File No.026 伝説または逸話

㊧伝説または逸話㊨
明治11年、神奈川県青柳村に母・きん(56歳)と息子・金次郎(26歳)が魚屋をやっていた。
明治の56歳といえばもう老人ではあるが、きんはまだまだ手足達者で容貌も若い者に負けないくらいであった。
しかも、毎日息子が売りに行く魚を日本橋の魚河岸へ買出しに行くほどの元気があった。
ところで、きんは信心深く買出しの行き帰りにはいつも近所の神社に御参りしていた。
ある日、いつもの帰り道、声をかける男がいた。きんが青柳村へ帰る途中だと聞きつけると自分も立川まで帰る途中なので、道々の話し相手にしてくれと一緒に歩き出した。
しかし、その男はきんにちょっかいを出し始めた。
いきなりの事に吃驚したきんは、もっていた魚を入れていた箱をその男に叩きつけた。
するとその男は急に怒り出し「やれ汝!我を撥ね退けるとは不埒なり。
我と汝は今より百年前、前世において、巫山の契を結びて南柯の夢を見しこともありしを真に不義理なれ」と叫び、逃げるきんを追いかけてきた。
前世で夫婦だと馬鹿な事を言うおかしな男きんは必死に逃げたが、その男に追いつかれ抱きしめられた。
とっさにその男を払いのけると、男は転んだはずみに近くにあった桑畑の切り株に腰をしたたか打ち付けた。
その隙にきんは一目散に駆け出し家まで逃げ帰った。
後で息子と共に現場に行ってみると桑畑の切り株の下に神社の御札が二つに裂けて落ちていた。
人々はきんがあまりに色っぽいので参詣していた神社が色に迷ってきんを犯そうとしたんであろうと噂した。
聖武天皇の世に紀伊郡伊刀郡(和歌山県伊都郡)桑原の狭屋寺の尼達が願を立てて、その寺で法事を行なった。
奈良左京の薬師寺の題恵禅師を招いて、十一面観音に向かい懺悔の法事を行なった。
そのとき村に一人の悪人がおり、姓を文忌寸(ふみのいみき)といった。
生まれつき邪見で、三宝を信じなかった。
この悪人の妻は上毛野公大橋の娘であったが、一昼夜の間に八つの戒を受け、その寺に参詣して罪を懺悔し、大勢の人々の間に混ざっていた。
夫が外から家に帰ってみると妻がいない。
家の人に聞くと、答えて「お寺に罪を懺悔しに行きました」という。
それを聞いて怒り、すぐに寺に行って妻を呼んだ。
道師は正しい教えを述べて導いたが、男は信じないで「役に立たないことをいう。お前は俺の妻を犯した。頭を打ちわられるぞ。この坊主め」といった。
その悪口雑言の数々は言葉で表わせない。男は妻を呼んで、家に帰り、妻を犯した。
たちまち男のものに蟻が噛み付き、その痛みで死んでしまった。
むかし、大和国吉野郡に龍門寺という寺があって、安曇と久米という二人が仙術習得するため修行していた。
熱心に励んだ結果、やがて天空を飛行する術を身につけた。
ところがある日、久米仙人がのんびり空を飛んでいたところ、下界の吉野川の岸辺で若い女が洗濯しているのが見えた。
若い女は着物をはしょっているから、美しく白い脛があらわになっていた。
久米は好奇心からその美しく白い脛を覗き込んだ途端、通力を失って女の前にドスンと落ちてしまった。
こうして仙人でなくなった久米は、その若い女を妻とし俗人として暮らすようになったという。
その後、都を大和国高市に移す事になり、大勢の人夫によって造営工事が行なわれた。
久米も駆り出され、その人夫達に混じって働き始めたが、仲間達はみな久米のことを「仙人」と呼ぶ。
不思議に思った役人は人夫達に「なぜあの男を仙人と呼ぶのだ」と訊ねた。

