File No.026 伝説または逸話

㊧伝説または逸話㊨
『入棺之尸甦怪(につかんのしかばねよみがえるあやしみ)』-伽婢子より-

古より今に伝えられて世に云われているのは、おおよそ人が死んで棺に納め、野辺に送った後にあるいは、埋めるべき塚の前で甦ったり、火葬する火の中より甦る者がいる。
これらは皆、家に帰さずに打ち殺す事になっている。
ひょっとして、病が重くて絶死した者
もしくは、気のはずみで息の塞がった者、など訳が合って冥土を見てきた者もいるであろう。
これらは、天命がまだ来ておらず、命籍を削らざる者ではないが、日本の風俗では死すると同時に屍を納め棺にいれて、葬礼を急ぐ為に、たとえ甦っても、葬場にて生き返った人を戻さずに打ち殺すとは、真に残念な事である。
ならば、異国では、人が死ぬとまず殯(かりもがり)と云う事をして、すぐには埋葬はしない。
このことは書典の中に、死して三日、七日、十日ばかりの後に甦って、冥土の事などを語った例を多く記してある。
それでも、十日以後は又甦った事などない。頓死、ショック死などは用心したほうがよい。

しかし、葬礼の場にて甦ったのを家に戻さずに、打ち殺すべきであると言い伝えられているのも訳がある。
京房(けいぼう)が『易伝』に「至陰為陽、下人為上、厥妖人死後生」と云っている。
死者が暫くしたあとに甦る事は下克上の前兆であるといっている。この為に甦っても打ち殺す事であると聞いている。
大内義隆の家の女房が死んだときに、野に送り出し埋めようとした時に俄かに甦った。
打ち殺すにはかわいそうだと連れて帰った。
髪を剃りおろして尼になったが、半年ばかりして又死んだ。
その年に果たして、家臣陶尾張守(すえおわりのかみ)の為に義隆は国を追い出された。
永禄年中に光源院殿(足利義輝)の家の下部が亡くなった時に二日ほど置いていたが、生き返らなかったので、若い下部たちが屍を千本に送って埋めようとしたところ、ただちに甦った。
「打ち殺して埋めよう」と言ったが、この者が手を合わせて、泣き叫んで「助けてください」と言った。
さすがに不憫に思って、連れて帰って部屋に置いていたが、四、五日の内に普通に生活できるようになった。
その年の五月に三好松永が反逆を起した。
屍は陰気であるので、甦れば陽になる為、これを下のものが上のものを犯す前兆とあるという。
そのために、葬所で甦った者は、再び家に戻さずに打ち殺すのである。
『何者とも知れぬ女盗賊の話』-今昔物語より-

いつの頃かははっきりしないが、ある侍で名前もわからないが、年は三十歳ばかりで、背はすらりとして髭の赤茶けた男がいた。
夕暮れがたに、京のとある町の辺りを歩いていると、日よけの格子窓の中から鼠のように口を鳴らして、手招きする人があるので、
男はそばに寄って、「お呼びになりましたか」と聞くと、
女の声で「申し上げたいことがございます。
そこの戸は閉めてあるようでも、押せば開きます。
そこを押してはいってらしゃい」と言うから、男は妙な事もあるものだ、と思いながら、戸を押し開けて中にはいった。
女が出迎えて「戸を閉めてください」と言うので、戸に錠をかけると「さあ、おあがりなさい」と言うから、言われるままに上がった。
簾の内側に呼び入れられると、調度などのほどよくととのった部屋に、愛らしい顔をした、年は二十歳ばかりの目の覚めるような綺麗な女が、ただ一人いて、微笑を含んでこちらを見ていたから、男はそばににじり寄った。
これほどの女から水を向けられて、男たる者、そのままでいられるものではない、とうとう二人で寝た。

