがそれは記憶の中の音色でしかなく、実際に合わせて弾けないのだと思えば奏でた音色は偽物のようで許せなくなった。
 他人の音色を気にしたことなど初めてでどう対応していいかもわからず、こんなにも振り回され、自分の演奏さえも揺らいでしまう状態になる自分の弱さも嫌だった。
(だが、土浦への気持ちを自覚してしまった以上、俺はこの気持ちに嘘は吐けない)
 想えば想うほど自分の演奏からは遠ざかり、伝えられない気持ちに押しつぶされそうになる。そして今、溢れそうなほどに感情豊かな土浦の演奏を間近で聴いてしまえば、まるでそれが自分に向けられているかのように感じて想いに拍車がかかる。
(だが、この音色が俺に向けられるはずがない)
 そう思えば胸の奥が小さく痛み、それをやり過ごすようにぎゅっと目をつぶった。
 視界が遮断されると聴こえてくるピアノの音色はさっきよりもずっと真っ直ぐに心へと響いてくる。
 甘くやわらかい音色に包まれるような錯覚を覚え、ふと、腕に抱えたエーデルシュタインのぬくもりを思い出した。
(真っ直ぐに俺を見る瞳も、触れるあたたかなぬくもりも、土浦の音色によく似ている)
 エーデルシュタインは土浦に聴かせられない代わりにと向けていた演奏を、真っ直ぐな瞳で受け止めて聴いてくれていた。部屋から出て行きたそうな素振りに気付かないふりをしていれば、諦めたように傍にいてくれたし、土浦への想いを持て余して気分が落ち込んでいるときは、着かず離れずの距離にいるその存在が心を落ち着かせてくれた。
(だが、エーデルシュタインは土浦じゃない)
 見つめてくる瞳が土浦ならいい。いつでも触れられる距離にいて欲しい。そしてまた、一緒に演奏出来ればいい。
 この気持ちを土浦に伝えたい。好きだと伝えたい。
(もし俺と同じ気持ちを土浦に返してもらえたなら、どんなに幸せだろうか…)
 その気持ちが、まるで名残を惜しませるようなピアノの余韻と重なる。続いて聞えてくる大きな拍手の音に、思考は現実へと引き戻された。
 目を開ければ、舞台の上でスポットライトを浴びている土浦の横顔が目に飛び込んできた。
(俺は、土浦が好きだ)
 遠いその横顔を見つめれば、何度も何度も自覚させられた想いで心の中がいっぱいになった。
 袖へと引き上げるために歩いてくる土浦の表情は満足そうで、声を掛けられて更に嬉しそうな笑顔を見せるその表情に胸が高鳴った。司会者が告げる自分の名前に舞台へと向かおうと思うのに、土浦を見つめる視線は外せず、どうしたら一歩を踏み出せるのかがわからなくなってしまう。それでもなんとか歩き出せば、視線に気付いたのか土浦がこちらを振り返った。
 一瞬だけ目が合ったが、ちょうど土浦の脇を通り過ぎるところだったために自然と外された。そのまますれ違おうと思った瞬間、微かに右手の指が触れた。
「…っ」
 それはあまり広くはない舞台袖だからこその偶然だったのだろうが、思わず声を上げそうになってしまった。
 一度だけ、やはり偶然、触れたことのある土浦の体温を思い出し、心臓が早鐘を打ち始める。
(心臓が、壊れてしまいそうだ)
 舞台へと上がるときには感じたことのない、緊張ともまた違う胸の高鳴りをどうにか落ち着けようと大きく息を吸ってみたがうまくいかなかった。
 触れた熱に、気持ちが奪われていく。思い出す音色に、聴かされたばかりの音色に、心が捉われていく。
 今、この気持ちのままヴァイオリンを弾いたら、一体どんな音色になるのだろうか。
(いや…。そのまま俺の気持ちが、伝わればいい)
 ヴァイオリンを弾いている間中、弓を持つ右手が熱いような気がしていた。



2011.7.1up