すると、人夫達は「以前、彼は仙人だったらしいのですよ。だけど、空から落ちて俗人になったと聞きました」と答えた。
役人は驚いたが、「もしそれが本当なら、通力によって山のような材木を一度に運べるのではないか」と思い、久米に頼んでみた。
役人は本心から信じていたわけではなく冗談半分だった。
ところが、久米はあっさり「わかりました。やってみましょう」と返事をした。
役人は内心「どうせ無理だろう」と思ったが、久米は自信満々である。
久米はその日から7日間、静かな道場にこもり、食事を断って祈り続けた。
役人達は久米の姿が見えないので「やっぱり出来ずに逃げたのだ」といい、嘲った。
ところが、8日目の朝のことである。
急に空が曇ると雷鳴がとどろき、激しい雨が降りはじめたのだ。
何か異変が起きそうな兆しだと思っているとあれほど激しく降っていた雨がふいにやみ、突然、晴れあがってしまった。
役人や人夫達が外に出てみると、驚いた事に、山の麓に積み上げてあった材木が一本残らず造営工事の現場に移されていたのである。
驚きの声をあげ、久米のもとに駆け寄ると思わず頭を下げて恐れ入った。
水戸城下のある富豪の家に13歳になる娘がいた。
たいそう美しく、心根もやさしいのに不思議な病があった。それは明るい所を嫌い、暗い所を好む、という異病だった。
娘はまだ、おむつが取れないころから、暗いところにいるのを喜んだ。
明るい所では機嫌が悪く泣き続けたが、暗い所へ連れて行くと、すぐ泣きやむ。
このため、娘は奥の薄暗い部屋で戸を立てたまま育ったのである。
手習いの稽古もそうした部屋で行なったから、下女達は娘の顔をよく見ることが出来ない。
しかし、ときおり手洗いにいく娘の姿を見て、下女達は誰しもその美しさに感嘆した。
確かに異病と言えば言えたが、両親は一人娘だけに格別に愛し、いつくしんだ。
水戸藩では、城内に施薬院を設け、病の者に医療をほどこしていたが、ちょうどそのころ「病の者や異病の者があれば申し出るように」との触れを出し、役人が城下を調べてまわった。
町役人はそれに応じて「あの富豪の家の娘は異病だろう」といい、両親に触れのことを説明し娘のことを書類にして報告したのである。
それを見た藩主は「これは異病に違いないが、治療すれば治らぬことは無い。明日にでも連れてまいれ」と命じた。無論、好意からの判断だった。
町役人は、早速両親に支度をするように告げた。
しかし、娘は「嫌です。私はまいりません」というばかり。
とはいえ、藩主の命だから、行かざるをえない。父も懸命に娘を説得した。
「私は、幼いころから暗いところでなければ元気に暮らせないのです。
お父上も、よく御存知のことではありませんか。
明るい所へ行くなど、出来ません。
どうぞ、お許し下さい」娘はそう言って泣き崩れた。
困った町役人である。
事情はどうあれ、城へ娘を連れて行かなければ、どのようなお咎めをうけるかわからない。
だが、手荒な事をして強引に連れて行くと、親達が恨むに違いない。
「娘の目をふさいで連れて行けば、暗い部屋にいるのと変わりがないだろう。
連れて行って異病が治れば、娘にとってこれ以上の幸せはない」町役人達は相談したすえ、こうやって両親と娘を説得した。
娘もようやく納得し、町役人は安堵して、父親と共に娘につきそい出かけたのである。
ところが、どのようにして娘のことが知れ渡ったのか、多くの人々が「美しいのに異病があるんだってさ。どんな娘なのかね」と噂しあい、一目見ようと集まっていた。
大変な人手の為、町役人達は棒を持って整理に当たったものの、うっかりすると群衆が娘のそばに殺到しかねない。
娘は左右をかこまれゆっくり歩いた。
しかし、城に近づいてくると、突然「私は行きたくない」とごねはじめたのである。

まもまく娘は町役人が群衆に気を取られている隙に、父親を置いたまま走り出した。
娘はいつのまにか、凄まじい形相に変わり、人間業とも思えない素早さで、多くの見物人達の頭を飛び越えていく。
娘は追手を振り払い、走り続けると、城の堀に身を投じてしまったのである。
あっという間の出来事だった。
町役人をはじめ、多くの人々が堀端に集まり、じっと覗き込んだがいつまでたっても娘の死体は浮いてこない、城の許しをもらい、泳ぎの熟練者に頼んで堀の水中を探した者の、何処にも娘の死体は無かった。
堀の中に飛び込んだはずなのに、あの娘は一体どこに消えてしまったのか。
人々は不思議がった。
それでも死体があがらないまま、天保四年(1833)四月の娘が身を投じた日を命日として、手厚く葬儀を営んだ。
その後、八月一日暴風雨に襲われた。
そのさなかの巳の時(午前10時)頃、水戸城の堀から竜が現われ天に昇っていった。
この余勢で、水戸城の内外で大きな損失が出たほどだった。
人々は「あの竜は堀に身を投じた娘だ」と噂しあった。
大和の国添上郡山村の中の里に椋家長公(くらのおさのきみ)と云う人がいた。
12月に方広経によって、前世で犯した罪を懺悔しようと思った。
召使いに「禅師を一人お招きして来い」といった。
召使いは「どこの寺のお坊さんですか」と聞くと、「何処の寺でも良いから、出会った僧をお呼びしろ」といった。
その召使いは、言われたとおり道を歩いている一人の僧を招いて家に帰った。
家の主人はこれを有難がってもてなした。
その夜読経がすでに終って、僧が休もうとした時、主人は衾を用意して僧にかけた。
僧はその時、明日仏事の礼物をもらうよりは、この衾を盗んだほうが良かろうと思った。
その時、声がして「その衾を盗んではいけない」といった。
僧は大変驚いて家の中を見回したが、誰もいない。
ただ、一匹の牛が家の倉の下に立っていた。
僧が牛のそばに行くと、牛は話をして、「私はここの主人の父です。
ところが前世で人に与えようとして、子供にだまって、稲十束を盗みました。
そのために今の世に牛に生まれ変わって、前世の償いをしているのです。
あなたは出家の身でありながらどうして衾を盗もうとするのですか。
私の話を嘘だと思うなら、私のために座席を用意しなさい。
その上に上がりましょう。
そうすれば、この家の主人の父である事がわかるでしょう」といった。
そこで僧は大変恥じて、部屋に帰って寝た。
翌朝、仏事が終った後で「他人を遠ざけてください」といった。
その後身内の人々を呼び集めて、くわしくさっきの事を話した。
そこで主人は慈悲の心を起して牛の側に行き、藁を敷いて「本当に私の父上ならこの座に上がってください」といった。
牛は膝をまげ席に腹ばいになった。
身内の人々は声を出し、大声で泣いて、「本当に父上です」といった。
そこで主人は立ち上がって牛に礼拝し、牛に「前世でお使いになったものは、ことごとく許しましょう」といった。
牛は聞いて、涙を流して嘆息した。
その日の夕方、四時頃牛は死んだ。
その後、着せた衾や品物を僧に施し、そのうえ、父のためにいろいろと供養を営んだ。
行基大徳は、難波の堀江を切り開いて、船着場を造らせ、仏法を説いて人々を教え導いた。
僧も俗人も、身分の高い人も賤しい人も、集まって説法を聞いた。
そのとき、河内国若江郡川派の里(大阪府布施市)に一人の女がいた。
子を連れて法会を聞きに行ったが、その子は盛んに泣いて説法を聞かせなかった。
その子は十歳をすぎても、歩く事が出来ず、いつも泣いて、乳を飲みたえまなく物を食べていた。
大徳は、女に「おい、その女よ、お前の子を連れ出して淵に捨てなさい」と言った。
人々はこれを聞いて、ひそひそ話しあった。
「慈悲深い聖人なのに、一体どうして、あんな事を言われるのか」
女は我が子可愛さに捨てず、なおも子を抱いて説法を聞いていた。
女は次の日もまた来て、子を連れて説法を聞いた。
子はなおも激しく泣いた。
聴衆は泣き声のやかましさに邪魔されて説法を聞く事が出来なかった。
行基大徳は女をせめた。