その家には、他に人影も見えないから、これはいったいどういう家かと怪しく思っていたが、いったん契ってしまうと、女を愛しく思う気持ちも深まったので、日の暮れるのも知らずに寝ていたが、日もとっぷりと暮れてから、誰やら門をたたく者がある。
他には誰もいないので、男が行って門を開けると、侍らしい男が二人、女房らしい女が一人、女中を連れて入って来た。
格子戸をおろしたり、灯を点したりして、美味そうな食物を銀の食器に入れて女にも男にもすすめた。
その時男が考えるには、自分がはいって、戸に錠を挿した。そのあとで、女が誰かに言いつけた様子もなかったのに、どうして自分の食事まで一緒に持ってきたのだろう。
もしや他にれっきとした夫があるのではないか、などと気をまわしたが、何しろ時分時で腹がぐうぐういっているから遠慮もなく平らげた。
女のほうも、格別男に遠慮をする様子もなく、夫婦のような顔をして箸をとっている。
食事が終ると、女房らしい女が後片付けなどをすませて、みなみな出て行った。その後で、男に戸締りをさせて、二人で寝た。
夜が明けて、また門をたたく者があるから、男が行って開けてやると、昨晩の連中とはまるで違った男女が入って来て、格子戸を開け、家の掃除などをしてかいがいしく過ごすうちに、粥や強飯なども運んで来て食わせる。
引き続いて、昼の食事も持って来て、それがすむと、また連中は煙のように消え失せた。

こうして二、三日経ってから女が「どこかお出かけになりたい所でもありますか」と聞くので
「ちょっと知っている人の所へ、行ってみたい用事があることはあります」と男が答えると
「それじゃ、早いとこお出かけなさい」と言って、暫く待つ間に、みごとな馬に並々でない藏を置き、水干を着た雑色三人ばかりが、馬の口取の小物を連れて、引いて来た。
その家の裏手に、壺屋めいた建物があり、女はそこからみごとな装束を出して来たので、男はそれを着、馬を乗り、従僕どもを従えて出かけて行ったが、この男どもはすこぶる気が利いて、手足のように役に立つ。
用が終って立ち帰ると馬も従僕どもも、格別女が指図したわけでもないのに、消えてしまった。
食事の用意なども、女が言いつけている様子もないのに、どこからともなく持参することが、いつに変わらない。
こうして夢のように日が過ぎて行ったが、何不自由もなく二十日ばかりたったころ、女が男に向って言うには「思いもかけず、こうして二人で暮らすのもはかない縁のようでございますが、これも前世からの定めごとでございましょう。
こうなっては生きるも死ぬも、私の申し上げる事に、よもや否やはございますまいね」こう聞かれて、
男は「おっしゃるとおり、生きるも死ぬも、貴方次第です」と答えたので、
女は「うれしゅうございます」と言って、男に食事を与え、昼の間はいつもの事で誰一人いなかったが、奥の方の離れに男を連れて行った。

そこに行くと、男の髪を縄で留め、両手は幡物(刑具)にはりつけに縛りつけ、両足は曲げてしっかりとくくりつけて、背中を裸に剥いた。
そこで女は、烏帽子をかぶり、水干袴を着て、男のような身支度をととのえると、鞭を手にして男の背中をしたたかに八十度ほど打った。
「痛かったかしら」と男に聞くので「たいした事もない」と答えると
「そういうお方と思っていました」と言って、縄を解くと、竈の土を煎じて酢にまぜて飲ませ、土を良くはらってそこに寝かせた。
二時間ばかりして起してやると、もういつもに変わらぬ身体になっていたから、それからあとは、不断よりも滋養のある食事を男にすすめた。
こうして十分に養生して、さて三日ばかりたち、鞭で打った傷もほぼ元通りに癒ったころ また前と同じ離れに連れて行き、同じ幡物に縛って、以前のように鞭で打ったから、打つにつれて、血は流れ肉ははじけたのを、構わず八十度ほど打った。

「がまんできますか」と尋ねるので、男は顔色一つ変えず「何のこれぐらい」と答えたから、女は前の時よりもいっそう、男の我慢強さを褒めて、十分にいたわった。
さてまた、四五日して、同じ様に鞭で打ち、それにもやはり「何のこれぐらい」と答えたので、今度は仰向けにひっくり返して、腹を打った。
それにも「何のたいしたことはない」と答えたから、男の我慢強いのをたいそうほめて、そのあと毎日、手厚く看護したので、鞭のあともほどなく快癒した。
さてある夕暮れがた、女は黒い水干袴と立派な弓、矢筒、脚絆、藁沓などを出して来ると、男に身支度をととのえさせた。
そして男に向かい「これから蓼中の御門に行って、そっと弓の弦を鳴らしてごらんなさい。
するとそれに答えて、同じ様に弦をならす者があるでしょう。
また口笛を吹くと、やはり口笛で答える者があるはず。
そこに歩み寄れば『誰か』と聞かれるでしょうから、ただ『参った』と答えてください。
そこでその男のあとからついて行き言われたとおりに立番を命じられたところで立番をし、中から人が出て来て邪魔をしたら、手いっぱいに防いでください。
それから船岳(ふなおか)の麓に行って、その日の獲物を分配するでしょう。
けれども、くれるからといって、けっして受け取ってはなりませぬ」と懇切に教えた。

