File No.026 伝説または逸話

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江戸中期の『見聞雑記』と云う書に九郎右衛門についての不思議な話が書いてある。
ある時、九郎右衛門は、弟子に早走りの術を教えていた。
ところが、途中で空腹をおぼえたため、弟子と共に姿を消し、近くでやっている婚礼をやっている家に入り込み、客にまぎれて料理を食べた。
しかし、弟子は未熟だった為うっかりして術を破り、姿をあらわした。
客がそれに気づいて大騒ぎになり二人はあわてて逃げ出した。

前述の九郎右衛門は松本藩の忍者である。
隣の諏訪藩で御家騒動が起き、家老の千野兵庫が悪い重臣達に欺かれ牢屋に監禁されてしまった。
この時九郎右衛門は頼まれて、姿を消して厳重に警戒されている牢屋に忍び込んだ。
さらに兵庫にも薬を飲ませて透明にして、誰にも見られずに牢屋の外までつれだし、無事に江戸藩邸に送り届けたと云う。

ある夜、藩主が九郎右衛門を酒宴に呼んだ時に「座興になにか忍びの業を見せよ」と云った。
九郎右衛門は「承知。」と言ったままただ平伏して、額を畳に擦り付けているばかりだった。
居並ぶ人々はどんな業を見せるのかと期待していたが何もせずに時間だけが過ぎて行った。
何もせずに平伏している彼の姿が滑稽に見えて人々の間から失笑が漏れ出した。
その時藩主の近くで舞っていた二十人近くの女達の悲鳴や絶叫が起こり人々が何事かと驚いてそちらを見ると彼女たちは袂で顔を隠しながら、その場でうつぶしていた。
そればかりか彼女らの頭上から真っ赤な腰巻がひらひらと舞い落ちてきたのである。
一瞬の内に彼女たちの腰巻を剥ぎ取り、頭上に舞わしたのだが、あまりにも早く九郎右衛門が平伏したままのようにしか見えなかったのである。
人々はそのことを知って、その神業に只唖然としたと言う。

九郎右衛門が台所で夕食の支度を始めようとしていると、刺客が彼を狙って忍び込み、物陰から隙を覗っていた。
九郎右衛門は、土間で薪を割ろうとして斧を振り上げ、薪を真っ二つにした。
それと同時に物陰に隠れていた刺客の片腕も肩から切落とされたと云う。
越後国の村上周防守義明の家来に忍術を始めとして、じつに不思議な術を使う侍がいた。
「あの男ならどんな堅城であろうと、やすやすと忍び入るに違いない」と噂になるほどだった。
あるとき2,3人の同輩がその術者の家を訪ね、歓談した時、術者は奇妙な問いかけをした。
「おのおの方、天河の鮎というものを食した事がおありか」
いくら興に乗っての話とはいえ、天の川に鮎などいるはずもなく、話をしていたのは冬のことなので、鮎など見る事も出来ぬ季節である。
「冗談をいうな。天河の鮎などあるはずがなかろう」同輩達は笑いながら言った。
「そうか、見た事も食したこともないのか。それでは雪のもてなしに、天河の鮎を食してもらおうか。おのおの方、よくごらんられ」術者はそういうと、使用人を呼んで、何本もの細引を持ってこさせた。
一本ずつ結びあわせて長くすると、これをもって庭へ出かけたのである。
術者は長く結んだ細引の一端をしっかり握ると、細引を思い切り空へ投げた。
普通なら細引はすぐ落ちてくるはずなのに、不思議なことに彼が空へ投げた細引はまるで生きているかのように、ぴんとたちあがり、ドンドン天へ上がっていく。
術者はその細引に手をかけると木を登るのと同じ様に、するすると登っていった。
それが実に素早い。
彼の体が半分になったかと思うと、やがて小石くらいの大きさになり豆粒ほどになって遂に見えなくなったのである。