「その子を淵に投げ捨てよ」女は不思議に思って、大徳の言うことに、それ以上我慢する事ができないで、深い淵に投げ捨てた。
すると子は水の上に浮かび出て、足を踏み、手をもみあわせ目を大きく見張って、うらんで、「なさけなや。あと三年間お前から取り立てて食ってやろうとしたのに」といった。
母は不思議に思って、法会の席にもどって説法を聞いた。
行基大徳は、「子を投げ捨てたか」と聞いた。
女は右の出来事を詳しく話した。
すると大徳は、「お前は前世に、あの子の物を借りて、返さなかった。
そこでいま子の姿になって、貸した分を取り上げて食うのだ。あの子は昔の貸主だ」と言った。
永興禅師は奈良左京の興福寺の僧であった。
紀伊国牟婁郡熊野村に住んで修行していた。
その時、その村に病人がいた。
病人は呪文を唱えている時は治り、禅師が席から立ち去ると病気がおきた。
このようにして何日も過ぎたが病気は治らなかった。
禅師は必ず病気を治すと誓って、なおも祈祷をした。
すると病人に霊がついて「私は狐だ。簡単には参らない。禅師よ、無理に祈祷してはいけない」といった。
禅師が「なぜか」聞くと、「この病人は前世で私を殺した。
私はその仇に報いたい。この人が死んだら、犬に生まれ変わって私を殺すだろう」といった。
禅師はこれを聞いて不思議に思い、教え導いたが、霊は病人を放さないで殺した。
一年過ぎて後に、その死んだ人が寝ていた部屋に、禅師の弟子が病気になって寝付いた。
そのとき、人が犬を連れて禅師の所に来た。
犬は吠えて、爪で縄や鎖を切って走りかかろうとした。
禅師は不思議に思って、犬の飼い主に「犬を放して、わけを知るのが良い」といった。
飼い主が犬を放すと、犬は寝ていた弟子の部屋に駆け込み、狐をくわえて引き出した。
禅師は犬を制止したが、犬が放さず噛み殺した。
死んだ人が犬に生まれ変わって仇を報いたことがはっきり分かった。
幕末頃、伊豆に陰嚢が巨大に腫上がった男がいた。
彼は疝気といって、腸や生殖器などが痛む病を患っていたが、そのせいか、陰嚢がしだいに腫れ、大きくなった。
しまいには、五斗(約90リットル)ほどの米を袋に入れたような大きさになった。
足を前に組んで座っていれば、陰膿が頭より上に出るほど高くなった。
前から見ると、顔も体も陰嚢に隠れて、まったく見えない。
こんな状態では外出することができないし、家のなかで体を動かす事もままならない。
彼は広い田畑をもつ、裕福な百姓だったのだが、畑仕事は出来なくなった。そこで、手先の器用な彼は、陰嚢と腹の間から手をのばし脇腹のところで草履や草鞋を作りはじめた。
これを売って、なんとか暮らしていた。
ある年の11月15日の夜、近くの家で、三歳になった子供の髪置きの祝が催された。
名主をはじめとして大勢の人々がその家に寄り集まり、夜更けまで御馳走を食べ、酒を飲んで騒いだ。
誰もが酔っ払ったが、その帰途、勢いにまかせて大陰嚢の男の家へ押しかけたのである。
酔っ払いたちは、「大玉はまだ起きているか」などと大声をあげ、にぎやかなことおびただしい。
女房は、大勢の酔っぱらいがやってきたので、一瞬、たじろいだ。
しかし、すぐ愛想のいい顔になると「みなさん、御機嫌ですね。どうぞお入りください」といって、迎え入れた。
男はいつのまにか「大玉」という渾名で呼ばれていたわけだ。
みんなは、一緒に上がり込み、飲み直しがはじまった。
それぞれ勝手なことを話したり、歌を歌ったりしているうちに、名主が冗談めかしてこう言い出した。
「お前の大玉はじつに見事だ。手放すのは惜しいだろうが、俺に五百両で売ってくれ」