男は教えられたとおり出かけて行くと、言われたように呼び入れられた。
見れば、似たような装束の者が二十人ばかり立っていた。
その群れから少し放れて、背の低い、色白の男が立っていたが、他の男達は、その男には一目も二目も置いている様子であった。
その他に、下人が二三十人あまりもいた。
そこで手筈をととのえて、うち連れ立って京の町にはいり、大きな屋敷を襲うのに、まず二十人ばかりの人数を二三人づつ分けて、その付近の手強そうな家々の門に立番させ、残り全部が一気に、目指す屋敷に侵入した。
この男の腕前を試そうと思ったのか、中でも特に手強そうな家の門に割り当てられた人数の中に、この男も加わっていた。
その屋敷からも、助けに打って出ようとする侍どもが、盛んに矢を射たが男は奮戦して、相手かたを射とめ、また処々方々で戦っている仲間の者どもの働きにも、よく目をくばっていた。
取るだけのものを奪い取って引き上げると、味方は船岳の麓に行って獲物を分配したが、
この男にもくれようと言うのを「私は獲物はいりません。
こうして習い覚えるだけで結構です」と断ったから、味方の首領と思われる少し離れて立っていた小男は、満足そうにうなずいた。
そこで仲間は別れ別れになって立ち去った。
この男が家に帰ってみると、女は風呂を沸かし、食事の支度などをして待っていたから、ゆっくりくつろいだあとで、二人で寝た。
もうこの女が愛しくてたまらなっていたから、盗賊の仲間にはいったとわかっても、この女を恨みには思わなかった。
このようなことがすでに七八度にもなった。
ある時には、男に太刀を持たせて、目指す屋敷に侵入させた。
ある時には、弓矢を持たせて外に立たせておいた。どんな時でもまめまめしく立ち働いた。
こうしているうちに、女が鍵を一つ持ち出して来て、男に教えて言うには
「六角小路の北のほうの、これこれというところにいくと幾つも藏があります。
その中のこれこれの藏をこの鍵で開き、目ぼしい品物をよく荷造りして、その近くに車を貸す者がおりますから、それを呼んで 積み込ませたうえで、ここへ運んで来てください」
こう命じられたので、男はそのとおりに行ってみると、なるほど藏が幾つもある。
そのうちの、命じられた藏を開けてみると、自分のほしいと思うものは、何でも揃っている。
驚きいったものだ、と感心しながら、言われたとおり車を呼んで来て家に運び、すき放題にそれらを使って暮らした。

そうこうするうちに、いつしか二年ばかりが過ぎた。
ところがこの妻が心細そうに沈み込んで、こっそり泣いている事が多くなった。
今までについぞないことなので、男が怪しんで「どうしたわけなのか」と尋ねてみると
「何でもありません。
ただ、思いもかけず別れるような事になりはしないかと、それが心配でなりません」と答えた。
「こうして暮らしているのに、何もいまさら、そんな」つまらぬ取り越し苦労なんかすることはあるまい」と慰めても、
女は「はかない浮世の習いですもの」と言って嘆く。

男はたいして気にもとめずに聞き流してしまい「ちょっと用事があるから出かけてくる」と妻に言えば、前々のとおりにまめまめしく支度をととのえて、供の者も、乗馬も、不断に変わらずに用意した。
二三日がかりの用事なので、その晩は旅先にみんなして泊まったが、次の日の夕暮れがきた。
供の者どもがなにげなく馬を引出して行ったかと思ううち、いつまでたっても帰って来ない。
男は明日には家に帰る予定なのに、これはどうしたことか、とさがしまわっても、どうにもゆくえが知れないので、驚き怪しんで、人から馬を借りて大急ぎで自宅に戻ってみると、自分の家が跡形ももない。
これはどうしたことかと仰天して、例の藏のあったところへも行ってはみたが、これまた跡形もない。
誰に聞くというほどの人もいないので、茫然自失していたが、その時初めて、妻が泣きながら言った言葉の意味が思い合わされた。

