TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

黒猫の魔法7

「っと、悪い。大丈夫か?」
 練習室の廊下を歩いていると急に扉が開き、驚いて歩みを止めるとその扉の向こうから声が掛かった。
 別に扉ギリギリを歩いていたわけでもなかったしぶつかりもしなかったが、急だったのとその開け方が思い切りだったことに驚いて、一瞬、反応が遅れてしまった。
「気を付…」
 気を付けてくれと、そう言おうとした言葉が別の驚きにより途中で止まる。
 扉の向こうから顔を出したその人物は、あの普通科の生徒だった。
「…、月森…」
 何か言葉を飲み込むようなその後で名前を呼ばれ、ぶつかりそうで危なかったとか、もっと静かに開けてくれとかそんなことよりも、名前を覚えられていたのだと、そんなことを考えてしまっていた。
「悪かった。ちょっと急いでたからさ…」
 続いたその言葉にも驚いた。なんとなく、相手が誰だかわかった上で謝られことはないだろうと勝手に思っていた。
「いや、大丈夫だ。だが、どうして君が練習室に…」
 そう言い掛けて、同じ過ちを繰り返してしまったことに気付いたがもう遅かった。先日のやり取りで、音楽に関しては何か立ち入ってはいけないような雰囲気を感じていたはずなのに、そんなことなどすっかり忘れて思わず聞いてしまっていた。
「お前には…」
「土浦、それに月森も。二人とも遅くまでご苦労なこったなぁ」
 関係ないと、たぶんそう言いたかったであろう言葉は、不意に後ろから掛けられた声によって遮られた。
 声の主を振り返れば、金澤先生がこちらへと歩いてきていた。
「誰の所為だよ、金やん」
「なんだ、土浦。教師から何かを頼まれるということはだな、それはそれはありがたいことなんだぞ」
 傍で交わされる会話で、彼の名前と、ここにいる理由の発端だけは知ることが出来た。
(肝心なことは何ひとつわかってはいないが…)
 名前はともかくとしても、本当に知りたいのは練習室にいた理由ではない。最初に会ったときからずっと気になっていることは、彼と音楽との関係だ。
(それを知ってどうする?)
 そう思うのに、理由などわからないのに、どうしても知りたいと思う気持ちが止められない。
「君は、何か音楽をやっているのか」
 答えてくれる望みは少ないかもしれないが、気になるのなら直接、聞いてしまったほうが早いと二人の会話を割るように声を掛ければ、二人の視線が一斉にこちらへと向けられた。金澤先生はどこか楽しそうな、そして土浦はあの日と同じように不機嫌な表情をしていた。
「やってたら悪いかよ」
「別に悪いとは言っていない。ただ、聞きたかっただけだ」
 音楽をやっていると、そんな答えを期待していたのかもしれない。だからどちらにも解釈出来るような土浦の答え方を、肯定なのだとそう受け取った。
 けれどこの質問に対し、土浦が不機嫌な態度をとるその理由がわからない。
「どうだか。中途半端に音楽に関わってるとでも言いたいんだろう」
「そんなことは、言っていないだろう」
 睨むようにして告げられた土浦の言葉に対して反射的にそう返していたが、それ以上、反論する言葉がみつからなかった。それは心のどこかに、そう思う気持ちがあるからなのかもしれない。
「うんうん、音楽はいいぞ。競い合える相手がいるっていうのもいいぞ。それがわかったところでちょうど下校時間だ。お前さんたちも先生の手を煩わせないうちに早く帰れよ」
 ひらひらと手を振りながら立ち去る、脈絡があるようなないような金澤先生の言葉によってピリピリと張り詰めた空気は破られたが、だからといって穏やかな空気になるわけでもなく、睨みあいと沈黙の時間が流れた。
「もしも競い合うんだったら、俺はお前に負けるつもりはないぜ。…じゃあな」
 言葉を発したのも行動を起こしたのも土浦が先で、そして一人、その場に取り残される。
「土浦、か…」
 その背中を見つめながら、無意識にその名前をつぶやいていた。
(何を、弾くのだろうか)
 知ったのは苗字と、何か音楽をやっているらしいということだけで、音楽に関しては明確に答えを貰ったわけではなかった。けれど知りたいと思っていたこと以上に、土浦自身の印象が心の中に強く残っている。
 他人に興味を持つことなどあまりないはずなのに、土浦のことは何故か気になって仕方がなかった。