同輩は唖然としながら空を見上げていると、まもなく術者の姿が雲のあいだからぽっと現われると次第におおきくなり、あっというまに庭におりたった。術者は疲れた様子もなく細引を手繰り寄せ、使用人に持っていませた。
「天河の鮎はあったのか」同輩達は平然として着物の袂から次々に鮎を取り出した。
2,30匹もあったろうか、いずれも立派な鮎であった。
術者はその後もこうした不思議な術を見せ、人々を驚かせていた。
それを伝え聞いた村上義明も興味を抱き、「私もその術とやらを見たいものだ」と言い出し術者は城中で不思議な術を披露することになったのである。
術者は義明をはじめ、側近が居並ぶなか、懐中からなんの変哲もない鼻紙を取り出すと口にいれてぐちゃぐちゃとやりはじめた。
つぎにこれを口から出し、豆粒ほどの大きさにまるめて、庭の柱に押し付け、もとの場所に戻った。

義明や側近の者たちは、顔に不審の色を浮かべ、柱にくっつかれた小さな紙の塊をみつめていた。
「なんだ。なんにも起こらないではないか」人々が内心そう思い出した頃、まもなく柱にくっつけられた紙の小さな塊から、ゆっくり滴が垂れはじめたのだ。
その滴が流れとなっていく。
ここで義明らは、驚きの声をあげた。
やがて、その流は滝となり水が庭一面に満ち、ひたひたと座敷へ上がってくる。
悲鳴をあげたものもいたが、義明もあわてふためき「もはや無用じゃ。やめよ」と命じた。
術者はゆっくりと立ち上がり、柱につけた小さな紙の塊を取り除く。
すると、それと同時に座敷まで押し寄せてきた水が引き、見る間に庭の土も現われてきた。
あっというまにの出来事だった。
しかも、不思議な事に、水がひいた後の畳や庭はまったく濡れていなかった。
「見事だが、怪しい術じゃ」義明はそう言って、晴れない顔をした。

それからまもなく「あの男は禁制のキリシタンではないのか」と噂が立った。
重臣達も放置しておけず、協議した。
「不憫な事だが、無益の術を覚えている科によって、切腹を命じる」という結論に達した。
術者は僧に埋葬の事を頼み、切腹の座につく。ためらいもなく腹を切ると、介錯人が首を落した。
僧は頼まれた通り、死骸を長持に入れて鍵をかけ、葬ったのである。
それからまもなくして、死んだ術者からの書状が家老の元に届けられたのである。
「私にはなんの科もなく、死罪にあういわれはない。それゆえ、私は城下から出て、遠くの地へ退いた」とあった。
切腹したはずの人間がどのようにして退出できるのか。
重臣達は恐れおののいたが、それが本当なのか確かめて見なければいけない。
さっそく術者を葬った長持を掘り出して検分した。なんとしたことか、そこには術者の死骸がなく、腸をだした大きな狸の死骸が横たわっていたのである。
これは、『耳の垢』という書に書かれている話だが、さしさわりがあるのか術者の名は記されていない。
『豊後の国何がしの女房、死骸を漆にて塗りたる事』-諸国百物語より-

豊後の国に何がし者がいたが、この人の妻は十七歳にて、隠れなき美人にて夫婦仲は非常に良かった。
この男は常々睦言に「お前が先に亡くなっても、二度と妻をもらう事ないだろう」と言っていた。
ある時、女房が風邪をこじらせて亡くなった。
今際の際に夫に云った事は、「私を不憫とお思いなれば、土葬や火葬にはしないで下さい。
私の腹を裂き、はらわたを取り出して中へ米を詰めて、上からは漆を塗り固めて、おもてに持仏堂を作って、私をその中に入れ、鉦鼓を持たせて置いて下さい。
朝夕に私の前に来て、念仏を唱えてください」そう言って亡くなった。
男は遺言の通りに、女の腹をあけ、米を入れて、漆を塗って、持仏堂を作り、そこへ入れた。
それから、二年ばかりは妻を持たずに念仏をしていたが、友達に無理にすすめられて、妻をとったが、この妻は事情も告げずに離縁してくださいとしきりに言った。
男はいろいろ悩んだが、新しい妻は「とにかく、この家には住めません」と言って実家に帰った。
その後、何度新しい妻を呼んでも、皆同じ事を言って、実家に帰った。
ただ事では無いと思って、さまざまな祈祷などを行なって、又妻を呼び迎えた。
真に祈祷のおかげであろうか、今度は五、六十日ほどは何事も無かった。

