TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

黒猫の魔法12

『何かいいことがあったのか?』
 学内コンクールを終えた帰り道、何の前兆もなく突然、黒猫に声を掛けられた。
 気配を感じさせないことはわかっていたが、いつでもその姿は先に見せられていたから、さすがに驚いて声を上げそうになってしまった。
「っ、な、何だよ、急に…」
『何かいいことがあったんだろう』
 ちらりと辺りを確認し、誰も居ないことを確かめてから返事を返せば、悪びれもせず同じ質問を、それも決め付けるような言い方で繰り返された。
『何か進展があったのか? とうとう告白されたのか?』
「あのな、そんなに簡単なわけがないだろう」
『だが、何か進展はあったのだろう?』
 真っ赤な目を文字通り輝かせるその姿に思わず大きなため息を落として見せたが、そんなことで引き下がってはくれなかった。
 進展があったといえば、あったのかもしれない。
 今日は今までに比べれば普通の会話が出来たように思う。お互いに批評しあったことはとても有意義だったし、一緒に演奏したいと言われたことは驚いてしまったが、でもやっぱり嬉しかった。
 コンクール直後はさすがに疲れも出るだろうからと、明日、一緒に合わせる約束をしたことを楽しみだとも思っている。
 ただ、蓮に他意はないのだろうと思う。
(どちらかといえば、俺が蓮のことを気にし始めているというか…)
 ふとそう思って、自分の考えに自分でビックリする。
(誰が誰を気にしてるって…?)
 確かに、蓮の音色に弾かれ始めていることは自覚があった。けれどそれはあくまでヴァイオリンの音色に対するものであって、蓮自身に惹かれていたわけではなかったはずだ。
 だが、おめでとうと伝えたいがために、控え室へと戻ってくる蓮をわざわざ待ってしまった自分の行動は、惹かれているのが音色だけではないのだとそう言っているようなものなのだと気付く。
『いい方向に進んでいるようでよかった』
「それはっ…。違うと、思う…」
 何を言ったわけでもないのに、まるでこちらの気持ちを読んだかのように言われて思わず声を上げてしまったが、続いた反論の言葉は段々と小さくなっていった。
 いい方向ではないと、そう思ったら胸が痛かった。自分の気持ちを自覚して感じたのは、驚きよりも落胆だったのかもしれない。
(蓮に愛されるなんて無理だって、最初からわかっていたことじゃないか)
 最初からわかっていた。だから必死になるようなことはなかった。それでも困らないと思っていた。
 そして、猫として蓮の傍にいることを当たり前のこととして受け入れ始めているから、更に困らないと思ってしまっている。
『ダメだ。それはダメだ』
 その声にハッとして顔を上げれば、身を乗り出すようにした黒猫の顔が目の前にあった。
『いい方向に進んでくれないと、つまらないじゃないか』
 考えを読まれたのかと思っていればそうではなく、黒猫にとっては会話の続きだったようだ。
 けれどその言葉は、今のままで、猫のままでいいなどという、陥ってはいけない考えも一緒に否定してくれた。それが例え黒猫の自分勝手さからくるものであっても、本人にその気がなかったのだとしても、そして何よりも大元の原因がこの黒猫にあるのだとしても、少しくらいなら感謝してもいいかなと、そう思わせるものだった。
「勝手なこと言いやがって…」
 それでも口から出るのは文句の言葉だけだった。礼を言って図に乗られるのは不愉快だし、言ったところで何のことだかわからないだろう。
(蓮に愛される、か…)
 深く考えようとしなかったことが、やけに現実味を帯びてきたことを実感する。
 解決策が見付かったわけでも自分の気持ちを素直に認めたわけでもなかったが、それでもいい方向へと向かえたらいいと、そんな風に思った。



「やはり、どう考えても違う」
 久し振りに弾いたピアノの鍵盤から手を下ろしたところで、思わず苦笑いが洩れた。
 今日、コンクールで土浦が弾いた曲を自分でも弾いてみた。頭の中には感情豊かな土浦の演奏が流れていたが、自分の演奏とは何もかもが違っている。
 以前、土浦に煽られるようにしてヴァイオリンを弾いたときは自分でも信じられない音色を奏でたが、今回は土浦の演奏に引きずられることはなかった。それは意識してそう弾いたからかもしれないし、土浦のようには弾けないことをわかっていたからかもしれない。
 同じように弾く必要はないと、そう思いながらもどうすればあんな音色を奏でられるのだろうかと考えてしまう。そして自分では弾くことの出来ない音色を、だからこそ土浦の演奏で聴きたいと思ってしまう。
(明日を、本当に待ち遠しいと思う)
 こんな風に他人の音色を深く考えることなど今まで一度もなかったと思う。父や母の奏でる音色をどこか羨ましく思う気持ちはあっても、どうして自分には弾くことが出来ないのだろうと思うことはあっても、もっと聴きたいと、心から望む音色に出会ったのは初めてだ。
(俺の好きなタイプの演奏ではないはずなのに…)
 土浦の演奏に対する感想は賞賛よりも批判の方が多い。それでもやっぱり、土浦の演奏に心が捉われている。
 土浦のピアノは人々を魅了していた。それは舞台の袖から見える講堂内の生徒の表情でわかった。土浦は自らが作り出した音楽の世界に引き込み、内側からゆっくりと捕まえるような演奏をするのだと、そんな風に感じた。
(俺も、あの音色に惹かれているのだろうか)
 捉われたという表現以外で気持ちを表せば、惹かれているという言い方が一番合っているような気がする。
 土浦が作り出す音楽の世界をもっと感じてみたいと思うこの気持ちは、土浦の音色に捉われ、そして惹かれているからこそなのだろう。
(思わず俺の音と弾き比べてしまうほどに、心に残っているということか)
 そして苦笑いを落としてしまうほどに自分とは違う音色を、本当は自分が思っているほど嫌いではないのだと思い知らされる。
(同じだったら、惹かれてなどいなかったな)
 違うからこそ、自分では奏でられないからこそ、土浦の音色を聴きたいと心が望む。
(もう一度…)
 聴きたいという思いと弾きたいという思いが重なり、自然と鍵盤に手が伸びる。
 心に残る土浦の音色に耳を澄ましたところで聞こえてきたのは、カタカタという扉が立てる音だった。
 扉をそっと開ければ、見上げるようにして座るエーデルシュタインがそこにいた。なんとなく、誰かに聴いてもらいたいような気もしていたから、このタイミングでエーデルシュタインが部屋を訪れたことをちょうどよかったと思う。
「エーデルシュタイン」
 声を掛ければ、足元を通り過ぎて部屋へと入っていく。揺れるしっぽが見えなくなったことを確認して戸を閉めて振り返ると、エーデルシュタインはいつものピアノの椅子ではなく机の椅子の上へと乗っていた。
 その、こちらの意図をわかっているような行動を不思議に思いつつピアノへと戻れば、強い視線が注がれているような気がしてエーデルシュタインへと目を向けた。
 真っ直ぐにこちらを見る緑色のその瞳は、やっぱり土浦の強い視線を思い出させる。
(土浦なら、俺が弾くこのピアノも面白味がないと言うのだろうな)
 そんなことを思いながら、ゆっくりと鍵盤へと手を伸ばす。
 演奏中、エーデルシュタインの視線はずっと、鍵盤を叩く指に注がれているように感じていた。



2011.3.10up