「いまや、私の大玉はは伊豆の名物。
とても五百両や千両では売ることができません。
そうですな、三千両なら売らないでもありませんが」男がそういうと、
名主は「いやそれは高い。負けてくれないか」などとねばる。
二人の様子を見ていたある男がつい横から口を出した。
男は渋い顔をし、「いつも厄介になっている名主さんのことだから、たっての御所望とあれば大負けに負けてやろう」といい、みんなで手締めをし、大笑いになった。
むろん、誰もが一座の余興という軽い気持ちで、本気になっていたわけではない。
ところがどうしたわけか、その後、名主の陰膿が痛み出し、少しづつ大きくなってきたのである。
それは薬缶ほどの大きさになりさらに大釜ぐらいになって、体を動かすのも困難になった。
一方、それとは逆に、大玉の大きな陰嚢は日に日に小さくなって、三年後には普通に戻った。
体が随分軽くなり、自由に動き回ることが出来たので、飛脚になって各地を走った。
もっとも、名主の陰嚢は大玉の三分の一ほどの大きさになると、脹らむのがとまった。
人々は「あとの三分の二は、名主へ移る時に消滅したのだろう」と噂しながら、
「冗談にもこんなことをいうべきではない」と戒めあったという。
行脚の僧が下総の国の山道を歩いていくうちに日が暮れてきた。ある家から人の泣く声が聞こえてきた。
家があまり多くなかったので、この家に行って、一晩の宿を借りようと思い、家主を呼ぶと「宿をお貸ししても良いが、私の親が亡くなりました。
他の寺に僧を呼びに行きましたが、使いに出したものがまだ戻っていなくて、葬儀をしておりません。お泊りいただけるなら、是非、貴方様に葬儀をお頼み申します。さあ、家に上がってください」と言った。
僧は「そのような事は、出家したもの役目ですからお受けいたしましょう」と家に入っていった。
死人を端の間に入れて、棺にいれ蓋をかぶせて、灯明霊供が備えてあった。
家主は、「家のものは、数日間心労で、寝ていません。
今夜はまず、少し休もうと思いますので、貴方様は端の間に御座がありますので、柩を守っていて下さい」と言って、障子を隔てた隣の部屋で眠りだした。

僧は、一人で静かにしていたが、暫くすると死人が柩の蓋を開けて、脇に置いて起き上がり立たずに、白い帽子を取ると脇において、僧を一目見ると棺の端に捕まり、足を出して棺を出た。
僧は、「これは、奇怪な事だ」と家のものに告げようかと思ったが、死人が私に飛び掛ってきたらその時に告げようと静かにしていた。
死人はまた僧ををみて、霊供の飯を右手につかんで大口を開けて食べた。
再びつかんで食べると、棺の中にまた入り、帽子を被り直して元のように蓋を自分で閉めてしまった。
この時になって、僧は家の者を起してこのことを告げた。
家のものたちは「生き返るかもしれない」と喜んで棺を開けたが、体は冷たく明らかに死んでいた。
しかし、右手には飯粒が多くついていて、霊供の飯も減っていたので、僧が言ったことが本当の事だと驚いた。
昔、智行兼備の僧が諸国を流離っていた頃、ある所に見かけの美しく立派な寺があったが、住持の僧も無く庭には草が生い茂り、床やそこいらには蜘蛛の糸が大層乱れていた。
この霊境見苦しかったので近くの家に入り、様子を尋ねてみれば「その事ですが、いろんな所の僧が何人かこられましたが住み込もうと座ってみたが、夜になり次の朝には、みな行方知れずになってしまうのです。
私たちは悲しみに悔やむばかりで、今は住持の僧を持ちません。
どうも、化け物が住んでいるようです」
僧はこれ聞いて「しからば、この寺を一日私にお貸しください。他の方にもそう伝えてください」
あるじは「簡単な事ですが、これまで言ったようにあやかしの出る所ですから、みんなで話し合います」
と檀家を集めて相談したが、やはりこれまでの事を考えると危険であるから断ろうとした。
しかし、僧は「そのお言葉も最もですが、不惜身命、不求名利と待っていれば、捨てる命も惜しくはありません。
只、消えないように法灯をかかげるのみです。願わくば許して下さい」と再三に頼んだ。
「あなたの力が足りなくて、今日はかりそめにお会いしましたが、明日の噂に上がるようになれば悲しく思います」となんとか寺を預けてもらう事になった。

午後四時頃、油、灯心、抹香を備えて、仏前に形ばかり飾り、しだいに時が過ぎてゆき、夜も午前三時頃になった。
煩悩の霧が晴れ、悟りのの心境になり、心も澄み渡る頃に、庫裏より長一丈あまりの光物が見えた。
「すは」と思ったところに、また外より「椿木(ちんぼく)さすらうか」との声がした。
この光物が「誰だ」と言うと「東野(とうや)の野干(やかん)」と答えて、壁の破れ間より入り長五尺ばかりで、まなこは日月のようだった。
火をともして来た。また、呼び声がした。
「誰だ」と言うと「南池の鯉魚(りぎょ)」の名乗って、横行のもの、長七,八尺、眼は黄金にて身は白銀の鎧であった。
次に呼ぶ声がした。
答えれば「西竹林の一足の鶏」と名のりて、朱の甲、紫の鎧左右に翼があって、長六尺ばかりで、天狗とはこうであろうというほど恐ろしかった。
さらに案内を請う者があった。
答えれば「北山の古狸」といって、色は見分けにくく、長四尺ばかりであった。
進退きわまっていずれも怪しいものばかりだった。
この五つの化け物は、僧を中に取り込め、鳴き、いがみ脅したが、僧は恐れずに魔仏一如(魔も仏も本来は一つのもの)と観じ、般若心経を唱えると彼等は何処とも去って行った。
そうこうするほどに東の山に雲が引いて、一番鳥の鳴き声が聞こえてきた。
朝のおつとめの時に、昨日の檀家が五、六人がやってきた。僧をみると不思議に思った。