ある夜の事、男は外へ遊びに行き、妻は女中などを集め、話などしていたが、午後十時ごろ表より鉦鼓の音が聞こえてきた。
皆、不審に思って聞いてみると次第に近くなって、奥の間まで来た。
皆驚いて、戸にかけがねをを固め、身を縮めていた。
二間、三間の戸をさらり、さらりと開け、今、最後の戸の前に来て女の声で「ここを開けなさい」と言った。
しかし、皆恐れて音も出さなかった。
「此処を開けなければ、仕方が無い。まあ、今度は帰るとしましょう。後で参って夜のお相手をしましょう。
私が来た事は決して夫には言ってはいけません。もしも、語った時には貴方の命はないでしょう」と言って、鉦鼓を打ちながら帰っていった。
あまりにも凄まじい事なので物の隙間から覗いて見ると、十七、八ぐらいの女の姿で顔より下は真っ黒にて、鉦鼓を持っていた。
人々は、驚き、夫の帰りを待ちかねていたが、夫が帰ってきたが、あの言葉の恐ろしさに、その夜は語らなかった。
あくる日、ただ「私を離縁させてください」と言った。
夫は不審に思って「急に何を言うのだ」と問いただせば、昨夜の事をすべて語った。

夫はそれを聞いて「それは、狐に騙されたのだ」とそ知らぬふりをしていたが、「どうしても、離縁させて下さい」と言うのをいろいろ言ってなだめていた。
その後、四、五日ほどして、夫がまた外へ出かけた後、夜半頃、また表で鉦鼓の音がしてきた。
「これは」と思って、又戸にかけがねを固めていれば、女の声にて「ここを開けなさい、開けなさい」と言った。
みな恐れてわなないたが、俄かに眠たくなって、そばにいた女中達は前後も知らず、眠りだした。
けれども、本妻は眠らずいた所に、二重三重の戸をさらりさらりと開けて、黒色に塗られた女性が、丈と同じ長さの髪をゆり下げて、本妻をつくづくと見て
「あら情けなや。以前私が参った事を夫に語ってはなりませぬと申したのに、すぐに話しましたね。
かえすがえすに恨めしや」と言うよりはやく、とびかかって、本妻の首をねじ切り、表をさして帰っていった。
夫も聞きつけ、家に帰って尋ねたが、下女たちは一部始終を話した。夫は驚き、持仏堂を開けて見ると黒色の女の前に今の女房の首があった。
夫は「さては、お前はなんと心の卑しい奴だ」と言って仏壇から引き下ろすと、かの黒色の女房が眼を見開き、夫の喉首に食らいつき夫も遂には亡くなった。
『嫉妬心から妻が箱をあける話』-今昔物語より-

長門国の前の国司で、藤原孝範という人があった。
その人が下総の国の権の守を勤めていたころだが、この人の下に荘園をまかされていた紀の遠助という者がいたが、彼が勤務を終えて、美濃の国へと帰ることになった。
その旅すがら、勢田の橋まで差しかかると、橋の上に女が衣の裾を取って立っていた。
遠助は怪しい女だと思って通り過ぎようとしたところに、女が「もし、どちらにおいでになりますか」と尋ねるので、遠助は馬から下りて「美濃の国へ帰ります」と答えた。
「おことづけしたいことがあるから、聞き取ってはくださいませんか」と言うので、なんとなく
「引き受けましょう」と承知すると
「ありがとうございます」と言いながら、女は懐から絹で包んだ小さな箱を取り出し、
「この箱を方県の郡の唐の里の某という橋までお持ちくだされば、橋の西のたもとに女官が待っているはずです。その女官にこれを渡してください」

遠助はそんな難しい頼みとは思わなかった、つまらない事を引き受けたものだと後悔したが
その女のありさまがどこか不気味なので、いまさら断るわけもいかず、箱を受け取りながら
「その橋のたもとにおいでの女房のお名前は。
どちらにお住まいでしょうか。
もし、そこにおいででなければ、何処をたずねたものか。
この箱は誰から差し上げると言えばいいのですか」と聞くと
「その橋まで行きさえすれば、これを受け取りにその女官が出てくるはずです。
間違いはありません。
きっと待ってます。
ただくれぐれもお願いしておきますが決してこの箱を開けて中を見てはなりませぬ」
このように問答しているのを、遠くから遠助の供をしていた従者達が眺めていたが女の姿は見えずにただ主人が馬から下り、用もないのに立ち止まって、名にやら言っている様子なのを怪しいことに思っていた。
遠助に箱を渡して、女は立ち去った。