いまさらどうにもならないので、昔の知り合いの家に行って厄介になっていたが、つい習い性となって自分から盗みを働くことが二度三度と重なった。
それから検非違使庁に捕えられて、せめ問われたのでこれまでの事を包まず自白した。
何とも奇妙な事である。
その女は変化のたぐいででもあったろうか。
一日二日のうちに、家をも藏をも一物あまさずに壊して取り壊してしまった。
これが不思議。
また、多くの財宝も、従僕どもも、みんな煙のように消えてしまい、あとになっても噂一つ聞くことがなかった。
これも奇妙。
また、家にいるあいだにかくべつ女が指図をしたわけでもないのに、時分時になると、ちゃんと従僕どもが食事を運んで来た。
これも奇怪千万である。
この家に、男は二三年もいっしょに暮らしていたのに、どういうからくりになっているのか、これぽっちも、ついにわからずじまいだった。
ただ、一度だけ、仲間の者どもに恐れうやまわれている男が、離れたところで指図していたが、その顔つきが、松明の火影に照らされて男とも見えず、色白で美しく、妻に似ているような気がしたことがあるが、それも確かだと言い切る事もできず、曖昧なままにそれっきりになった。
世にも珍しき事ゆえ、このように伝えられている。
『生まれた子の命を予言する話』-今昔物語より-

東国に下る者があった。
何処の国とも知れず、ある人里を通り過ぎたが、日もようやく暮れかけたので今夜はこの里に一宿りしようと思い、あたりを見わたすと、小さな家ながら構えもゆったりと、人の出入りもある裕福そうな家が見つかった。
そこで馬から下りて「これは旅の者でございますが、日暮になりましたので、今夜ばかりの宿をお願いします」と申し出た。
この家の主人らしい年老いた女が現われ出て「さあどうぞおあがりください」とすすめるので、喜んで上がらせてもらい、客間らしい部屋に通された。
そのうちに夜になったから、旅籠(旅中の食糧を入れる籠)を開いて食事を取り、やがて寝たが、真夜中と思われる頃、家の奥で不意に人の騒ぐ声がする。
何事かと思ううち、先ほどの女主人が出て来て「私の娘が、この月は臨月に当たっておりましたが、まさか今日明日の事はあるまいと思いまして、そこもとの御宿も差し上げました。
ただ今娘が急に産気づきました様子で、もう夜でもあり、すぐにも生まれるような事があれば、不浄のところに御宿いたさせて申し訳のない次第でございますが、 いかがいたしたものでしょう」と聞くから、
旅人は答えて「そんな事はどうぞご心配なく。
私は、産の穢れなどということは、ちっとも気にしませんから」
「そうですか。それは助かりました」と言って、女はまた奥へ戻った。
その後暫くすると、騒ぎが一段と高まったから、さては生まれたなと思っていると、この旅人のいた部屋の、すぐそばに戸があったが、その戸から、背の高さ八尺ばかりの、思わずぞっとするような恐ろしい男が、外へ出て行った。
その出て行きがけに、何とも言えぬ不気味な声で「年は八歳、命は自害」と謎のような事を口走った。
どういう男なのか、何でまたこんな事を言ったのか、と不思議に思ったが、外は暗闇でもう姿は見えない。
誰にも話さずに、朝になって早い内に出立した。
さて東国に八年いて、九年目に、この旅人が京に登る途中、行きがけに泊まったこの家のことを思い出し親切にもてなしてくれたからそのお礼も言おうと思って、また前のとおりに宿を取った。
昔の女主人も、ひどく年老いていたが、顔を出した。

「よくおいでになりました」などと言って四方山の話をしたが、
そこで旅人が「その節ここに宿をお借りした晩に生まれたお子さんも、もう大きくおなりでしょうねえ。
男の子ですか、女の子ですか。
あの時は急いでいたもので、その事もお聞きしませんでした」と言うと
女主人はさめざめと泣いて「実はその事でございます。
可愛らしい男の子でございました。
昨年のある月ある日に、高い木に登って鎌で木の枝を切っておりましたが、足を滑らせて木からおち、その鎌の刃が頭に刺さってはかなく亡くなりました。
本当に可哀想な事を致しました」と言った。
その時旅人は、例の晩に、戸から外へ出て行った者の口走った言葉を思い出して、さてはあれは鬼神ででもあったのか、とぞっとなった。
そこでその晩の事を話して聞かせ「どういうわけか、訳がわからないので、これは御家内の人が言われた事と思い、どなたにも申し上げずにおりましたが、これはその怪しい者が予言をしたことなのですね」と言ったので老女はいよいよ泣き沈んだ。