「昨日は危険な事はありませんでしたか」と聞いた。
僧は昨日のことを話した。
「彼等が寺にやってきては寺を荒らしているのでしょう。どうしたらよいでしょう」
僧は「その事ですが、殺生は仏の戒めがありますが、興隆仏法のため一殺多生の善とはこれらを言う言葉でしょう。
退治いたしましょう。
およそ化け物四つは外、一つは内にいます。まず東の野に狐がいます。
南の池に鯉、西の藪に足一つの鶏、北の山に狸、これらから来る四つです」といえば、弓や槍、長刀などをこしらえて、狩場にでれば、狐が出たのでこれを殺した。
池の水を引くと大きな鯉が出てきた。
藪に網を張り、三方より声をだして狩ると鶏を捕まえた。山へ行き穴を調べて古き狸を捕まえた。
「さて、この堂の材木に椿が使われていませんか」と僧が尋ねると昔からいる人が、「乾の隅の柱が椿の木と語り継がれてます」と答えた。僧は、「光るものの正体はそれであろう」と大工の棟梁を呼んで、この木を取り替えた。
それいらい、この寺には怪奇な事は起こらずに寺はますます繁盛していった。
京より北陸道に向って下る商人がいたが、ある宿に泊まった。
そこの主人にもてなしを受けて奥の間に泊まったが連れも無く、すごすごと寝ていたが、夜更け頃、次の間に誰が誰がいたかは知らないが、いかにも気高い声で小唄を唄っていた。
男は、このように面白い事に都でもまだ聞いた事の無い綺麗な声だったので、このような田舎で聞こえるとは、不思議な事だと、一層目覚めて、次の間に行って
「何方が此処にいらしゃるのですか」と聞いてそば近くまでいくと女性の声で
「奥の間には誰も居ないと思ってました。つまらない事をしたと、返す返すお恥ずかしい」となおやかに寝た姿であった。

「今夜は、添い寝して、貴方の歌を聞きながら一緒に眠りたいのですが」と男が言うと
「これは、思いがけない事を言われますね。そのような事を言われるならこの部屋から出てください」と言った。 男はさらに彼女に憧れ「このように不思議な出会いは、出雲神社の結び合わせに違いありません」とか色々言って、
女性にしつこく迫ると、女性は「そのように言われるならば、私は夫が居ません、これから長い間妻としていただけるのならば、ともかく貴方の言われるようにしましょう。堅いお約束が無ければ心は開きません」というと
男は、あらゆる神仏に誓いをこめて「私も妻を持っていません。
幸いにも私の国にも私を待っている人はいません」とまでいった。
その言葉に、彼女の固い心も打ち解けて、妹背の契りを結んだ。
秋の夜も一夜が過ぎて行った。

こうして、夜もほのぼのと明けていって、彼女をよくよく見ると、その姿はあさましく眉目の悪い瞽女(ごぜ:三味線を弾き、唄を唄いながら銭を乞うてあるいていた盲目の女性)が寝ていた。
男は肝を冷やして、宿の主人にいうと奥の間には帰らずに、上方に向って上って行った。
ある大河を渡るときに後ろを見ると件の瞽女が、二本の杖にすがりながら「逃すものか、逃すものか」と追いかけてきた。
男はこれをみて馬方に言った「どうしても、お願いしたい事がある。お前の力であの瞽女をこの川に沈めてくれ」とお金を渡した。
この男も欲深く、不心得な者だったので簡単に引き受け、この女を川の深みに突き落として帰っていった。
その後、商人は日が暮れたので、ある宿に泊まっていたが、夜半頃に、門を激しく叩き「ここに商人は泊まっているだろう」と聞いてきた。
宿の亭主はこれを見ると、彼女の態度がこの世の者とも思えないほど凄まじいので、「そのような人は泊まってません」と答えた。
そこで瞽女はいよいよ怒りを増し、「なんと言われようとこの中には居るに違いない」と戸を押し破って中に入ると、商人の隠れていた土蔵の中に押し込むと、雷のような震動が暫く続いた。
あまりの恐ろしさにその夜は宿の主人は近づけなかったが、夜が明けて見るとその男の体は細切れに裂けて、首はどこにも見えなかった。
一人の聖道が日本六十六カ国を修行するに国ごとに十日、二十日逗留して、その国中の名所旧跡、大社、験仏、残り無く見てまわった。
ある国にて、ここかしこ徘徊するに、はるかに見れば、大きな家あり。行ってみれば、農作の家であった。
はなはだ繁盛していた。
牛馬も多く養い、奴婢僕従、多く群がっていた。
門庭の中に入ってみれば、家主の内婦はるかに私を見て、侍女を持って私を奥に案内した。
着いていって見たら客僧をもてなす座敷が有った。
午前中の食事をご馳走になると、食べ終わった頃に内婦がきて「何処からの客僧ですか」と問えば「私は上方の者です」と答えた。
「上方の御僧と聞けば御懐かしく思います。
ごらんのように家は繁盛していますが、亭主は不思議のかたわ人です。
その人の果報にて、このように栄えております。
菩提結縁のために、亭主を見せたく思います」