それから馬に乗って旅を続け、美濃の国に着いたが、不覚にもせっかくの約束を忘れて橋を通り過ぎ、この箱を相手に渡さなかった。
家に着いてから、はたと思い出し、これは気の毒な事をした箱を渡すのを度忘れした。
いずれもう一度出かけて行って渡す事にしようと思って納戸のようなところの棚を上にそっとしまっておいた。
ところがこの遠助の妻は、並外れた嫉妬心の強い女で、遠助が箱をしまうのをちらりと見るとてっきりこれは好きな女への土産に、京からわざわざ買って来て、自分の目に見えぬところに隠したのだ、と邪推した。
そこで遠助が外出したすきに、こっそり箱を取り下ろし中を開けて見ると人の目玉をほじくり出して沢山入れてあった。
また男のまらの毛の少しついたのを切り取ってやはり沢山入れてあった。

妻はこれを見るなり、驚きあきれ、足も立たぬほど震え出した。
遠助が帰って来るや、悲鳴をあげて呼び寄せ、これをみせたから
「なんと見てはならぬと言われたものを、困った事をしてくれた」と言いながら、大急ぎで蓋をし、もとのように結んでおいた。
そこで教えられた橋まで急いでこの箱を持って行き、そこに立って待っていると、約束どおり女官が出てきた。
遠助は箱を渡して、勢田の橋で女から言われたとおりのことを伝えたが、その女官は箱を手にして「開けてみましたね」と睨んだ。
「とんでもない。けっしてそんな事はありません」と遠助は弁解したが、女官は物凄い顔付きになって「良くない事をなさいました」と言って、ひどく立腹した様子ながら、ともかく箱は受け取ってくれたので遠助もほっとして家に帰った。
ところがそのあと、どうも心持が良くないと言って寝こんでしまった。妻に向って 「あれほど開けないと約束した箱を、分別も無く開けるとは」と愚痴をこぼして、間もなく死んだ。
『産女の事』-宿直草より-

寛永四年の春、私の里のさる者の下女が子を孕んだまま死に、産女(うぶめ)となって来ると噂になって里の童は恐れて、柴の戸を閉め、葭(よし)の簾(すだれ)を下ろした。
私はその頃、他の場所にいて、帰ってみるとこの話を聞いた。
「その話が本当なら、その者が通った時に教えてくれ」と言った。
夜の八つの頃(午前一時半頃)私の母親があわただしく起した。
「何事だ」と言ったら「例の者が通るぞ、泣く声を聞いてみろ」と言った。
その声を聞くと、その声は呂律のようで「わああひ」と泣いた。二声まで泣いた。
平調にして、頭の方は高く、後は下がっていった。泣き声は長く、一声のうち二間ほど歩いていた。
その声の哀れさは、今も身に染みているほどだった。

この亡霊の夫は与七と云う者で、夜な夜な産女は与七の寝屋に行った。
与七は眠れなくなっていた。
あまりに腹が立ったので、自分の柱にこの産女を縄で縛り付けて置いたが、姿は残っているかと翌日に見ると、血のみ、付いていただけだった。
放っておいたが、絶えず来ていた。
よそへ行けば、そちらの方まで跡を慕ってきた。
へそくりの金にて経を読んで貰ったが、効果は無かった。
暫くして与七は魂が抜けたようになってしまった。
さる者が「その男の褌を、その産女の来る所に置けば、その跡は来ぬというぞ。ためしてみろ」と言った。
ならばと、下帯を窓に掛けて置いてみた。その夜に産女が来て去って行った。
翌日になって見ると窓に褌は無かった。それ以来二度と来なくなった。
『産女由来の事』-奇異雑談集-

ある人が語って曰く「京の西の岡当たりの事ではあるが、二夜、三夜産女の声を聞いた。
赤子の泣き声に似ていた。
『その姿を見にいこう』と言って二、三人、里の外に出て、夜更けに佇んでいると、一丁ばかり東の麦畑から泣き声が聞こえた。
火で照らし出して見ようと七、八人を誘って、弓槍、思い思いの兵具にて、松明を持った者四、五人が手分けして行くと麦の少ない所に物陰が見えた。
もう少し近づくと人の形をして、両方の手を地面につけて、跪いていた。
人を見て驚いていた。
みんなが『射殺そう』と言うのを、古老の者が『射殺す事は無用だ。
化生の物であるから、死ぬ事は無いだろう。
もし、射そこないって驚かせれば、怨みをうけて、この村に祟りをなすかもしれぬ。
さあ、もう帰ろう』といって帰って来た」などと言った。
この話は不思議である。