『相変わらず不景気な顔だな』
 帰宅途中、不意に声を掛けられて睨むように振り返れば、塀の上を黒猫が歩いていた。
 前回といい今回といい、蓮に会った日に限って姿を見せる。これが偶然とは思えない。
「いい気分じゃないんでね」
 わかっていてやっているんじゃないかと疑いながら早足で通り過ぎようとするが、黒猫はなんでもなさそうに着いてくる。
 今日はもう、こんな訳のわからないものに付き合う気分じゃなかった。どうして自分ばかりがこんな目に遭わなくてはいけないんだと思う。
『それはつまり、とうとう振られたと、そんなところか?』
 けれど、黒猫はそんな自分を放っておいてはくれないらしい。どうしてこう、人の気を逆撫でするようなことを簡単に言ってくれるのだろうか。
「そんなに振られて欲しいのかよ」
 歩みを止めて黒猫へと視線を向ければ、赤い瞳もまた、真っ直ぐにこちらへと向けられた。
 振られるも何も、まだ普通の会話すら交わしていないような気がする。それなのに、既に気まずい雰囲気になっているのもどうなんだろうか。
 そもそも、男同士で愛するだの愛されるだの言うのも変な気がする。
『何を言っているんだ。この魔法を解ける人間を探しているんだから、振られてしまってはつまらない』
 その表情は猫だからよくわからないが、けれどたぶん真面目な顔でそう言われてしまった。
『これまで、この魔法を解くことの出来た人間は一人もいない。人間が人間を愛するのは、そんなに難しいことなのか?』
 一人もいないというその言葉も気になったが、それよりも何故か不思議そうに聞いてきたその質問の内容のほうがひどく心に残った。
「相手が誰でもいいってわけじゃないだろう。相性だってあるだろうし…」
 人を好きになるのはたぶん簡単だ。けれど、愛することは、そして愛されることは難しいと思う。
(そもそも、愛するって、どういうことなんだ?)
 ただ、それがどういうことだかわからなくても、蓮に、あんな無神経なやつに愛されるのは女であっても無理だろうと思ってしまう。
『それなら、愛されたいと、そう思うことはいけないことなのか? おまえは愛されたいと思わないのか?』
 赤い瞳に、じっと見つめられる。まるで、何かを試されているみたいだった。
「愛されたいと思ったって、愛されるわけでもないだろう」
 たぶん、いいとか悪いとかそんな単純なものでもないし、気持ちは強制出来るものでも、されるものでもない。
『やっぱり、おまえのことを選んだのは間違いじゃないみたいだ。おまえなら、この魔法を解けると信じている』
 真剣そうに見えたその瞳がよくみせる楽しそうなものへと変わり、そう言ってまた、現れたときと同じように突然、その姿を消した。
(誰も解いたことのない魔法を、俺が?)
 何がどう気に入られてこんな大役が自分のところに回ってきてしまったんだろうと思う。そしてあの黒猫は、何故こんな魔法をかけたのだろう。一体、どうしたいのだろう。
 猫になる生活で支障が生じたこともそれほどなく、あまり深く考えようとしてこなかったことを今更ながらに後悔する。
(愛されることで解ける魔法って、なんだよそれ…)
 不意に、無表情で、そのくせ意志の強そうな蓮の顔が浮かんできた。どう考えても、相性は最悪だとしか思えない。性格も音楽性も、立場も環境も、何もかもが違い過ぎるし、正反対過ぎる。
 ただ、自分とは全く違う、好きだと思うことなど出来ない蓮の音色がそれでも心の中に残っていて、少しずつ惹かれ始めていることは自覚していた。



2011.1.26up