『古蛛怪異(こちゅうけい)』-新御伽裨子より-

美濃の国、本巣と言う所の近辺に、道の左右に高い木が生い茂っている所があった。
此処を夜中に通る者は必ず死ぬとの噂があり、日が暮れてからは、あえて通る者はいなかった。
本巣に浪人がいて、ある事情があって、武門を出て、暫くこの場所に住んでいた。
下僕に言いつけて「今宵、急用があってある所に行ってもらう。早く行ってきてくれ」と言った。
この下僕は、特に臆病であって、彼の松原を通る事を思うと身震いして恐ろしがった。
しかし、迂回して行くと大きく険しい場所を通って、しかも二里余も余計に行かねばならなかった。
さらに、急用であるというには遅くなってしまう。
大事な役目であるから、ここはしかたがないと思いながら、力なく松原にさしかかり、足が地についていなかった。

ここに大きな榎の木が松に争うように生え出ているところがある。
この下を通る時、何とは知らず、黒く丸くて一尺余の物が鑵子(かんす:茶の湯の釜)などがひらめくように、榎の木からするすると下りてきた。
星さえ出ていない暗い夜に物凄い雨まで降って来て、この男は進退きわまった。
この木のそばを眺めると、七尺余の女が、色が白くみどりの髪の毛を振り乱すと眼もない顔が忽然と出てきた。
男は一目見るなり「あっ」と言って、うつ伏せに倒れて気絶した。
主人は、下僕の帰りが遅いのを不思議に思って、他に使う下僕もいないので、松明を取って、自ら、この道に行ってみると、下僕が木の下に倒れていた。
主人は驚き、水をかけたりして呼びかけると、ようやく人心地ついて、事の次第を語った。
連れて帰ろうとすると彼が倒れていた場所に怪しい物があった。
火をかかげて見ると、針のような毛の生えた物凄く大きな蜘蛛が死んでいた。
思うにこれは、下僕が気を失って倒れた所を狙って、取って食べようとして木から下がる時にあやまって倒れ込んだ下僕に押しつぶされ死んだものであろう。
怪我の功名で手柄をたてたと考えられる。

本当に前々からこのあたりで魔物が出て、人を取るといわれていたのがこれであろう。
見事にこの蜘蛛を自分が退治したと披露して、勇敢な者であるとの評判をあげ、今一度、知行にあやかろうと思った。
下僕を生かしておいてはためにならないと心臓のあたりを刺し通し、死骸を死骸を荒野のなかに深く埋め、この蜘蛛を引っさげて里に帰えった。
近所の者達を呼んで手柄を語った。
人々は皆、肝を潰して、強力の人だと褒めたたえた。
ところが、死んだ下僕が里中の者の夢に出てこう言った。
「私は、このような事によって非業の死をとげた。
疑う気持ちがあるならば、この松の根を掘って見てください」
人々が集まって夢を語ったが、皆同じ夢を見ていた事におどろいて、不思議に思いながら彼の松原に行ってみると、実に新しく埋めてある土の場所があった。
掘って見ると下僕の屍体であった。
このため浪人は捕まり、殺害された。
『幽霊来たりて子を産む事 付亡母子を憐れむ事』-片仮名本・因果物語より-

羽州最上の山方(山形)に霊童と名づけられた者がいた。
彼のいわれを聞くと最上の商人が京に上り女房を持っていたが、その女房を捨てるようにして最上へ戻った所に、京の女房が訪ねて来た。
このとき、山方の女房と別れて、京の女房を家に置き、子供を一人儲けた。
その後、また京へ上って、京の女房のいた場所へ行ってみると、そこの亭主が男を見ると「貴方の女房が亡くなられて三年にもなります」と言った。
男はこれを聞いて「なんと不思議な事を云われる。
その女は最上へやってきて、あまつさえ子供を一人いますよ」と言った。
女の父はそれを聞いてとても喜んだ。
急いで最上へやってきて、彼の家に行くと、部屋には女房はいなかった。
父は、あまりのことに部屋を見渡すと、京で立てた筈の卒塔婆があった。
戒名年号に間違いなかった。
このことによって、その子の名前を霊童と名づけた。

摂州、大阪の近所に、死んだもとの女房がやってきて子供の髪を結う事が三年続いた。
ある時来て、今の女房の舌を抜いた。今の女房がいろいろ養生して良くなると、離別してよそへ行った。