あるいは、世俗に曰く「懐妊不産して、死せる者がそのまま、野ざらしにしておくと、胎内の子供が死なずに、野に生まれると、母の魂魄が形となって、子供を抱いて養って夜歩くその赤子が泣くのを産女泣くと云う。
その形は腰より下は血に浸って、力弱い。
人がもしこれに会った時に『負ぶってください』と言われたら、いやがらずに子供を背負ってあげると、その人を裕福にするであろう」と言い伝えられている。
これもその真偽はわからない。
唐の姑獲というものが日本の産女である。
姑獲は鳥である。
これは『本草網目』の『鳥部』に載っている。
その文によると「一名は乳母鳥、いふ心は、産婦死し変化してこれになる。
よく人の子を取つて、もつて己が子とす。
胸前に両乳あり」とある。
これは人の子を取って自分の子供として、乳を飲ませて養う事は、人の乳母に似ているので乳母鳥という。
これは、婦人は子を無くすと子を欲しがるもの、たまたま懐妊して、産まずに難産にして死んだ時には、その執念魂魄変化して、鳥となって夜飛び回って、人の子供をとる。

又、『玄中記』に曰く「一名を隠飛、一名は夜行遊女。
よく人の小子をとつて、これを養ふ。
小子あるの家には、すなはち血その衣に点ずるをもつて誌(しるし)とす。
いまの時の人、小児の衣を夜露(さら)すことをせざるは、この為なり」とある。
これは、姑獲鳥で夜飛んで人の家に行って子供を訪ねると、子供の衣に夜外に置いておくと、その衣に触るために姑獲の血がその衣につく。
これを見て姑獲がきたしるしとする。
姑獲は産婦が死んで変化したものであるからその身は血にまみれている。
日本でも子供の衣を夜、外に干すのを嫌うのはこのためである。
『悪縁にあふも善心の勧めとなる事』-曾呂利物語より-

信濃の国の守護に召し使われていたある男が、ある時人を殺して、隠れていたが、敵が数多く狙っているとの話を聞きつけると、隣国にいた知り合いにの元に頼って行こうと思って、夜にまぎれて忍んで逃げようとしていた。
一門眷属に知らせずに、女房とも別れて一人で行こうとした。
女房は「人の道にはずれているのではないですか。一緒にいましょう」と強いて止めた。
しかし、人に探し出され、どのような目にあうかもしれない。そのほうが恥辱であると思って「一緒に逃げよう」と言って、夫婦ただ二人、深山の深いところを歩いていった。
ちょうど女房は身重であったので、しきりに腹を痛みながら、腰を押さえてながら、歩いていった。
向かいの火がかすかに見ているのをめざして行ってみると辻堂であった。
中にはいって休憩をとった。
その時に、人が一人来た。
辻堂の戸を荒らかにたたき出した。

「誰だ」と訪ねると「はるです。このように逃げ落ちて行くと聞いて、一所懸命に追いかけてきました。
山中をかき分けてようやく、此処まで来ました。
私は、他の者と違い幼い時から召抱えられていて、いつもおそばにいました。
できれば、ご一緒したいのです。
どうかこの戸を開けてください」と言った。
「女一人でこのような険しい山道を、このような夜遅くに一人で来るとはおかしい。本当にはるなのか」
「これは、貴方様のお言葉とも思えません。
身体は女ですが心持は男のつもりでここまでやってきました。
その気持ちを察してください」とさめざめと泣いた。
その声はまさしくはるだったので、堂にいれてやった。
女房ははるを見て少し心が落ち着いたのか、はるを傍に置いて居眠りを始めた。
女房もさすがに山道の疲れからか、ぼんやりしているときに後ろにいたはるが女房の首の周りを舐め回した。
驚いて目を覚まし、「どうして、私の首を舐めるなど恐ろしい事をするのですか」と言った。
はるは、「このように出産で気が立っているに違いありません。
ただの気のせいです。
少しも気にしないでお休みください」と言った。
男はそのような事もあるだろうなと思って油断していた隙に、何処ともなく二人とも消え去ってしまった。