「それでは見せていただこう」といえば、「そしたらここへ」と内婦は先に行った。
その後に着いていったが、その家は広大にて美しく、綺麗厳浄で目を驚かせた。
また、別に小殿があり、廊下を渡って行く。
内婦は立ち返って言った。
「亭主の形をみて驚いて逃げる人もいます。お心を決めてご覧下さい」といって、内婦は障子を開けば、座敷の中に座っていた。
首より上は普通の大きさではあるが、ひょうたんのように目、鼻、口は無かった。
耳は両方に少し形が有って、穴がわずかに見えた。
頭上に口があり、蟹の口があって、蟹の口に似ていていざいざと動く。
器に飯を入れて、箸にて飯を頭上の口に置けば、いざいざと動く。
飯が自ら入っていくようであった。
二目とも見がたかった。
首より下は普通の人で皮膚は桜色で太らずやせず、手足指爪、美容にしてあざやかであった。
衣装は華美をつくしていた。帰って元の座敷につくと内婦はいった。
「不思議の人を見せて、恥ずかしく思います。夫婦となってから我が身の業障をあさましく思ってました。結縁のために」と路銀を少し出す施しを客僧はとって帰っていった。
江戸時代に、血気盛んな若者達が「夜に、百物語をすると恐ろしい事が起こるそうだ。やってみよう」と集まって、話だした。
早くも九十九まで進んでしまった。
「よし、次の話をしよう。その前にまず、酒でも飲もう」
「そう急ぐなよ」など言いながら順番に杯に酒を注ぎ、次の話を待っている時に一人の男が重箱の肴を輪に座っている仲間の間を回し始めた。
その時に、「ここにも一つくれ」と大きな手が天井から差し出してきた。
手の早い者が居て、抜き打ちにその手を斬った。
手ごたえが全く無く、糸を斬ったようであった。
落ちた後を見ると、蜘蛛の手が三寸ばかり切れていた。
「これが、百番目の話だろう」と言い合った。
有馬左衛門佐殿の家来の一人である、高屋七之丞という人が語った話であるが、彼が日光御普請を勤めて、江戸を目指して帰る途中に下野の内、名前もよく分からない村に泊まった。
亭主は二十四、五、女房も二十歳ばかりで、下人もいなければ、子供も居なかった。
随分ご馳走になり、夜になって眠る時に、彼は座敷側に、若党、中間七人は次の間に寝た。
夫婦は納戸に寝た。
戸は離れて回り込んでいるが、壁一枚隔てた隣の部屋であった。
夜半頃に屋根を葺く板が大竹割るように鳴った。
何事かと枕そばだてて聞くと、亭主がうめき出した。
不思議に思い、こちら側から声をかけて「何事だ」と言ったが返事は無かった。
そのうちに亭主の声が、消えるようになっていった。
良くない事かなと思って、下人たちを起して手燭をもって、納戸を押し開けて見ると、女房が亭主の腹の上に馬乗りに上がって、臍の下を食い破り、はらわたを取り出して食べていた。
まず、後難をさける為、「隣近所を起して来い」と下人に言いつけてから、
女房に向って「これは何事だ」言ったが、彼女は自分が何をしているかに気づく様子もなく、ひたすらにはらわたを取っては食べていた。

もはや、亭主は死んでいた。
おそらく、鬼の仕業に見えた。
隣の人々が集まって「まず、鬼であれ、人であれ、逃がしてはいけない。あの者を捕まえろ」と言った。
そこで、たしなんでいた早縄で自ら捕まえて、下人に言いつけて戒めたが、逃げようという素振りも悲しいという素振りも見せなかった。
ただ、平然と何も無かったようで、昨日見た宿の女房で、化け物にも見えずに合点がいかなかった。
ともかく、一族の者も集まり、所の代官も来て、捕えた彼女を渡した。
夜半から朝まで鬼とも人とも分からなかったが、やがて旅起った。
再びその国にはいかなかったので、その後どうなったかは聞いてはいない。
ある墓場にて、死人の塚より夜の内三度づつ燃え上がり、塚の内より女の声にて「人恋しいや。人恋しいや」という声が聞こえていた。
なかなか、凄まじく、最後まで見届けた者はいなかった。
ある若者等、三人寄り集まって、これを見届けようと、ある夜、夜半頃、連れ立っていったが、その中に大胆不敵な男がいた。
この塚に腰をかけて待っていたが、案の定、塚の中よりいかにも悲しそうな声で「人恋しいや。人恋しいや」と言ったか思うと、氷のような手で、後ろよりその男の腰をむんずと抱きしめた。
この男、元々剛の者であるので、少しも騒がずに、二人の連れを呼び寄せ、自分の腰を探らせた。
二人の者は大いに驚き、後も見ずに逃げ帰った。
さて、その男「私の腰にしがみついているのは何者だ。理由を話せ」と言うと、
塚のなかから「さてさて、今までお前ほどの大胆な男は見たことがない。
私は三条室町の鍛冶屋の女房であるが、隣の女に毒殺された。
あまつさえ、21日目も過ぎていないのに、隣の女は、私の夫と夫婦になって、思いのまま振舞って、思えば思うほどに無念さに夜な夜な鍛冶屋の門口までは行ったものの、二月堂の牛王をお札として貼ってあるため、恐れて入る事が出来なかった。
このように執念の闇に迷ってしまった。
願いしたい事あるのですが、その鍛冶屋の門から牛王の札をめくり取ってもらえれば、この世への迷いもはれます」としみじみ語れば、この男も不憫に思って、その鍛冶屋の家に行くと案の定、牛王の札が貼ってあった。

