『音色のお茶会』
黒猫の魔法5
「あの…。練習の邪魔をしちゃったかな」屋上でヴァイオリンを弾いていると校舎内へと繋がる扉が開いた。気にせずそのまま弾き続けていたが扉が閉まる気配がなく、不審に思って振り返れば、そこにはヴァイオリンケースを抱えた日野さんが立っていた。
彼女もコンクールの参加者だ。練習室は予約でいっぱいだったはずだし、きっと場所を探してここへと来たのだろう。
「開いた扉が閉まらないほうが気になる。練習をするなら早く閉めて始めればいいだろう」
人の気配で気が散るようなことはない。人混みでの演奏はあまり得意ではないが、だからといって集中出来ないわけでもない。
「そうだね。お邪魔します…」
そう言って少し離れたところでヴァイオリンの準備を始めたのを横目で見ながら、自分も練習を再開する。
静か過ぎもせず、かといって煩くもないこの場所は息抜きや気分を変えたいときはちょうどいい。普段はヴァイオリンを弾くことよりも楽譜や本を読んでいることが多いが、今日はここで弾きたい気分だった。
練習室は防音が施されるから他の音に煩わされることはないし、自室での練習も誰を気にすることはない。 コンクールへの出場が決まった今、屋上で弾いているよりも練習室か自室で練習したほうが効率的なのだろうが、何故か集中出来るはずのそれらの場所での練習の成果はあまり上がっていないように感じていた。
それなのに、屋上で練習を始めると素直な気持ちでヴァイオリンを弾くことが出来た。
風に乗って聴こえてくる様々な音が、そして感じる人の気配が心を落ち着かせてくれる。
人の音色や気配など、今まで気にしたことなどなかったはずだ。それなのに何故、今の自分はこんなにも他人に左右されているのだろうか。
(俺は、誰かに聴いて欲しいとでも思っているのか)
だから一人きりで弾くことになる練習室や自室での練習よりも、屋上という少人数の気配と傍聴者のいる場所を無意識に選んでいたのかもしれない。
今までこんな風に思ったことなどなかったはずで、けれど自分の状況を客観的に説明するにはそれ以外の気持ちが浮かんでこない。
(たぶん最初に気配を気にしたのは、エーデルシュタインだ)
まるで音を聴き分けているかのような態度を見せるあの猫に聴かれているのだと思うと、不思議と練習にも集中出来たし納得のいく演奏をすることも出来た。だが、コンクールの練習を始めるようになった頃から、まるで練習の邪魔を避けるかのように、そっと部屋を出て行くようになった。
演奏中にじっと見ている視線が感じられないことが逆に落ち着かない。弾き終えたときにエーデルシュタインの緑色の瞳が向けられていないことを淋しいと思ってしまう。
(ここ最近、わからない感情が多過ぎる)
今まで自分の中になかった感情に、どう対処していいのかがわからない。
まるでその気持ちをそのまま表すかのように、ヴァイオリンの音色は揺れて安定しなかった。
「エーデルシュタイン…」
名前を呼ばれて顔を上げれば、指が微かに頬を撫でていく。
相変わらず遠慮がちなその触れ方は、けれどいつもとどこか違うような気がして思わず蓮を見上げた。
いつものように家に帰った蓮に呼ばれて猫へと意識が変わり、そしていつものように部屋へと着いて行ったときからどことなく様子が変な気がしていた。
学院でも練習室ではなく屋上でヴァイオリンを弾いていたみたいだし、その音はらしくないほど安定していなかった。帰りに偶然見掛けたその表情も、いつも以上に無表情というか険しいというか、そんな顔をしていた。
帰ってくるとすぐと言っていいほどに弾き始めるヴァイオリンにはケースにすら触れていなのに、今日はやけに名前を呼ばれるし、ずっと触れられている。
(猫的には気分がいいんだが…)
ゴロゴロと、喉が鳴っているのが自分でもわかる。けれど心の中ではいつもと違う様子が気になって、撫でられていることに集中出来ていない。
たぶん、練習で行き詰っているとか思い通りに弾けないとか、きっとそんな感じなのだとは思う。
(今まではなんでもない顔してどんな難曲でも弾きこなしていたのに…)
だから努力や不調とは無縁なのだと勝手に思っていたが、そうではないのだと、ここ数日の蓮を見ていてそう感じていた。面白味がない弾きかたであることには変わりはないが、楽譜に書かれている全てを正確に音色へと変えることの出来る技術は、才能だけではなく更に努力を重ねてきた結果なのかもしれない。
その努力を誰に見せるわけでもないし、誰かに相談するとか泣き言を言うような性格でもなさそうだから、きっと今までもこうやって一人で練習を重ね、悩み、そして乗り切ってきたのだろう。
猫の身では何も出来ないことを、なんとなくもどかしく感じてしまう。だからといって猫ではないときに何かをしてやることも出来ないし、何か出来るほど知り合ってすらいないのだと思い出す。
(相手が猫だから、弱みも見せてるんだろうしな)
それならばいっそのこと猫らしく振舞ってやろうと思い、撫でる手をせがむように頬を擦り寄せてみた。
「エーデルシュタイン」
するとそれまでとは違うトーンで呼ばれ、調子に乗り過ぎただろうかと顔を上げれば、やはり険しい表情が向けられていた。
慌てて身体を引こうとしたが、さっきよりも優しく撫でられて動きが止まってしまう。
「俺のヴァイオリンを、聴いていてくれないか」
そして続く言葉を発した顔はまるで懇願するかのようなものへと変わり、実際、思ってもみない願いを口にされた。
ずっと一人で弾いてきたのであろう蓮にとって、そこに猫がいるだけでいつもと違う環境になるのだろうと思い、コンクールへ向けての練習中は邪魔をしないようにと、なるべく部屋から出ているようにしていた。猫の存在くらいで切れるような集中力の持ち主ではないだろうが、余計なものはないほうがいいだろうと、そう思っていた。
だがそれは、杞憂だったということなのだろうか。
(まさか、これが原因ってわけじゃないよな…)
言葉が通じるかどうかなどわからない猫に願ってしまうほど、誰かに聴いて欲しいと思っている、なんて、それはいくらなんでもないだろう。
それでも聴いて欲しいという蓮の願いにノーと答える理由はなく、伝わらないとは思いつつも返事のつもりでひとつ鳴いておいた。
2011.1.13up