男は目を覚ました後、肝をつぶして「これは、どうしたわけだ」と堂の外を調べたが行方は知れなかった。
そのあと、山の上に声がしたので登ってみると、谷の底で叫ぶ声がした。
そこで下を覗くと峰で声が出てくるなど、あちこちに惑わされて歩くうちに夜が明けた。
無念さのあまりに、腹を切ろうとしたが、麓に寺が見えたので、これでどうにかしてもらおうと急いで下って、住職に「しかじかの事がありました。妻と私の弔いをお願いします」と言って腹を切ろうとした。
坊主達は色々となだめ「兎に角、奥方の行方を捜してからでも遅くないでしょう」と言って、弟子たちを集めて大急ぎで、隈なく捜すと、大きな木の上にずたずたに引き裂かれて女房は置かれていた。
男は、いよいよ自害をしようと思ったが、長老は色々教訓して勧めて、この寺に出家させて妻を弔わせた。
『急なるときも、思案あるべき事』-宿直草より-

若い侍が道を歩いていると、里から遠く離れた所で日が暮れた。
どうしようかと辺りを見渡すと林下に古い寺があった。拝殿に上がって、柱にもたれて、ここで夜を明かそうと思った。
朱の玉垣は年を経た苔に埋もれて、しめ縄も風に飛んで朽ち果てており、荒れ放題になっているさまは、いくら秋とはいえ悲しげに思えた。
夜もさらに更けて、四更の空(午前三時頃)とおぼしき頃、十九か二十ばかりの女房が赤ん坊を抱いて忽然とやって来た。
このような人家も遠い所へ、女性が夜更けに来るわけが無く、どう考えても化生の物だと、不安になって用心した。
女は笑いながら、抱いていた子供に「あそこにいる方は父ですよ。行って抱かれて来なさい」といって差し出した。
するとその子は、するするとやって来た。
刀に手をかけてはたと睨めば、そのまま帰って母の元に戻った。
「心配ありませんよ」といってまた突き出した。
重ねて睨むとまた帰った。
こうする事四、五度になると「ならば、私が行きましょう」といって件の女房がやってくるのを臆することも無く抜き打ちににて切ると「あ」と言って、壁を伝って天井に上った。

やがて、夜が明けてから、壁に開いた穴を踏み、桁などを伝って、天井を見ると、爪から先の長さ二尺ばかりの上﨟蛛(じょろうぐも)が頭から背中まで切りつけられて死んでいた。
人の死骸があって、天井が狭くなっていた。
誰か殺された者がいるようだった。
また、連れ子と見えたのは古い五輪の塔であった。
多分、思うに化け物と気がついても子供の方を切っていれば、固い五輪の塔で名剣であっても折れるか、刃こぼれしていただろう。
その時に取り付かれればひとたまりも無かったであろう。
天井で死んでいる男はそうやって殺されたのであろう。
思案して、五輪の塔を切らずにすんだのは幸運であった。
『蜘蛛、人をとる事』-宿直草より-

ある人がまだ朝早く、宮へ参って瑞垣のほとりで話していると、拝殿の天井に大袈裟にうめく者があった。
不思議に思って、拝殿にあがって上を見ると、大きな土ぐもが己の糸にて人を巻き、首筋に食いついていた。
上がるとその蜘蛛は逃げていった。
それから立ち寄って、取り巻く蜘蛛の糸を取って「どうしたんですか」と言うと「それが、私は旅をしていた者ですが、昨日の黄昏時にここに来て、宿もないのでこの宮で夜を明かそうと思っていたのです。
旅の途中で寂しく思っているところに後から、疲れた顔の座頭がやってきたのです。
ともに寄り添ってお互いにはかなさを比べあうように旅の話をして、同じ様な人もいるなぁ。
と思っているとその琵琶法師が香箱を取り出して『これは良い物なので見てください』と私に投げたので右手で取ると鳥もちのように離れず、左手で押さえると又取り付いて、左右の足で離そうとすると、足も離れなくなってしまい。
そうする間に彼の座頭は蜘蛛へと変わっていて、私をまとって、天井に昇って、ひたすらに血を吸っていたのです。
痛さに耐えがたく、命も消えるかと思っていたところを救って頂きました。あなたは命の恩人です」と話した。
『地神に追われた陰陽師の話』-今昔物語より-