そして、その札を引き剥がし、傍らによって、事の様子を伺っていると、俄かに黒雲がの一陣が舞い降りて、その中に提灯ほどの光物が見えて、鍛冶屋の家屋敷の上より飛び入るように見えたが「わっ」という声がふた声すると、そのまま彼の亡者が鍛冶屋の夫婦の首を持ち帰ってきた。
男にむかって、「さてさて長年の執念、おかげさまで晴らせて、かたじけなく思います」といって、袋を一つ取り出して「これは、こころざしのお礼金です。お恥ずかしい程度ですが」と言って消えるようにいなくなった。
この男も不憫に思って、袋を開いて見ると黄金十枚ほど入っていた。
このお金で卒塔婆を立て替えて、供養して念比に弔った。
その後は、この塚では不思議な事は起こらなかった。
丹波の国、野々口(京都府園部市野口)という所に、与次と云う者の祖母が百六十余歳になり髪は甚だ白くなっており、僧に頼んで尼になった。
若いときよりものびのびとしていた。
与次も八十ほどになっており、子供も多かった。
孫も多くいたが、彼の祖母は与次を未だに孫扱いしており、子供を叱るように彼を扱っていた。
それでも、与次の事を思っての事だと孝行な事に養っていた。この祖母、歳をとってはいたが、目も良く見えて、針の孔を通して、耳も良く聞こえ、ささやく声も聞こえたという。
九十歳の頃歯はすべて抜け落ちたが、百歳を越えた頃から元のように生え始めた。
周りの人たちは不思議に思い、幼い子供を持つ者はこの祖母にあやかろうと名前を付けたりと評判になっていた。
昼の内は家で麻を績み紡ぎ、夜になると行き先は解らないが家を出ていた。
初めの頃は、そうでもなかったがそのうち孫も子供たちも怪しみだして、出て行った跡をついていったが、その祖母は振り返って大いに叱って、杖を突きながらも足は飛ぶ様に歩き、その行き先はわからなかった。
身の肉は消え落ちて、骨が太く現われ、両の目は白い所の色が青く変わっていた。
朝夕の食事は少なくなっていったが、気力は若い者も及ばないほどだった。


或る時から昼間も出て行くようになったが、孫や曾孫等に向って「私の留守の間に私の部屋の戸を開ける出ないぞ。必ず、窓の中を覗くな。もし覗いたら怨んでやるからな」と言った。
家の者達は怪しく思った。
ある日、昼出て行って、夜が更けてからも帰らなかった。
与次の末の息子が酒に酔っていて「どうしても祖母の部屋を覗くなと言っていたが何だか怪しいなあ。今から覗くぞ」と密かに戸を開けて見ると、
犬の頭、鶏の羽、幼い子供の手首、又は人のしゃれこうべ、手足の骨などが数多く床の上に積み重ねてあった。
これを見て大いに驚き、走り出て父に告げた。
一族集まって、どのようにしたら良いかと話し合っていた所に、祖母が帰ってきて、自分の部屋の戸が開いている事に大いに怨み怒り、両眼を丸く見開き光り輝き、口を大きく開き声はわななき、走り出て行き先がわからなくなった。
その後大江山あたりで薪を取るものがこの祖母らしき者に出会ったという。
白地の帷子の前をはしょって、杖を突きながら山の頂へ登って行った。
その速さは飛ぶ様で、猪を捕まえて押し倒しているのを見て恐ろしさのあまり、逃げ帰ったと話した。
この姥が生きながらに鬼になった事は疑いない。
いつの頃かははっきりしないが、出羽の国守護のある男がある夜の事、妻が雪隠に行き暫くしてから、戻ってきて、戸を立てて眠った。
すると、暫くして妻の声がして戸を開けて中へ入っていった。
守護は、不思議に思って夜が明けるまで、この二人の妻を二ヵ所の部屋に分けて、色々詮索したが、どちらとも疑わしい事は何も無かった。
どうしようと案じていたところに、ある男が「一人の女性は疑わしいところが有るように思えます」と言ったので、しつこく詮索した後に首を跳ねてしまった。
しかし、疑わしい所も何処にも無く普通の人間であった。
「もう一人の者が変化のものであったか」ともう一人の方も首を斬った。
これもまた、同じ人間であった。
そこで、死骸を数日置いてみたが、変化する事は無かった。
これは、どうした事だろうかと色々尋ねたが、ある人が「離魂という病である」と答えたという。
津の国大阪に兵衛の次郎と言うものがいた。
色を好む男で、召使いの女に手を出していたが、本妻にばれてしまった。
本妻は、怒って、召使いの女を井戸の中に簀巻きにして逆様に落した。
兵衛の次郎はそのことを夢にも知らずに、月日がたち、一人の男子が生まれた。
寵愛していたが、ある時に病におかされ、色々養生祈念祈祷をおこなったが、いっこうに治らなかった。
その頃矢野四郎右衛門という鍼医が天下無双の評判があったので、彼を招き一日、二日ほど養生した。
ある夜、月の明るい頃に四郎右衛門が縁に出ていると、何処とも無く、とても気品のある女性が来て、四郎右衛門に向って、さめざめと泣き出した。
不思議に思って「どなたですか」と尋ねると「お恥ずかしい事ですが、この世を去った者です。
この家の主の奥方にされた仕打ちに恨みに来ました。
その子にどのような鍼を立てても治らないでしょう。
急いでお帰りなさい。そうしないと怖い思いをしますよ」と言った。
四郎右衛門は肝を冷やして「さては、亡霊か。いったい、どのような恨みか知らないが貴方のことをねんごろに弔いますので恨みを晴らしてください」と言った。

