TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

黒猫の魔法6

「コンクールの練習、頑張ってるみたいだな」
 少し開けた練習室の窓からそんな声が微かに聞こえてきた。
 振り返っても窓の外には誰もいないから、別の練習室内へと掛けられた言葉だったらしい。
(だが、この声は知っているような気がする)
 いつもならば気にならないであろうその声がどうしても気になり、なんとなく窓の外を覗いてみると隣の練習室の辺りに人影が見えた。
 身を乗り出すわけではないからはっきりとその姿を捉えることは出来なったが、見えるブレザーの色は濃グレーで、普通科の生徒だということがわかった。
「最後のほう、何度も違う音で弾いてたぜ。楽譜、間違えて覚えてるんじゃないか?」
 普通科の生徒に知り合いなどいただろうかと考えているときに聞こえたその声にはやはり聞き覚えがあり、不意にプリントを持ってきたあの生徒の声だと思い出した。
 練習室内にいるのであろう相手の声は微かにしか聞こえてこないが、確か隣の部屋を使っているのは日野さんだったと思う。
 そういえばさっきから聴こえてきていた演奏も屋上での練習でも、彼女は間違った音で弾いていた。それ以外のところも何度か間違えていたから単なる失敗なのだと思っていたが、確かにそこは必ず間違っていた。
 でも何故、彼は日野さんの間違いを指摘出来たのだろう。有名な曲だから誰が知っていてもおかしくはないが、違う音と断言したあの言い方は、正しい音を知らなければ出来ることではないと思う。
(やはり、何か音楽をやっているのだろうか)
 コンクールという言葉に過剰な反応を示した先日のやり取りを思い出す。それでも同じコンクールの出場者である日野さんには普通に接しているようだし、応援しているような口振りにも聞こえる。
(あのときの聞き方が悪かったのか?)
 それならばどう聞けばよかったのかと考えても、それ以外の言葉など思い付かない。
 何故、わざわざ声を掛けてしまったのだろうかと思う。他の出場者のことなどそれほど気にしていたわけでもなかったはずだ。
 そして、今でもこんな風にあの日のことを考えてしまうのは何故だろうか。
 たった二言三言しか、それもあまりいい印象を残さない会話しか交わさなかった彼のことを、こんなにも気にしているのは何故だろうか。
 ありがとうと、ただ一言そう返すだけでよかったのに、どうしてわざわざ自分から話題を持ちかけたのだろうか。
「じゃあ、頑張れよ」
 考え事に奪われそうになった思考を遮るように声が聞こえてきて、慌てて窓から見えない場所へと隠れてしまった。だが帰る方向は逆だったらしく、この部屋の前は通らなかった。
 窓の外をもう一度覗けば遠くにちらりと後ろ姿が見え、そして何故か目が離せなくなる。
(声を掛けたのは、ただの社交辞令だ)
 その社交辞令が得意ではないことくらい自分でもよくわかっていたが、どう考えても答えの出ない疑問にそう結論付け、楽譜へと視線を動かすことで頭を練習へと切り替えた。
 しばらくすると、隣の練習室から彼の指摘した場所を正しく弾いた曲が聴こえてきた。
 その演奏は、それまでよりも優しい音色になっているように感じた。



「だいぶ間違えなくなったな。音も、安定してきたんじゃないか」
 放課後、普通科から唯一、学院内で開催されるコンクールへと出場する日野の練習に、なんとなく成り行き上、付き合うことになってしまった。
 普通科の生徒がコンクールに出ることはクラスの中でも話題に上っていたから知っていたし、楽譜を拾ったことをきっかけに話をするようにもなっていた。練習中に声を掛けたこともあったが、まさかその練習に付き合う羽目になるなんて考えてもいなかった。
(金やんに頼まれたとはいえ、困っているやつを放っておけない自分の性分が恨めしい)
 ただ、音楽を巧く弾くことしか考えていないような音楽科の生徒なんかに負けずに頑張って欲しいと思ったのも本当で、そのためなら練習に付き合うことぐらいなら構わないか、とも思う。
 日野はヴァイオリンでの出場とリストにも載っていたし、楽器もちゃんと持っていたから弾けるのだろうと思っていたが、本人曰く、全くの素人とのことだった。だが、日に日に上達しているのがわかるし、その音色はどこか人を魅了するような響きを持っていた。
「本当? 毎日、頑張ってる成果かな」
 そう言って嬉しそうに笑うと、ヴァイオリンと日野の周りがやけにキラキラと光った。なんだろうと思わず目を凝らすとうっすらと羽のようなものが見え、なんとなく嫌な予感がしてすぐに目を逸らした。
(これはきっと、そういった類のものだ)
 見えなくてもいいものが見えるということは、厄介なことに巻き込まれる可能性が思いっ切り高いということを、身を持って何度も経験している。
(まさか日野も巻き込まれていたりするんだろうか…)
 この学院の正門前にあるのは背中に羽の生えた妖精像だし、このコンクール自体も開催基準が曖昧で謎めいていると聞いたことがあるからこの考えは強ち間違えではないのかもしれない。
(ということは、もしかして蓮も何か関係してるのか?)
 コンクールの出場者全員が巻き込まれているというのは考えにくいが、何かしら関わっている可能性はあるかもしれない。
(まさか、これもあの黒猫の仕業とか…)
 けれど、キラキラと光っているこの気配と、あの黒猫の持つ気配はだいぶ違う。
 それならば少しは安心出来るが、逆に考えれば自分も巻き込まれる可能性が大いにあるということになってしまう。
「もう一度、通して弾いてみてもいいかな」
 思わずためいきを吐きそうになったところで、気になるところを何度も繰り返し弾いていた日野が不意に声を掛けてきた。
 途端、ヴァイオリンの輝きがいっそう増したように見えた。
「あぁ、いいぜ。じゃあ、最初からな」
 答えながら、ヴァイオリンの光は見なかったことにして鍵盤へと手を伸ばす。
 そして、ある意味、もう巻き込まれているんじゃないかという考えにも、気付かなかったことにした。



2011.1.20up