文徳天皇がお隠れになった時に、御陵の土地を選定するために、大納言の阿部保仁と云う人がその任に当たった。
多くの家来を引き連れてその場所に赴いた。
その時に滋岳川人という陰陽師があった。
陰陽道については、古にもその比を見ぬほどの大家で当時世に並びもなかった。
この川人が、御陵の選定も終っての帰り道に、深草の北を行きながら大納言のそばに馬を近づけて、名にやら言いたげな様子であった。
そこで大納言が耳を寄せるとひそひそ声で「私は今まで長い年月を、陰陽道にたずさわって、格別自慢をするほどのこともありませんでしたが公私につけて、あらまちということをしたことはありませぬ、それが今度ばかりは、途方もないあやまちを出かしました。
実はわたしどものあとを、地神(土の神)が追いかけて参ります。
これは、貴殿とこの川人とが、その罪を負うものであります。
どうなされるご所存か。
なかなか逃げ延びるのは難しい事と思われます」と心配そうに告げたので、大納言はぞっとしたきり何の分別も湧かず茫然となってしまった。

「私にはなんとも知恵はない。なんとか助けてくだされ」と言うばかり。
「さよう、とにかく手を拱いているわけにもいきません。何とかうまく身を隠しましょう」と川人が言って
「後から来る者は、みな先へ進め」と命じて二人だけ後に残った。
その間に日はとっぷりと暮れた。
暗闇にまぎれて、大納言と川人とは馬から下りると、乗っていた馬を前へ走らせ、二人だけ田んぼの中にとどまった。
川人は大納言を座らせると、田んぼに刈り取って積んである稲を運んで来て、大納言の身体が見えなくなるまで積み重ねた。
そして小さな声で呪文をとなえながら、その周囲を何度もめぐってから、稲の山を押し開いて中に入り込むと、大納言に準備が終ったことを告げた。
その川人の様子が、いかにも不安げで、手足がわなないているのを見ると大納言は今にも死にそうなほど蒼くなった。

こうして二人はひっそりと音も立てずにうずくまっていたが、やがてしばらくすると、千万人の通るような足音が、次々と起こった。
そのうち、すでに通り過ぎたと思われた足音が、たちまち戻って来て大声を上げるのを聞くと、人の声にもにているようでも、この世の者とは思われぬ怪しい声色で「確かこの辺まで、馬の足音が軽くなったはずだ。
みなみな、このあたりに集まれ。
土の下一二尺ほど掘り下げて、入念に探してみよ。
逃げおおせるわけはない。
しかしあの川人というのは、古の陰陽師にも劣らぬほどの術のすぐれた奴ゆえ、姿の見えぬよう、何やら細工をしたとみえる。
このまま逃がすようでは一大事、くまなく捜してみよ」と命令した。
足音は一斉に乱れたが、やがて、どうしても見つからない旨を口々に述べて、罵り騒ぐ声がする。
と主人と思われる声が「ええとうとう逃がしたか。
しかし逃げ押せるわけにはいかぬ。
今日は隠れたとしても、ついには必ずあの奴ばらに会わずにおかぬぞ。
いずれ大晦日の真夜中に、この天下のうち、下は土の底まで、上は目のとどく限りの空を、必ず奴等を探し出せ。
やわか隠れおおせることが出来るものか。
されば一同の者、その夜集まれ。
今はこれまでだ」と言って、足音はすべて遠ざかった。

あたりが静まり返ってから、大納言と川人とは稲の中から姿を現して、走って逃げた。大納言は、押さえようとしても押さえきれぬ震える声で「これはいったいどうしたものだろう」とため息をついて、
「あんなふうに隈なく探し回すのであれば、我々はとうてい逃げ延びる事は出来ない」と息も出来ずにいる。
「いや、うまく盗み聞きをしたのが、こちらの運というもの。
その夜は人に気取られぬようにして、二人でうまく隠れましょう。
大晦日が近くなってから、詳しい事を申し上げます」と川人が力をつけてやり、河原に待っていた馬のところまで歩いて行って、そこから別々に家に帰った。
やがて大晦日の日が来た。川人は大納言のもとに出向くと「けっして人に気取られぬようにして、一人で、二条と西の大宮大路との辻に、暗くなってから来てください」と教えた。
大納言は聞いたとおりに、暮れがたの、人々が忙しげに雑沓する間を縫って、ただ一人、約束の場所へ出かけた。
そこに川人が、待ちかねて佇んでいた。
二人は連れ立って嵯峨寺へ行った。