紀州にてある人の内儀が難産にて死去した。
しかし、子供は生まれてきた。
この母の亡霊がやって来ると子供を抱いて、乳を飲ませ、三歳になるまで育てた。
女房は十七歳の年に亡くなったが三年過ぎても十七歳のように見えた。
その子が十七、八の頃見た人が確かな事だよと語った。
顔色が少し悪い男だったとも言った。
『私をいたしける手代の事』-平仮名本・因果物語より-

越前国敦賀の町に、米問屋仁兵衛というものの手代に、作十郎という者がいた。
長い間奉公をしていおり、しかもよろずの事に才能があれば、万事、作十郎にまかせて商いを切り盛りさせていた。
その間に私利私欲をかまえて、金銀を貯えて、ひそかに己の商いをして、損をすれば、主人の損にかけてしまった。
この者は、私欲の為に商売をしていると評判になってしまったので主人の仁兵衛は大いに戒め、叱って「ゆめゆめ、さようの事、致してません」と神仏に対して起請文を書き、血判を押した。
こうして二十日あまり過ぎた後、作十郎の身に大きな瘡が出来た。
身が熱くなる事は火に焼かれるようで、痛む事はいえないほどであうめき悲しんだ。
薬を与えてもらったが直ることはなく、七日目についに死んでしまった。
屍の臭い事はたとえ様もなく。
をしほの西福寺に送って、土葬にして上に卒塔婆を立てた。

さて、初七日にかの仁兵衛夫婦の人や永々なじみの者が、不憫に思って、涙を流し坊主をよんで経を読んで、それから、西福寺から墓に回ると、作十郎の卒塔婆がおびただしくべきべきと鳴った。
モミの木の板は、日の照らされている所が乾き縮んでめためたと鳴り出した。
「こんな事もあるかも知れぬ」と云うものもいれば「けしからず鳴る事は、事情があるに違いない凄まじい事だ」という人もいた。
大勢伴って行ったが、だれ一人も近くによって見ようとする人はいなかった。
卒塔婆が動き出て打ちたおれて、墳が崩れて、死骸がはね出て、反りかえって、臥した。
人々は肝を冷やして、逃げ惑った。
けれども、捨てて置く事も出来ないので「火葬にしよう」と人を頼んで、薪を積み重ねて焼くと火の中からはね出て二三度もこのようにしていたのをようやく灰にしてもとの墳に埋めねんごろに、弔えば、その後は別に何も起きなかったと言う。
元和中年の頃、糸屋宗貞がそう語った。
『艶書の執念、鬼と成りし事』-諸国百物語より-

伊賀の国、喰代という所に寺が六十軒あった。
一休禅師が修行に出ていて、この場所で日が暮れたので、宿を借りようとして寺々を見たが人が一人もいなかった。
一休は不思議に思って残らず寺々を見て回ると、ある寺に美しい稚児が一人いた。
一休はそこに立ち寄って「宿を貸してもらえるかな」と訪ねると「かまいませんけれども、この寺には夜な夜な変化の物が来て人を取り殺します」と言った。
一休は「出家の身であるので、かまいませんよ」と言った。
「でしたら泊まってください」と言って客殿に入れて、稚児は次の間に眠った。
夜半頃、稚児の寝ていた縁の下から手毬ほどの火が幾つともなく出てきて、稚児の懐へ入ったかと思ったら、たちまち二丈ばかりの鬼となって、客殿にやって来た。
「今宵、この寺に泊まった客僧は何処にいるのか。取って食おう」と探し回った。

一休はもとより仏事に専念していたので、鬼は一休を探し出す事が出来なかった。
ほどなく夜も明ければ、鬼も稚児の寝間に帰るかのように消えていった。
一休は不思議に思って「貴方の寝ておられる縁の下を見せてもらえますか」と言って見てみると、縁の下には血書で書かれた恋文が数知れずあった。
事の次第を尋ねると、方々からこの稚児を恋忍んで、寄せていた文を返事もせずに、縁の下に投げ入れたままにしていた。
その文主の執念が積もり積もって、夜な夜な稚児の懐に通って、すなわち鬼となっていた。
一休はこの文を取り出して、積み重ねて焼き払い経を読んで、さとし戒めれば、それより後は変わった事は起こらなくなった。
『板垣の三郎高名の事』-曾呂利物語より-