「いやだ。その子を取り殺さないでおくものか」と帰ろうともしなかった。
余りの不思議さに「いったいどのような恨みなのですか」と尋ねると、しかじかと自分のされた折檻の様子をありのままに話した。
すると、女は、身の丈一丈ほどになり、髪は銀の針を並べたようになり、角も生えて、真っ赤な眼になり、牙がはえだした。
四郎右衛門は一目見てそのまま気を失ってしまった。
主人が来て「これはどうした」と暫くしてから正気づかせて、事の仔細を尋ねたが「斯様な姿を一目見て、夢うつつともわからなくなってしまった」と答えた。
さらに詳しく尋ねると、初めから終わりまで事細かに語った。
兵衛の次郎はこれを聞いて、どうしようかと思い患い、さらに一両日ほどすぎてから四郎右衛門を呼び、どうしようかと話し合ったが、その夜に四郎右衛門の枕元にまた女が来た。
「どのようにしようとかなうものか。日にち隔たるが一門眷属次第次第に奥方に思い知らせん」と言ったかと思うと、屋根から大きな石が落ちてきて、彼の子は微塵に砕けて亡くなった。
母は、月や花のように眺めていた一人子をこのような恐ろしい事でなくして、嘆き悲しんだが
それから打ち続き、母の一門はことごとく滅びて、遂には、母も重い病につき亡くなった。
藤原通信朝臣と呼ばれた人が常陸の守としてその任国にあった時に、たまたま任期の果てる年の四月ごろ、風が物凄く吹いて海が荒れた晩に、某の郡の東西の浜という所に大きな死人が打ち寄せられた。
死人の丈の長さは、五丈(15m)あまりもある。
砂の中に半分ほど埋まっていたが、役人が馬の背に乗って、向う側から近寄ったのが
わずかに手にした弓の先だけが、こちら側から見えた。死人は首から上が切れていて頭は無かった。
また、右の手、左の足もなかった。鰐かなにかが食い切ったものであろう。
もしも、それが五体満足であったとしたなら、さぞや驚くべきものであったに違いない。
また、うつむきに寝ていたから、男であるか女であるかもわからない。
けれども、身体の格好や肌付きなどは、女のように見えた。

国中の人がふしぎな死人だというので、見物は引きも切らず、みなみな大騒ぎした。
また、陸奥の国の海道というところにいた国司の某という人も、とんだ大きな死人が浜にあがったと聞いて、わざわざ使いの者を出して検分させた。
砂に埋もれて男女の別もつけがたいが、多分女であろう、と見たのに対し、
見物の名僧などの意見は「我等の住む世界の内に、このような巨人の住む所があるなどとは、仏のお言葉にもありませね。
もしや鬼女などではありませぬかな。
肌などもすべすべして、いやどうもそのような気がする」などと疑った。
ところで常陸の守は「これはついぞ見ぬ珍事であるから、お上にさよう申し上げずばなるまい」と言って
今にも報告を持たせて、使いを京にのぼせようとしたが、下についている者たちは「もしも報告がお上に届けば、官使がおくだりのうえ、七面倒くさい調査があるのは きまったこと。
そのうえ、官使の一行には、たいそうなもてなしをしなければならず、いっそのこと黙って知らぬ顔をしたほうが、都合がいいのじゃないでしょうか」と口々に言ったので守もその気になり報告は取りやめにしてしまった。

一方、この国に、某といわれる武士があった。
この巨人を見て「もしもこんな巨人が攻め寄せてきたら、何として防ぐ。
いったい、矢が立つものかどうか、ためしてみよう」と言って、矢を放つと、矢は深くその身体に突き刺さった。
これを聞いた人は「用心のいいことだ」と言って褒めた。
ところでこの死人は、日がたつにつれて腐って来たので、あたり十町二十町の間は、人も住めず、逃げ出した。
よっぽど臭かったものであろう。
この話は初めは隠してあったが、常陸の守が京にのぼってから、いつのまにか人に知られて、このように語り伝えられたものである。
ある若い僧が都である娘といいかよい、深い仲になっていた。親師の坊の仰せにて関東へ学問に行く事になった。
しかし、その女性に心残りがあって、暫く仮病を使っていく日を延ばしていたが、いつまでも誤魔化す事が出来ないので、しかたなく、女にそういって東へ旅立った。
女は恋悶え、袖にすがりつくようにして送り出していった。都をまだ夜の内に出て行ったが粟田口まで来た所で、空が明けてきた。
「いつまでも、尽きぬ名残ではあるが、いいかげん人の目もあるので、この辺でお帰りなさい」というと、女は前後の区別も忘れて
「今、別れろというのなら死んだほうがましです。
そうはいっても付き添っていく事も出来ません。
私が自分で首を切落としますので、形見に持っていてください」と言って、懐から小脇差を取り出した。
僧もあきれてしまったが、刀まで用意していると言う事は生きて帰らない心は本心だろうと思った。
帰りなさいと散々言ったが聞き入れず、女は雪のような肌に刀を刺した。
僧も悲しく重いながら、首を打ち落とし、屍体を埋葬して首を油単(ひとえの布に油をひいたもの)に取り包み、涙を流しながら東への旅におもむいた。

飯沼の弘経寺(茨城県水海道)の談林の一箇所に寮を決めて住んだ。
この僧が外に出て、帰ってくると必ず女の声がして、高らかに笑う事が間々あった。
隣の僧が不審に思って、隙間から覗いたがいつもこの僧一人で他に人影は無かった。
そうして、三年が過ぎた。
この僧の母親が病気になったと飛脚にて連絡があったので、僧は取りあえず、京に上った。
その後、三十日ばかりして、この僧の部屋から女の声にて泣き叫ぶ事があった。
各々肝を冷やし、寺中騒動して、この戸に鍵がかかっていたが、打ち抜いて中をみたが、人はいなかった。
小さな渋紙包みの中でその声がしていた。
怖がりながらも開いてみると、飯櫃のような曲げ物の中に若い女の首がまるで生きているかのようにしていた。
憂いた眼が涙を流し、腫れていた。
人々を見ると恥ずかしそうにしおれたが、朝日を浴びた雪のようにじわじわと色が変わっていき、たちまち枯れていった。
どのような事かは解らなかったが、僧達はねんごろに弔った。
その後、京より飛脚が来て「かの若僧、急病を患って亡くなったので寮を明け渡します」との使いだった。
各々思い合わせると、この首の泣いた日がちょうどその僧の亡くなった日だった。
NEXT
BACK
TEXT