嵯峨寺へ着くと、二人は御堂の天井の上へと登った。
川人は陰陽道の呪文をとなえ、大納言は手に印を結び口に真言を踊し、心に本尊を観じるという、三密の行を修していた。
そのうちにいつしか真夜中になり、気味の悪い、異様なにおいのする、なま暖かい風が吹き渡った。
そのうち、まるで地震のように、地響きをして何かが通り過ぎて行ったから、ぞっとしてじっと蹲っていると、やがて時が過ぎて鶏が鳴いた。
そこで天井から下りまだ朝にはなっていなかったが、二人ともそれぞれ家に帰った。
別れ際に、川人が大納言に言うには「今はもうおそれることはありませぬ。
しかしこれほどの災難も、この川人なればこそ、どうやら免れることができたのですぞ」
これを聞いて大納言は川人をうやうやしく拝み、今は案じて家路についた。
『幽鬼、嬰児に乳す』-伽婢子(おとぎぼうこ)より

伊予の国風早郡(愛媛県温水郡北上町付近)の百姓がある時に、家中の人々が次々に亡くなった。
その時に村中の一族残りなく死に失せて、ただ、兄弟二人が生き残った。結核の病はほんとうに、その家系を根絶やしにするというのは、本当であった。
兄弟は、憂いに沈みている所に、弟の妻も亡くなった。
独り身で暮らしてはいたが、この春に生まれた子供もいて、母が亡くなって乳に飢えていた。
夜、昼泣いていている悲しさ、見るにつけ、聞くにつけて涙の耐えるときはなかった。
妻が死んで三十日ばかりの頃、弟の妻がこの家にやって来た。
初めは恐ろしかったが、毎晩やって来たので、後にはなか睦まじく、さすがに追い出す事も出来ずに、夜もすがら話をすることは死ぬ前と何も変わらなかった。

兄は、このことを聞きつけ、本当とは思わずに、弟をいさめて曰く
「お前の妻が死んでからまだ、四十九日もすんではいない。
どこからか女を呼び寄せて毎夜語り明かすなど、近所に何と云われるかわかっているのか。
恥を見るだけではなく、この弟にありてこの兄だとからかわれるのは恥ずかしい事だ。
せめて、妻の一周忌が過ぎてから、女を召し抱えなさい」と言った。
弟は涙を流して言った。
「毎晩来る者は、死んだ妻の幽霊です。
初めに静かに門を叩き、内にいれると赤子を抱きかかえ、髪をかき撫でて、乳を飲ませてやっているのです。
初めの頃こそ恐ろしく思っていたが、後には仲睦まじくなり、夜もすがら語り明かして、夜が明ければ帰って行く。
さらに、常日頃嘘などついたことなどないでしょう」と言った。

兄は、これを聞いて「一門はすべて死に絶えて、我等兄弟のみが生き残っている。
この化け物はきっと弟をたぶらかして殺すに違いない。
その時になって悔やんでも悔やみきれないだろう。
化け物も妻と化して来るうえは、私がこれを殺さねばならぬであろう」と思って長刀を横たえ弟にも知らせずに忍んで、門の傍らに待っていた。
案の定、猪の刻(午後10時頃)ごろに門を開いて立ち入る者がいた。
兄は走りよって丁度なぎ伏せた。
彼の者、声を上げ「あな、悲しや」といって逃げた。
夜が明けて見ると血が流れていた。
兄弟で、その血の後を付けていくと、妻を埋めた墓場に来た。
弟の妻の屍が墓の傍らに倒れて死んでた。
墓を掘り返して見ると棺の中にはなにもなかった。
元の様に妻を納め埋めたが、その後、赤子も死んだ。
しばらくして、兄弟とも続けて亡くなると、一門の家系はすべて絶えた。
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