駿河の国に大森、今川藤と云われていた人がいた。
府中に在城していたが、ある夜の徒然に家の家来達を集め
酒宴が数時間過ぎた頃、「さて、誰か今夜千本の上の社まで行ってくる者はいないか」と言ったが、日頃手柄を立てる者は多くても
この場所は、噂に聞こえた魔所であるので、あえて行こうという者はいなかった。
此処に、甲斐の国の出身で板垣の三郎という、代々弓矢をとっては隠れ無き勇者がいた。
彼が、「私が行きましょう」と言った。

頃は九月中旬の事であったので、月はとても白く、木の葉が降り積もっていた森を過ぎて石段を通って、杉の木より小さな物が一つ、ひらめいて足もとに落ちた。
怪しんでこれを見ると、へぎ(杉または檜を薄く削って作った板)一枚であった。
このような所に何かあるなと思いながら、踏み割って通っていった。
割れた音が山彦のようにおびただしく聞こえてくるのを不審に思いながらも別に何事も無く、上の社の前にて一礼して、記の札をたてて置いて帰ろうとしたが、何処とも無く、白き練りの一重を被っている女が一人来た。
さては、音に聞こえた変化の物が我をたぶらかそうとして来たのだと思って、走りよって被っている衣を引き剥がして見ると大きな目が一つあって、振り乱した髪の下より、並んだ角が生えていてが、薄化生にお歯黒をつけていた。
恐ろしいとしか言いようがなかった。
けれども板垣は少しもひるまずに「何者だ」と言って、太刀を抜こうとしたら、かき消すようにいなくなった。
不審に思ったが、しかたがなく立ち返って、大森の前に戻って「証を立てて帰ってきました。お確かめに何方か立ててください」と申しあげた。
「まことに板垣でなければ、無事に戻ってこれなかっただろう」と一同感じた。

「さて、何か逢いはしまなかったか」と尋ねると「いや、何事も怪しい事はありませんでした」と言った。
すると、座敷からも見えていた月夜であったが俄かにかき曇り、降る雨はは車軸を流すようであった。
虚空にしわがれ声で「いかに板垣、さっき、我の腹をなぜ踏み割った。誤るが良い」と声がした。
そこで全員車座になって、面々がせめると板垣は千本であった事を残さず話した。
けれども、風雨はなお止まず、稲妻おびただしく、雷さえ鳴り、殿中が物騒がしくなった。
「どう見てもこのままだと板垣を取るつもりだろう」と思い、唐櫃の中に板垣を入れて各々番をして、夜が明けるのを待った。
さて、雷も次第に止み、天の光も晴れ出して、五更(午前3時~5時)も明けた。
「板垣を出してやれ」といって、櫃の蓋を取ってみれば、忽然として何も無かった。
「これは、どうしたことだ」と皆、奇異の思いをしている所に、虚空から二、三千人の声でどっと笑った。
走り出て見れば、板垣の首が縁上に落ちてきた。
『別れた女に逢って命を落とす話』-今昔物語より-

右少弁藤原の師家という人がいた。
その人がお互いに思い思われて通っている女がいた。
良くできた女で、嫌な事があっても顔に出さず、心持のおだやかな人柄であったから、弁は何事につけても、女から疎ましく思われまいとして心をつかっていたが、なにぶんにも公時に勤める身では多忙に紛れることもあり、他の女性に引き留められる夜もあって、つい足が遠のく事が多くなった。
女はそういう目にあったこともなかったので、うとましく思い、打解けた様子も見せなくなったが、そのうちにようやく、男が尋ねて来る事も稀になり、もう昔のような事はなくなった。
憎いわけではないが、寂しさが高じて心良く思わなくなったために、お互いに嫌いになったわけでもないのに、とうとう絶えて女の家に出入りすることがなくなってしまった。

それから半年ばかり過ぎて、弁がその女の家の前を通り過ぎたことがあった。
その家に使われている者が、たまたま外出から帰ってきたので、すぐさま女主人に「弁の殿がちょうど家の前をお通りになりました。
こちらにお通いになっていた頃の事など思い合わされて、悲しゅうございます」と告げたので、女主人は行き過ぎる弁の跡を追わせて
「申し上げたい事もございますから、暫くお立ち寄りくださいませんか」と言わせた。
弁はそれを聞くと、昔はここに足しげく通ったものだと思い出して、車を戻してその家に入ってみると、女は経箱に向って法華経を読んでいたが、しなやかな衣に静しげな生絹の袴などをつけ、それも男の来るのに慌てて身づくろいをしたという様子ではない。
目、額、口つきなども美しくて、見るからに振るいつきたいようである。

弁はまるで初めて逢う人のような心地がして、どうして今までこれほどの女をおろそかにしていたのかと、返し返すも口惜しく、
女が経を読んでいるのを押しとめてでも早く寝たいものだと思ったが、この月ごろ疎遠になっていたのに無理強いな事をするのも気が咎めて、
何やかやと言葉をかけて気を惹いてみるが、女は返事もしない。
読経が終ってから、ゆるゆる話をしようという気色である。
やさしげな顔立ちの美しさ、もし過ぎ去った昔の気持ちを取り返せるものならば、今すぐにでも取り返したいと、恥も外聞もなく思いつめ、
今日からはこのまま女の家に滞留して、以後もしこの女を疎んずる様な事があればいかなる天罰も受けようなどと、心の中で百万遍も宣言を立ながら、
このごろ無沙汰に過ぎたのはけっして本心ではなかったなどと、言い訳を繰り返したが、女は相変わらず読経三昧、
返事もせず、やがて七の巻になって、薬王品を繰り返し繰り返し三度ほども読んでいる。
弁もついにあきれて「どうしてお経ばかり読んでいるのですか。早く読み終わりなさい。話したい事も沢山あるのに」と言った。

その時女が読んでいたのは「於此命終。即往安楽世界。阿弥陀仏。大菩薩衆。囲遶住所。青蓮華中。宝座之上。」というところで、ほろほろと目から涙をこぼした。
弁は驚いて「あきれたものだ。尼さんみたいに仏心がついたんですか」とひやかしたところに女の涙の浮かんだ目がはたと自分の目と見合った。
露に濡れたとみえるその風情に、ああ悪かった、月日ごろどんなに薄情な男と恨んでいた事だろう、と思ううち、自分も忍びかねて落涙した。
もしやこの後この人に逢えないとしたなら、どんなに悲しかろうと今までのことが思い合わせて、慙愧に臍をかむ思いである。
そのうちに、女は経を読み終わって、沈香木の数珠に琥珀の飾りをつけたのを押し揉んでしきりに祈念していたが、やがて目を見上げたその様子が今までとは打って変わって気味が悪いから
どうしたことかと見守るうちに女は口を開いて、「今一度お顔を見たいと思って、お呼びいたしました。もうこれまででございます」と言ったかと思えば、もう命は絶えていた。

弁はびっくりして「どうしたんだ。誰かいないか」などと大声で叫んだが、急を聞きつけてくる人もいない。
しばらくしてから、やっとのことで年かさの女官が「どうしました」などと悠長な声をしながら顔を差し出したが、弁が入るのを見てびっくりし「おや驚いた。これはいったいどうしたことです」と慌てふためいた。
今となっては手の下しようも無く、死人の出た家にいるわけにもいかないので、弁はそこを引き上げた。
生きていた頃の女の顔が面影に浮かんで悲しく思うにつけても、こんな事になろうとは、神ならぬ身の知るはずもなかったのである。
自分の屋敷に戻ってからしばらくも経たないうちに病みつき、数日後とうとう死んでしまった。
『人玉の事』-義残後覚 -

確かに、人の一念によって炎のように燃え上がる怒りと怨みと云うものがあるという事は僧においても、俗人においてもその説は数が多い。
しかし、ついに目に見た事の無い者は疑う者も多い。
目前にこれを見るに、後生ふかくその事を大事に思ってしまう。
これをあわせて考えると、人ごとに人玉という物の有る事を数々の人が歴然にのように話しても、確かに信じがたく思われる。
北国の人が言うには、越中の大津の城とやらを佐々内藏介に攻めている時に、城側も強く防いではいたが、多勢の軍勢で手痛く攻めているほどに、城中が弱って、すでにはや明日には討死しようかという時に、女や童が泣き悲しんだ。まことに哀れに見えていた。
この時にはすでに日も暮れかかっていれば、城中より天目茶碗ほどの光っている玉がいくらという数かぎりなく、飛び出るほどに、寄せ衆はこれを見て
「もはや城中は死の用意をしているぞ。あの人玉の出ている事をみよ」といって我も我もと見物した。

ここにおいて、降参して城を渡し、一命を取り留めて、さまざまの条件を受け入れたので内藏介は、それに同意して、戦は終った。
「良かった」と城中の者喜んだ。
そして、その日の夕暮れには昨日飛び去っていた人玉がまた何処ともなく出てきて城中目指して飛び戻った。
これを見たものは何千という数しれず。
不思議な事であった。
NEXT
BACK
TEXT